第16話 大人になる

「なんだい? 人の顔を性犯罪者のようにジロジロ見て。なにか変な性癖にでも目覚めたのかい?」

 榊原は、持っていたジョッキをカウンターに置く。

「特になにもないさ」

 言い終わると、僕はジョッキを手に取り、三分の一ほど残ったハイボールを飲み干した。

「そういえば、君に聞きたいことがあったんだ」

 僕が言うと、榊原は不思議そうな顔をしながら煙草を咥えた。

「君はなんで小説家になろうと思ったんだ?」

 榊原は煙草を咥えたまま天井を見上げ、そのまましばらく口を噤んでいた。

「大学をやめてしばらく経った頃、とある小説を読んだんだ。タイトルも、表紙もありきたりな小説だった」

「そんな小説をどうして読もうと思ったんだ?」

 僕ならそんな小説なんて、手に取ることすらしないはずだ。

「著者に惹かれたのさ」

「そんなにもインパクトの強い名前だったのか?」

「いや、違う。洒落た名前でも、癖のある名前でもない。中学の頃まで仲のよかった知り合いの名前だったんだ」

 なるほど。ただ、中学の頃までという言い方が気に触る。

「今となっては、もしかしたらそこまで仲がよかったわけでもないような気もするが、俺たちは確かに一緒にいることが多かった。ただ、彼は中学を卒業するよりも前に、遠い街に引っ越してしまったんだ」

 気づけば僕だけでなく、マスターも榊原の話に夢中になっていた。マスターは手を止めて榊原の顔をじっくりと見ていて、僕がハイボールを飲み干したことに気づいていないようだった。早く新しいのを注いで欲しいのに。

「彼が引っ越す時、俺は一つだけ頼みごとをされたんだ。ずっと好きだった同じクラスの女に、君が代わりに想いを伝えてくれってね。正直面倒な願いだと思ったし、俺が伝える理由も、皆目見当もつかなかった。ただ、俺は彼の願いを断れなかった。優しさとかじゃない。好きな女と離れてしまうことに同情したんだ。だから、俺は彼の代わりに想いを伝えてやった。ただ、彼女の返事は期待通りにはいかなかった」

 榊原は煙草を咥えて煙を零し、寂しそうな顔をしながら何度か深呼吸をした。

「俺はそんな結果を彼に言いにくくて、ずっと黙ったままでいたんだ。彼に何度聞かれても、いつも『まだ聞けていない』そう答えていたんだ。罪悪感に殺されてしまいそうだった。でも、俺は彼が悲しむ顔を見たくなかったんだ。ただ、彼はもう気づいていたんだ。俺が嘘をついていたことにね」

 中学の時から、榊原は嘘をつくことが苦手だったのだろうか。それとも、その彼が僕と同じで嘘を見抜くのが得意だったのだろうか。まあそれはどうでもいい。

「引越し当日、別れ際、彼は俺の瞳を見つめながら、『優しさなんていらない』そう言ったんだ。そして、俺たちの関係はそのまま終わったんだ。彼がどこでどんな大人になったのかも分からないし、彼もまた、俺がどんな顔をしながら生きているのかもなにも知らない」

「それで、小説家になろうと思った理由とどう繋がるんだ?」

「本屋で彼の名前を目にした時、俺はその場から逃げ出してしまいたかった。でも、俺は内容が知りたくて堪らなかった。純粋に、彼がどんな大人になっているのか知りたかったんだ。ただ、書かれていた内容は彼についてではなくて、彼女への告白だった。あの頃自分の口からでは伝えられなかった、愛の告白だった」

 ふと、カウンターに置いてあるジョッキに目を向けると、空だったはずのジョッキにハーボールが入っていた。

 僕はそれに手をつけながら、マスターの顔を見つめる。見つめると、僕の視線に気づいたのか、マスターは僕の顔を見て優しく微笑んだ。

「その時思ったんだ。小説なら、どこにいるかも分からない人間に想いを伝えられるかもしれないってね」

「結局君が言いたいのは、篠原のことが好きだからってことでいいのか?」

 僕は半分呆れながら言う。

「ああ。その通りだ」

 榊原は悪戯に笑い、天井に向かって煙を吐き出した。

 馬鹿馬鹿しい。珍しく興味深い話だったのに、結局オチは篠原だ。

 でも、普段だったら榊原に苛々してるはずなのに、不思議とそんな感情は生まれてはこなかった。

 榊原が自分の過去を語ることが珍しかったからだろうか。榊原の過去を知れて嬉しく思ったからだろうか。

 自嘲的に笑う榊原を見て、気づけば、僕もつられて笑っていた。

「閉じ込めていた過去の話を、笑いながら語れるくらいには大人になったのかもな」

 榊原はジョッキを片手に持ちながら言った。

「まだあなたたちは子供よ。堂々とお酒や煙草を嗜むことは出来るけれど、まだ大人になりきれていないわ」

 あなたたちという言い方が少し引っかかる。

「じゃあマスターはいつ大人になったんだ?」

「好きな人がいたのよ。もう何年も前の話だけれど、高校生の頃からずっと好きだった人がいたの。今思えば単なる憧れだったのかもしれない。でも、当時の私は本当に彼を愛していたの」

 マスターの話を聞きながら、今日はやけに恋愛談が多いなと思った。ただ、マスターの恋愛談を聞くのはこれが初めてだ。

「その頃の私は、彼と付き合いたいと思ったわ。彼の恋人になって、彼のことを彼氏と呼んでみたかった。でも、それは叶わぬ願いで、想いを伝えることもなく、高校を卒業して離れ離れになってしまったの」

「なんか誰かの話に似ているな」

 僕が言うと、榊原は特になにも言うことなく僕のことを睨んだ。

「それから七年が経って、初めて行われた高校の同窓会で、久しぶりに彼に会ったの。少し大人っぽくなった彼を見て、まだ彼のことが好きな自分がいたわ。でも、もう付き合いたいだなんって思わなかったの」

 榊原があまりにも静かに話を聞いているものだから、寝ているのではないかと思ったが、彼の瞳孔は平生よりしっかり開いていた。

「彼と結婚したいって思ったわ。大人になった瞬間は分からないけど、自分も大人になってしまったと感じた時はこの時かしら」

「付き合いたいではなく、結婚したいって思った瞬間か?」

 真剣に聞いていた榊原は言う。

「ええ。私はそう思うわ」

 恋をしたことがに僕は、マスターの話の半分ほど理解出来ていなかったが、実に面白い話だった。結婚したいか……。そんなことなんて一度も考えとことがなかった。

「大人になるってどんな感じなんだい?」

「どんな感じって言われても説明が難しいわ。でも、私は大人になんてなりたくなかったから少し残念だったわ」

「大人になりたくない?」

「ええ。だって、親とか教師って、自分も子供だった時があるはずなのに、なぜか子供の気持ちを分かってくれないじゃない? 大人になったらきっと、子供の気持ちなんて忘れて、心が乏しく汚くなってしまうって考えると、いつまでも子供でいたかったわ」

「へえ。不思議だな。俺は子供の頃からずっと、大人という存在に恋焦がれていたよ」

「どうして?」

「大人になれば、馬鹿げた悩みも葛藤も簡単に解決出来ると思っていたからね」

 僕は二人の会話を黙ったままひたすら聞いていた。マスターに色々聞きたいことはあるが、今は僕が口を出す隙間はない。

「でも、二十歳の誕生日の時、無理やり十代を終わらされたような感じがして少し悲しかった。少し前まで、二十歳なんてもう立派な大人だと強く信じていたからね」

 寂しそうな顔をする榊原を横目に、僕はひたすら煙草を吸っていた。

「君はどうなんだい?」

 そんな僕に気を遣ったのか、榊原は問う。

「君と同じで、僕も早く大人になりたかったさ。でも、僕はまだ大人になんてなりきれていない自覚があるよ」

「へえ。それはどうして?」

「だって、僕には君やマスターのように過去を語る余白がない」

「でも、あなたの方がずっと榊原君より大人に見えるわ」

 マスターはそこし悪戯に笑って言う。

「マスターの言う通りだな」

 僕も同じように笑う。

 榊原は納得のいかいない顔をしていたが、反論はしてこなかった。話に夢中で気づかなかったが、榊原も僕と同じように今日は随分飲んだみたいだ。今日はもう潮時かもな。

 そう思いながら黙って煙草を吸っていると、いつの間にか榊原は眠りについていた。


 酔い潰れて寝てしまった榊原を残して一人で会計を済ましていると、白い指で小銭を数えるマスターが僕の顔を見て訝しんだ顔をしていた。

「少し痩せたわね」

 言いながら、マスターはお釣りを僕に渡す。

「昼間が忙しくてね」

「アルコールやおつまみばかりじゃなくて、ちゃんとしたご飯を食べるのよ?」

「分かっているさ。心配かけて悪かった。僕は大丈夫だから、榊原の面倒を頼むぞ」

「いつも人の心配ばかりして、自分のことを見失わないのよ。私はもちろん、榊原君もいつだって味方よ」

「ああ。ありがとう。いつも頼りにしてるさ」

 告げると、マスターは微笑を浮かべて深く頷いた。

「そういえば、犯人は見つかったのか?」

 自分でも、なんでこんなことを聞いているのかよく分からなかった。

「それどころか、まだ犯人が誰なのか分かってすらいないらしいのよ」

 その言葉を聞いて、少しだけ安堵した自分がいた。ただ、まだ犯人も分かっていないなんて、この国の警察はなにをしているんだろう。

「まあいい。じゃあ、また明日来るよ」

 言うと、マスターは微笑みながら手を振った。それを見て、僕は店を出た。

 外に出ると、僕は早足で榊原が働いている駅前のコンビニに向かった。マスターに勘づかれないように、なにか栄養価の高いものでも買おうと思ったからだ。

 余談だが、夜中にコンビニに行くことが、僕は割と好きな人間だ。

 騒がしい客もいないし、揚げたての唐揚げから香る脂の匂いもないし、深夜に出勤している店員は基本的に全ての煙草の銘柄を暗記している。そのため、わざわざ番号で言わなくて済む。

 僕はお菓子と数個のおにぎりを取り、誰もいないレジの前に並んだ。

 しばらくレジの前で待っていると、若い女性店員が慌てるように僕の前に姿を現した。

 彼女は一つ一つ丁寧にバーコードを読み取っていて、その姿を見ながら僕は数回欠伸をした。眠気は限界を迎えていた。今なら立ったまま寝れそうだ。

「今日も榊原さんと飲んでいたんですか?」

 眠気と戦っている僕に、バーコードを読み取りながら彼女はそう言った。

「そうだけど。ところで君は?」

「最後に会った時は髪が長かったので、もしかしたら気づかないかもしれないと思っていましたが、本当に気づかないとは少し悲しいです」

 僕は、半分ほど機能していない記憶を辿る。

「ああ。今気づいたよ。そうか。君か。随分と短くなったね」

 言うと、彼女は手を止めて満足そうに微笑んだ。

「夏の思い出になると思って思い切ってみました。どうですか? やっぱり、長かった時の方が好きですか?」

 彼女は僕を見つめ、恥ずかしそうな顔で何度も瞬きをしながら言った。

「よく似合っているよ。僕はこっちの方が好きだ」

「本当ですか? それならよかったです」

 言いながら、彼女は僕にお釣りと領収書を差し出した。

 僕はそれをポケットにしまい、商品をビニール袋に詰める彼女の髪の毛を眺めていた。

「榊原さんに、あまり飲み過ぎないでと言っておいてくださいね」

「ああ。言っておくよ」

 僕は少しだけ頬を緩めながら言う。

「詩季さんもですよ。お酒も煙草もほどほどが一番です」

「ああ。君の言う通りだな」

 言いながら、僕はビニール袋に手をかける。

「また来てくださいね。詩季さんと話している時間が好きなんです」

「ああ」

 そう言い、僕は店を出た。

 外に出た瞬間、僕の頬に冷たい夜風が触れた。

 その風によって乱れた前髪を直したあと、僕はゆっくりと歩き始めた。

 常夜灯に照らされた夜道を歩きながら、先ほど買ったおにぎりを食べながらふと思う。

 あと何回彼らに会えるのだろうか。何回榊原の話を聞けるのだろうか。ただ、どちらもそう多くない。それだけは確かだ。

 秋の足音はもう、確かに聞こえ始めている。

 ああ。僕はもうすぐ死ぬのか。死ぬことに恐怖はないが、榊原の話を聞けなくなるのは少しだけ残念だ。明日は今日よりもう少しだけ長く酒場にいようか。

 そんなことを考えていると、無性に眞白と話がしたくなって、僕は歩くスピードを少しだけ早めた。

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