第14話 波の音を聞く
「話してくれてありがとう」
想像を遥かに超える眞白の告白を聞き終わったあと、無意識に僕はそう言っていた。
「いえ。こちらこそ聞いてくれてありがとうございます。あと、帰る場所がないって嘘をついてしまってごめんなさい」
眞白は瞳に滲む涙を袖で強引に拭き取り、僕を見て微笑んだ。
僕はテーブルに置いてあるちり紙を二組取り、それを眞白に差し出した。
「辛かったな」
「はい。とっても」
音を立てて鼻を擤みながら、眞白は深く頷く。
あの時、眞白が嘘をついていただなんて思いもしなかった。嘘を見抜くのが得意な僕に、嘘を貫き通せるなんて大したものだ。
「もう楽になろう……。二人で楽になるんだ」
「どういうことですか?」
「全てに終止符を打つんだ」
「死ぬということですか?」
「ああ」
言うと、眞白は鼻を擤んだちり紙を、わざわざ立ち上がってゴミ箱に捨てにいった。「いいですね。でも、一つだけお願いがあります」
眞白は言いながら僕の隣にまた座り、僕の顔を覗き込んだ。
「なんだ?」
「詩季さんが死にたい理由を教えてください」
「ああ。そんなことか」
僕は煙草を一本手に取り、咥えながら言った。
「この話をするのは初めてだから、あまり上手く話せないかもしれないけど我慢してくれ」
僕は天井を見上げて深く息を吸い込み、それを吐きながら、もう一度眞白の顔を見つめた。
*
今から約九年前、齢十二の夏。
灼熱の太陽のせいで、空すらも紅く見える暑い日のことだった。
どれくらい暑いかというと、体内に流れる血液や、目の前に広がる海水が沸騰してしまうのではないかと思うほどだった。多分、榊原と出会った日よりも暑かったような気がする。
この日、僕は家族で静岡県にある海水浴場に来ていた。
「なあ」
砂浜に敷いたシートの上で遠くに見える沖を眺めていると、僕より八歳年上の兄が話しかけてきた。
「今からどこまで遠くに行けるか試すから、そこから俺を見守っててくれないか?」
兄は僕の顔を覗きながら、人差し指で沖を差しながら言った。
「見守るって……。兄さんは見守られるような年齢じゃないだろう? こんな年下の弟に見守ってもらうだなんて、恥ずかしくないのかい?」
僕は、兄の言葉に呆れながら自嘲的に笑って言う。
大人ではないが、もう子供とも言い難い年齢なのに、いつまでも兄は馬鹿げたことだけを考えては、その度に僕も巻き込む。
「海を舐めていたら駄目だぞ。それに、今日は少し波が荒い」
「そんなに危険ならやめればいいじゃないか」
「馬鹿言え。今年の夏が終わったら俺は日本を出るんだ。静岡のビーチを味わえるのはこれが最後なんだ。今行かないと確実に、夜になると空が暗くなるくらい確実に後悔する」
僕よりずっと年上なのに、兄の幼稚な性格には酷く呆れる。だが、無理やり止めて後々愚痴を言われるのも腑に落ちない。
「分かったよ。行きたきゃ行けばいい」
言うと、兄は満足気に笑ったあと、僕に背を向けて海に向かって走り出した。
僕は大きな溜息を零しながら、シートの上で横になって、ゆっくりと離れていく兄を眺めていた。
しばらく遠くなる兄の姿を眺めていると、次第に強烈な眠気が僕を襲い始めた。
午前中、兄に無理やり連れられて、遊び過ぎて疲れたせいだろうか。それとも、背中に触れる心地いい暖かい地温のせいだろうか。
気づけば、僕は誘われるように群青色の空の下で眠っていた。
今思えば、この時の僕は信じられないほどに愚の骨頂だった。
恥ずかしさのあまり死にたくなるほどで、情けないにも程度がある。
「……起きなささい。ねえ……」
僕はその言葉で目を覚まし、飛び上がるように起き上がると、真っ先に、寝る前にはあった白鳥色の大きな雲がないことに気づく。
ゾッとするほどの違和感と恐怖心が、僕の胸に疼いていた。
「詩季はどこに行ったの?」
母は僕の肩を強く握り、険しい顔をして言った。
「沖の方に……」
震える声が、荒れ狂う波の音に掻き消されてしまいそうだった。
僕の言葉を聞いて母はさらに険しい顔になり、僕の恐怖心は限界を迎えていた。
この日、僕が灼熱の陽光の下で眠っている間、兄は遠く離れた沖で、高い波に飲まれて溺れてしまったのだ。
僕がもし寝てしまわなかったら、兄は助かっていたのかもしれない。なにもなく、遠く離れた地に予定通り留学していたかもしれない。
そもそも、あの時兄を止めていたら……。
浮かび上がる後悔は枚挙に遑がなかったが、今更後悔したところでなにも戻ってこなかった。
遠く離れた沖で見つかった兄の心臓は、その時すでに動いていなかった。二十一グラムばかりの魂がないだけで、兄の温もりはもうどこにもなかった。
安らかに眠る兄の瞳が、僕のことを睨んでいるような気がした。
僕はその瞳から目を逸らすように、海のような空と空のような海を交互にひたすら眺めていた。そうしていないと、本当に壊れてしまいそうだった。いや、もうこの時にはすでにボロボロに壊れてしまっていた。
その日から、僕は自分が犯した罪に囚われて生きていくことになる。
僕が悪いわけではないと慰めてくれる人も数人いたが、それでこの痛みが癒えるわけではない。
だって、僕は一人の人間を、この世でたった一人の兄を殺したのだ。
友人からの熱い信頼に、生まれながらにして恵まれ過ぎた才能。消して慢心もしないし、傲慢になんてならない。誰からも好かれ、憧れられる。僕が持ち合わせていないものを全て持っていた兄を、こんな平凡な僕が殺したのだ。
そして、いつしか僕は自分を偽るようになった。
理由はよく分からないが、自分の名前が酷く汚らわしいもののように思えて、自分の名前を名乗るのをやめ『詩季』と名乗るようになった。
多分、この世界から自分を消したかったのだ。自分の名前を呼んでくれる人がいないのなら、それはもう死んでいるのと変わりないと思ったからだ。
それに、そうすることで、少しだけ罪悪感から逃げれたような気がしていた。実際そんなことなかったのだが、兎にも角にもあの日、兄を殺した僕は僕を殺した。
*
「失望したかい?」
僕は恐る恐る聞く。
「……失望なんてするはずがありません」
唇を強く噛み締めたせいか、眞白の唇には若い紅い血液で濡れていた。
「私は嬉しいんですよ」
眞白は唇の流れる血なんて気にせずに言う。
「意味が分からないよ」
眞白の言葉はもちろん、なんでそんな澄んだ瞳をしているのか、僕には理解が出来なかった。
「詩季さんの話が聞けて。詩季さんと仲間で」
眞白はちり紙を一枚手に取り、大きな音を立てて鼻を擤みながら言う。
「仲間?」
「はい。過去を早く忘れて幸せになりたい仲間です」
なるほどなと、僕は思った。
「襲いかかる罪悪感から何年も逃げるのは辛かったですか?」
「まあね。よく十年近くも耐えれたと思うよ」
ヘミングウェイは言った。
『あちこち旅をしてまわっても、自分から逃げることは出来ない』
僕はどれだけこの世界の端に行こうとも、兄を殺したという事実からから逃れなれなかった。
罪はいつも、僕の肩にしがみついていた。離れようとなんてしてくれなかったのだ。
「そう言えば、もう一つ聞きたかったことがあります」
「なんだ?」
「なぜあの日、すんなりと私を家に泊めてくれたんですか?」
過去の話を語るのは、やっぱり好きではない。過去を語ったところで、現在と未来のなにかが変わるわけではないからだ。
ただ、眞白には話しておくべきだと思った。
それに、眞白が知りたいと願うなら、僕は期待に応えるだけだ。
それより、僕のことを躊躇いなく『詩季』と呼び続けてくれる眞白に、僕は感謝していた。そう呼ばれ続ける限り、僕はこの世界にいないことになるからだ。
ただ、いつか眞白は僕の名前を聞いてくるかもしれない。もしそんな時が訪れたら、僕はもしかしたら、また嘘をつくのかもしれない。眞白には悪いが、僕は僕でいたくないのだ。
ただ、今はそんなことなんて考えていないで、僕の話をしないといけない。
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