第15話 小説家と過ごした頃

 自分を偽ってから数年、僕はほんの少しの淡い期待を乗せて高校生になった。

 高校生になれば、少しだけ罪の意識が薄れるかもしれないと、なんの根拠もなくそう思っていた。

 ただ、高校生になってしばらく経っても、僕の日常はなにも変わらなかった。

 相も変わらず僕は罪に溺れたままだったし、それを慰めてくれる友人もいなかった。

 誰かに慰めてもらいたいわけではい。慰めてもらったところで罪は変わらないからだ。ただ、僕は少しでも気を紛らわせてくれるような人が欲しかった。

 ただ、こんな性格だ。友人の作り方も知らないし、いつも俯いて生きている僕に話しかけるような人間もいない。

 僕はただ、誰かに引かれた線の上を、どちらが正解かも分からずに、ひたすら孤独に歩き続けることしか出来なかった。

 分かっていることがあるとするのなら、僕が歩いている道は正解ではないということと、もう後戻りは出来ないところまで来てしまっているということくらいだ。

 放課後、自室に篭りながらそんなことを考えていると、僕の体は無意識に動いていた。

 家を飛び出してはひたすら歩き続け、気づけば、踏切の前に立っていた。

 ああ。そうか。僕の精神は、僕が思っているよりもずっと壊れていたのか。そうかそうか。

 僕は自分自身に呆れ、その場に佇みながら大きな声で笑った。

 笑いながら、僕はゆっくりと足を動かし、遮断桿を潜り、線路の上に立つ。

 僕が死んだら、一体どれだけの人が悲しむのだろう。そんなことを考えたが、どれだけ思い浮かべても片手で数えるほどしかいなく、悲しくなって考えるのをやめようと思ったが、下手したら一人もいないのかもしれないことに気づき、僕はさらに死にたくなった。

 ただ、そんな悲しいことを考えながら死ぬのは、流石に嫌だったため、やっぱり考えるのをやめることにした。

 そんなことを思っている時だった。


「死んだら楽になるとでも思っているのか?」


 線路の上に佇む僕の鼓膜に、そんな言葉が届く。

 振り向くと、そこには背の高い男性が僕を見つめていた。

「さ、今すぐこっちに来るんだ」

 僕はなにも言わず彼のことを見つめたままだった。

「僕にならなにか出来ることがあるかもしれない。だから、こっちに来るんだ」

 彼の穏やかな声が心の微に入り細を穿ち、気づけば、僕はその場で涙を流していた。

「……僕を助けてください」

 僕は無意識にそんな言葉を零していて、その姿を見た彼は僕の手を優しく引いて、僕を線路の上から下ろした。

「分かった。とりあえず場所を変えよう。すぐ近くに僕に家があるから、そこで話そう」

 彼は僕の手を離さずに言い、返答も聞かずにそのまま手を引いて歩き出した。

 洒落たエントランスが特徴のマンションの一室で彼は一人暮らしをしていて、部屋の雰囲気は彼のように落ち着いていた。

 部屋に入ってすぐに、彼は僕をリビングに置いてあるソファーに座らせたあと、シナモンティーを淹れてくれた。

 鼻に抜ける独特な香りに僕は癒され、罪悪感から目を逸らさせてくれているようだった。

「君はこのままどうしたい?」

 シナモンティーの香りを嗅ぐ僕に、彼は聞く。

「分からないんです。死んでも楽にならないのなら生き続けるしかないですけど、生きる希望もなにもないんです」

 僕はシナモンティーが入ったティーカップをテーブルに置き、彼の瞳を見つめる。彼の瞳に映る僕が、やけに矮小に見えて悲しくなった。

「そうか。それなら、君に一つだけ頼みたいことがある」

「なんですか?」

「僕の仕事を少し手伝ってくれないか? 別に難しいことをさせるわけじゃないよ」

 僕は理解が追いつかず、黙ったまま彼を見つめていた。

「僕は小説家なんだ」

 彼は頭を掻きながら恥ずかしそうに言う。

「恥ずかしい話だけど、このままだと締め切りに間に合いそうにないんだ。だから、君に家事を任せたい」

「家事ですか……?」

「そう。その分僕の時間が空くし、君もやらなければいけないことが出来るだろう?」

 僕は黙ったまま頷く。

「いくらでも家にいて構わないし、自分の分のご飯だって作っていい。僕のご飯を作ってくれるならね」

「でも、迷惑じゃないんですか?」

「迷惑だなんて微塵も思わないさ。むしろ助かることばかりだ。ほら、あとは君がどうしたいかだけだ。じっくり話したいとこだが、あまり時間がないから早めに決めてもらえると助かるよ」

 僕はこの時、彼の本当の優しさにはまだ気づいていなかった。

 あの時死のうとしていた理由も、涙を流していた訳も、彼はなにも聞かず、僕に生きる理由を与えてくれた。

「役に立てるか分からないですけど、僕からもお願いしたいです」

 言うと、彼は満足そうに微笑んだ。

 それから、僕は学校が終わると早急に彼の家に向かっては、夜遅くまで家事を手伝った。

 そんな生活を続けていくにつれ、いつしか僕は自分の死について考えなくなっていた。

 不思議な感覚だった。彼は特別なにかをしてくれたわけでもないのに、僕の罪悪感が彼に吸い取られたような感覚だった。

 いつしか僕は彼を尊敬するようになり、彼みたいな大人になりたいとも思うようになった。

 パソコンに向かってひたすら小説を書く彼の後ろ姿に、僕はいつも釘付けだった。

 思春期の思い出を語るとするのなら、僕は彼のことだけしか語ることが出来ない。それくらい、彼という存在は偉大で僕の全てだった。

 そうやって僕は彼のために毎日を過ごし、気づけば五年以上の月日が流れていた。

 五年という月日の間に、彼は小説家として名を上げ、メディアに出ることも多くなった。

 ただ、彼が有名になっていくにつれ、僕は彼に違和感を覚えるようになっていた。

 ただ、違和感が確信に変わった時にはもう手遅れだった。


 その時にはすでに、彼はこの世からいなくなっていたのだから。


 相も変わらず大学終わりに彼に家に向かうと、いつもはパソコンの前にあるはずの彼の姿が見当たらなかった。

 彼は普段出かけることはないし、それに、今は締め切りが近く、出かけている余白なんてない。

 僕は家のどかかにいるだろうと思い、彼の名前を呼びながら家中を探し回っていた。それでも、彼の姿はどこにもなかった。

 もしかしたら、気分転換に珍しくどこかに出かけているのかもしれない。そう思い、僕は彼のいない部屋でひたすら帰りを待っていた。

 何時間、僕はこの部屋で待っていたのだろうか。気づけば日付が変わっていて、僕はそのまま眠気に負けて眠ってしまっていた。

 ただ、目を覚ましても彼の姿はなかった。

 僕は嫌な予感がし、パスワードのかかっていない彼のパソコンを開く。

 この時、なんでパソコンを開いてしまったのか、僕もよく分からない。なにかに取り憑かれたように、はたまた、彼に誘われたように、僕は無意識にパソコンを開いていた。

 開くとすぐに、びっしりと書かれた文字が目に入った。

『まず最初に、君には謝らなければならない。あの時あんなことを言ってしまったのにね。ただ、言い訳をさせて欲しい。僕は楽になりたいわけじゃないんだ。ただ、世界が怖くなっただけさ。変わり続ける世界の中で、変わらずひたすら小説を書いているだけの自分が悲しく思えたんだ』

 僕は固唾を飲みながら、ゆっくりと彼の言葉を噛み締めながら読み進める。

『君はもう、あの時の君ではない。ただ、僕はいつまでも僕のままだ。このままなにも変わらずに老いて死んでいくのなら、いっそのこと今燃え尽きた方がいい』

 気づけば僕の体は震えていて、彼の言葉を読むのに躊躇っていた。これ以上読んでしまったら、僕が僕でいられないような気がしたからだ。それでも、僕は彼の言葉を読むことしか出来なかった。

『君にお願いしたいことがある。あの日の君のように、もしどこかに困っている人がいたら、君の手で救ってあげて欲しい。それだけで僕も救われる』

 気づけば、僕の頬が涙で濡れていた。

『もう朝が来てしまうし、これで最後にするよ。あの日の君の涙を、僕は今でも覚えている。君と過ごした時間も、君がしてくれたことも、ずっと覚えている。だから、僕のこともいつまでも忘れないで欲しい』



     *



「それから数日後、遠く離れた街の線路の上で彼の遺体が見つかったんだ」

 あの日、僕は唯一の希望を失い、同時に生きる意味もなくしてしまった。

「彼のいない世界に、僕は生き続ける意味がない。それに、僕は彼の背中を追わなければいけないんだ」

 僕は煙草に火をつけ、何度も大きく煙を吐く。

「死んだところで楽にならなくても、僕は自分を殺すよ。それに、楽にならないとも限らないしな」

 眞白の瞳に映る僕は、彼の瞳に映っていたあの頃の僕のように情けなかった。

「もしかして、初めて会った時って……」

「ああ。彼の葬式帰りだったよ」

 あの大雨の日は彼の葬式が行われた日だった。

「喪服だったのによく話しかけたな」

「喪服じゃなかったら、もしかしたら話しかけていなかったかもしれません」

 言い終わると、眞白はもう一度鼻を噛んだ。

「どういうことだ?」

「だって、誰かの死を経験している人ではないと、私の話なんて聞いてもらえないような気がしたんです」

 そういうことか。それは同意見かもしれない。

「一緒に楽になりましょうね」

 眞白は、まるで玩具を親にせがむ子供のように僕を見つめる。

「そうだな」

 ようやく涙が止まった眞白の顔をしっかり見ながら、僕はそう言った。

 秋が近づいて少し気温が落ち着いた、そんな夏の日のことだった。

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