第13話 凄い雨
帰宅すると、眞白は相も変わらずソファーの右隅に座りながら本を読んでいた。
「おかえりなさい。今日は随分早かったですね」
僕の存在に気づき、眞白は驚いたような顔で言う。
「今日はあまり飲む気になれなくてね」
「体調でも悪いんですか?」
「そんなとこさ」
僕は言いながら、眞白の隣に腰をかける。
腰をかけてすぐに、テーブルに置いてあった煙草を一本手に取り、ライターで火をつける。勢いよく吸ったものだから、咽せてしまいそうだった。
眞白はそんな僕に気にかけることなんてなく、一心に本を読んでいた。
気になって本の表紙を覗き込むと、宮沢賢治のセロ弾きのゴーシュだった。宮沢賢治の著作の中で、僕が一番好きな物語だ。
半分まで吸ったところで、僕は煙草を灰皿に捨てた。
そして、
「……罪悪感はあるのか?」
まるで、友人に好きな本はなにかと問うように、眞白にそんな言葉をかける。
眞白は読んでいた本を栞を挟まずに閉じ、それをまるでドミノを並べるかのように、テーブルの上に静かに置いた。
「はい。もちろんです」
眞白は僕の顔を見て、迷わずそう言った。
「やっぱり君が起こした事件だったんだな」
「よく気がつきましたね」
「割と簡単だったよ」
言いながら、僕は二本目の煙草に火をつける。
「どうしますか?」
「なにをだ?」
「警察に通報しますか?」
「そんな面倒なことしないさ」
通報したところで、僕も犯人蔵匿罪で捕まってしまう。そんなのまっぴら御免だ……。なんて理由は冗談で、正直面倒くさいだけだ。
それに、眞白がなんの理由もなく殺す快楽殺人鬼とも思えない。殺さなければいけない理由があって殺したのなら、眞白が正義だ。
そもそも、僕にそんなことをする資格がないのだけれど。
「それより、なんで殺したか聞かせてくれないか?」
「嫌だと言ったらどうしますか?」
眞白は意地悪な顔をする。いつもは僕がしていたから、そのお返しだろうか。
「嫌なら無理に聞こうとはしないさ」
「優しいんですね。でも、流石に正直に話します。いずれ話すと決めていましたから」
「ありがとう。そうしてもらえると助かるよ」
『罪を犯すという行為は、例えばどんな理由であっても赦されてはいけないものだ』
榊原の言葉だが、僕はその言葉に対しては少し納得がいかない。しなければいけない状況や、そうするべき瞬間があると思うからだ。
普段なら、誰かが誰かを殺した理由なんて興味なかったが、眞白の話くらいは聞きたいと思った。理由はよく分からないが、兎にも角にも、僕はそう思った。
眞白は深く深呼吸をしたあと、ゆっくりと口を開いた。
「産まれた時から、私は右耳が聞こえませんでした」
突然の告白に僕は口を噤む。動機を聞きたかったのだが、こんな始まりだとは全く予想していなかった。
「なぜそうなってしまったのか、原因は不明です。ただ、聞こえないという事実だけがいつだって転がっていました。片耳が聞こえないということは、音を立体的に聞き取ることは出来ませんし、そもそも正常に聞こえる人間の半分しか音を聞き取ることが出来ません。話しかけられても上手く聞き取れず、聞き返してしまうことが多く、そのせいで私には友人と言える人間はいませんでしたし、そもそも作ることを諦めていました。いえ、作ること自体赦されていませんでした。親しい人間が多ければ多いほど、私はその分誰かに迷惑をかけますし、正常な人間に対する嫉妬という思いが強くなります。まだ早熟な子供だった私は、齢十四で自分が不幸な人間なんだと思うようになりました。片耳が聞こえない障害者というだけで、私を見下す世間に、腫れもののように扱う両親。自分を棚に上げるだけの中途半端な聖人から優しくされる度に、まだ中学生の子供だった私は、なんでこんな世界に生きているのだろうと思っていました。こんなに辛い思いをして、苦しい思いをしてなにを目標に、なにを求めて生きているのだろう。夜の帳、そんなことを考えると、毎晩のように枕を生暖かい涙で濡らしていました」
話を聞きながら、眞白がいつもソファーの右隅に座っていたことを思い出す。僕が隣に座るかもしれないことを仮定して、いつも右隅に座っていたのか。
僕が帰宅したことに気がつかなかったのも、ただ単に忘我していただけでなく、音が聞こえなかったからなのかもしれない。
「私はこの先一生、この聞こえない耳に悩まされて生きていくのだと。正常な人間を恨みながら孤独に生きていくのだと。将来を考える歳になるにつれ、そんなことを思うようになりました。そんな時に出会ったのが彼です。彼は私より一つ年上のせいか、随分と大人っぽく見えて、色気のある人でした。そんな彼との出会いは、平凡でなんの魅力もない大学の図書館でした」
*
あの日嗅いだ桜と勿忘草の匂いを、今でもよく覚えています。古本の独特な匂いも、館内に流れていた陽気な音楽も、窓から差し込む日差しの強さも。いくら時間が経っても、忘れたいと願っても、私の記憶から消えることはありませんでした。
あの日、私は無性に太宰治の本が読みたくなって、大学の図書館に訪れていました。
講義も全て終わったため、時間は膨大にありましたし、意味もなくとりあえず書架の間を歩いていると、視界の先で、椅子に腰をかけて本を読んでいる彼を見かけました。
細くて骨ばった白くて色気のある手に、少し癖のある長くて艶のある焦げ茶の髪、本を見つめる寂寞とした瞳。気づけば、明るい午後の日差しに照らされる妖麗な彼に、私は釘付けになっていました。
胸の柔いところを握り締められて、その場から動けなくなっていた私に彼は気づき、不思議そうに言葉を紡ぎました。
「本は好きかい?」
ハスキーで落ち着いた穏やかな声に、まるで音楽を聴いているかのように、私の鼓膜は癒されました。
私は慌てるように頷くと、
「『よき書物を読むことは、過去の最も優れた人達と会話を交わすようなものである』デカルトの言葉だが、そんなことを友人から言われてね。それから本を読むようになったんだけど、よき書物がなかなか見つからなくて困っているんだ」
後に知ることになりますが、彼は語尾に『ね』を付けるのが癖でした。
「なにかおすすめの本はないかい? 生憎、僕はまだ本を読むことがそこまで好きではないんだ」
彼は困ったような顔で、淡々と告げました。
さて、どうしたものでしょうか。私は、誰かにおすすめの本を紹介するのが好きではないのです。引かれてしまうのではないかと、そんな些末な理由でもありますが、心の中を見られているようで嫌でしょうがないのです。そもそも、誰かにおすすめの本を紹介する機会なんて滅多にないのですが。
「……太宰の本はどれもおすすめです」
このまま答えられずに黙っているのはどうかと思い、曖昧模糊とした回答ですが、私は不承不承に告げました。
「そうかい。それなら、その中でも特におすすめの物語はあるかい?」
まるで、私の心の中を見透かされている気分でした。ああ。でも、不思議と彼なら嫌ではありませんでした。
彼の瞳が、妖麗さえも覚えるほど美しかったからでしょうか。それとも、この時にはもうすでに、彼に惹かれていたからでしょうか。
「……女生徒です」
太宰の物語の中で一番を決めろだなんて無理難題ですが、私は迷わず答えました。彼に女生徒を読んでもらいたかったからです。
「そうかい。それなら、今日はそれを借りてみようかね。ありがとう。助かったよ」
彼は満足そうに微笑みながら言い、ゆっくりと立ち上がり、私の顔を微笑みながら数秒間見つめました。異性にこんなにも近くで自分の顔を見つめられたのは、生まれて初めてで、心臓の音を聞いたのも初めてでした。
彼に私の鼓動が聞かれていたらどうしよう。そんな滑稽なことを考えていました。
「そうだ。読み終わったら、君に感想を言いたい。またここに来るかい?」
私は深く頷き、その姿を見て彼はもう一度微笑み、背を向けて私の視界から消えていきました。
まるで夢のような刹那でしたが、それから私たちは毎日のように顔を合わせるようになり、本の話以外にもお互いのことも語るようになり、出会ってから半年後には彼と付き合うことになります。
彼に愛の告白をされた時、私は素直に嬉しくて、自分は幸せな人間なんだと信じていました。
生まれた時から不幸を背負っている私が幸せになれるはずなんてないのに、そう信じていました。
生まれて初めての恋でしたから、信じてしまうのはしょうがないことなのかもしれませんが、もし、この時そう信じていなかったとしたら、私は誰も殺さずに済んだのでしょうか。
でも、私がこの時なにも信じていなく、その上で彼の告白を拒んでいたら、詩季さんとも出会っていなかったはずです。
彼と付き合ってから、私は生まれ変わったかのように、笑顔の絶えない毎日を送っていました。
彼は面白い人で、いつも私を笑顔にさせてくれたからです。
特に彼は芸能人の真似をするのが得意で、彼が誰かの真似をする度に、私はお腹を押さえながら笑っていました。
あの時の私は素直に笑うことが出来て、ずっとこの時間が続けばいい。そんなことを願ったりもしていました。
彼は居酒屋でバイトをしていて私よりずっとお金を持っていましたが、彼は特に物欲もなかったため、休日にはよく、私を色々なところに連れて行っては、私の知らないものを教えてくれました。
今までに見たこともない綺麗な景色、ラストシーンで気づけば涙を流してしまっていた映画、遊園地の楽しみ方。
彼が隣にいたから、どんな時間を過ごしても幸せでした。
そして、私が笑う度に彼も優しく微笑みながら、大きな掌で私の頭を撫でてくれました。
ああ。私はこの先もずっと、彼と一緒に同じ時間を共にするのだろう。彼と付き合ってから半年が経った頃には、毎日そう思っていました。
ですが、いつまでもそんな幸せな日々が続くはずがありません。
『恋は花のようだ。満開の時は美しいが、枯れるのは一瞬で、いつまでも満開のままではいられない。いくら水をやっても、いつかは必ず枯れてしまう時が来る』
昔読んだ本に書いてあった言葉ですが、この言葉のように、私たちの関係が枯れるのは一瞬のことでした。
彼の違和感に気づいたのは、彼と出会ってから一年と少しが経った時のことでした。
大学の食堂でいつものように昼食を共にしている時、彼の瞳に迷いが見えたのです。心もここに在らずでした。
体調でも悪いのかと聞いてもそうでもないらしく、私はさらに訝しんでいました。
明日には治るだろう。明日になったら、また、いつもの彼に戻っているはずだ。なんの根拠もないのにそう思っていました。
ですが、明日が訪れても、彼の瞳から迷いが消えることはありませんでした。
ぎこちない笑顔、少しだけ素っ気ない返事、明後日の方向を見つめる視線。日が経つにつれ、彼は今までの彼ではなくなっていきました。
まるで、私の気づかないうちに彼が別人になってしまったかのように、今までの彼はどこにもいませんでした。
そして、私も同じように別人になったかのように、笑顔が消え、自分のことを幸せな人間だと思わなくなっていました。いえ、ただ単に前の私に戻っただけです。
悪い夢でも見ているようでした。私はこんなにも彼を愛しているのに、彼は私のことを愛していないようでしたから。
いつの日か、私は心配になって彼に聞いてみたことがありました。
「私のこと好き?」
恐る恐る聞くその声が、彼に聞こえているか心配でした。ですが、今の私にはこれ以上大きな声は出そうになかったのです。
「もちろん好きだよ」
彼が嘘をついていることは、すぐに分かりました。本当に私を愛しているのなら、こんな顔をして伝えるはずがないですから。
この日から、私は彼のことを観察することにしました。観察といっても、バレてしまうのが怖かったので、深くまでは観察せずに、まずは私に見せる彼の言動だけを観察することにしました。
ですが、得られた情報は一つもありませんでした。
その上、彼は日に日に冷たくなるばかりでした。
前のように私を笑わせてくれることも、目を見て優しく相槌を打ちながら話を聞いてくれることも。休日は必ずといっていいほどどこかへ出かけていたのに、彼はバイトが忙しいからと、私が誘ってもそう断るようになりました。
そんな風に過ごしているうちに、私自身も彼への想いがよく分からなくなっていきました。
このまま曖昧な関係を続けていても、益体も未来もない。心から彼を愛しているはずなのに、私は自分を偽るように、強がりでそう思うようになりました。
願うなら、いつまでもそばにいて欲しい。囁くような優しい声で、私の名前を呼んで欲しい。握った手を、いつまでも離さないで欲しい。
でも、愛してくれない彼と曖昧な関係を続けているのは、もう限界でした。
この時、私は自分自身を偽らずに、彼が元の彼に戻るまでひたすら待ち続けていたら、こんなことにはならなかったのでしょうか。なにも知らずに済んだのでしょうか。
彼が別人になってから一ヶ月半、私は彼に自分の想いを伝えたあとに別れ話を告げようと思い、バイトが終わるまで、彼が働く居酒屋の前でひたすら待っていました。
緊張で何度も腕に巻いた時計で時間を確認したり、上手く笑えるように、手鏡に自分の顔を映して何度も笑顔の練習をしたりして、彼がお店から出てくるのを待っていました。
ですが、いつもならとっくに上がっている時間になっても、彼は私の前に姿を現しませんでした。
もしかしたら、忙しくて上がれない状況なのかもしれない。私はそんな淡い期待を持ち、それから三十分ほど店の前で佇んでいました。ですが、彼は一向に姿を見せませんでした。
『バイトをしている姿を見られるのは恥ずかしいから、出来ればバイト先には来ないで欲しい』
彼がよく言っていた言葉ですが、いくらなんでも私も限界を迎え、店の中へ足を踏み入れました。
一通り狭い店内を見渡すも、彼の姿はありませんでした。まるで、最初から全てが夢だったかのように。あまりにも長い悪夢の中を彷徨しているかのように。いつも隣にいた彼が、そこにはいませんでした。
私は気になって若い女性の店員に彼のことを聞くと、彼女は訝しんだ顔をしたあと、穏やかな口調でこう答えました。
彼は一ヶ月以上も前にやめていると。
私は重い足取りで外に出て、そのまま宵闇の中を彷徨っていました。
途中、暗闇の中で光り輝く自動販売機を見つけ、そこで缶コーヒーを買い、それを両手で温めながら、気づけば涙を流していました。
この先、私はどうしたらいいのだろう。どう生きればいいのだろう。
夜の帳、誰もいない静かな街に佇む街路樹の前で、涙を流しながらそう思っていました。
彼と出会う前に、私は死んでおくべきだったのでしょうか。最初から、生まれてこなければよかったのでしょうか……。
そう思っていた時でした。
遠くの方から、聞き覚えのある笑い声が鼓膜に届きました。最初は似ているだけだろうと思っていましたが、何度も聞いた声です。間違うはずがありません。
彼は誰かと笑い合いながら、ゆっくりと私の方へ向かってきました。
私の心臓は早鐘を打ち、それと同時に、彼を見つけられた嬉しさと、彼が少し前の彼のように大きな声で笑っていることに、思わず安堵していました。
もう少し近づいたら、彼の前に飛び出して驚かせよう。彼はどんな反応を見せるのでしょうか。笑ってくれるでしょうか。悪戯を企む子供のように、物陰に隠れながら滑稽で幼稚なことを考えていました。
少しずつ、それでも確かに、彼は一歩一歩私に向かっていました。
そして……。
「こんなところでなにをしているんだ?」
私は姿を見せると、彼は軽蔑するような瞳でそう告げました。ですが、私はそんな顔なんて気にもせずに、彼の隣にいる女性を睨むように見つめていました。
「あなたこそなにをしているの?」
告げると、彼は私から目を逸らし、その女性の横顔に目を向けたまま黙っていました。
「ねえ。答えて。その人は誰なの?」
私は、彼の掌を握る女性に指を差しながら言いました。
彼はそれからしばらく黙っていて、その女性も私も、彼の瞳だけを見つめながら返答を待っていました。
「すまない。ずっと言おうか迷っていたんだ」
「ずっとっていつからなのよ……」
私は涙を堪えながら、それでも彼の鼓膜に届くように言いました。
「……二ヶ月前、君にあの話を吐露された時からさ」
息を吐くように告げた彼の言葉が、私の胸の柔いところに突き刺さりました。
ちょうど二ヶ月前、その日は、私が初めて自分自身が障害者だと彼に告白した日でした。
「なんで……。あの時、あんなこと言ってくれたじゃない……」
あの日、彼はそんなことなんて気にしないと、真っ直ぐに私を見てそう言ってくれました。ですから、私はずっとその言葉を信じていました。
「君の話を聞いてしばらく考えたんだ。君とこのまま一緒に過ごしたとして、いつかは結婚して、子供が産まれて。そういう未来を考えた時、自分の子供が、君の障害を遺伝してしまうかもしれない未来が怖くなったんだ。黙っていたのも、彼女のことを隠していたのも申し訳ないが、僕の気持ちを分かって欲しい」
私は吃逆をしながら、涙で濡れた頬を服の袖で拭き取っていました。
「本当に申し訳ない」
黙ったまま涙を流している私を見ながら彼は言い、返答も聞かずに彼女の手を引いて、私の前から消えました。
私は追いかける気力も彼を呼び止める余白もなく、その場に佇むだけで精一杯でした。
最初から自分が障害者だと言っていれば、こんな結末にならなかったのでしょうか。それとも、もし出会った時からそれを告白していたとしたら、最初から彼と付き合うことはなかったのでしょうか。
どちらにせよ、彼は障害者である私を愛してはくれなく、私との未来を拒みました。
殺意が芽生えた瞬間があるとするのなら、この時でした。
私は振り返って、遠くなる彼の後ろ姿を眺めていて、微かに残る彼の匂いに鼻を擽られながら、瞼の裏に溜まった涙を拭いていました。そんな時でした。
遠くから、彼の隣にいた彼女の笑い声が聞こえたのです。
彼女の笑い声を聞いたことありませんが、近くに人はいませんでしたし、こんな時間です。周りの家の電気も、ほとんどが消灯していました。ですから、彼女の笑い声で間違えありません。
ああ。私は、彼女になにもかも全てを奪われてしまった。あんな女に、唯一の幸せを奪われてしまったのだ。
彼女を殺せばきっと、もう一度私は幸せになれる。彼女を殺せば、彼の幸せを奪える。
少し肌寒い夜の帳、人気のない暗い街中で一人、私は彼女を殺すことだけを考えていました。
自分の中にこんな下衆な感情があるなんて、少しだけ驚きでした。
ですが、生まれたその感情を抑える方法は、彼女を殺すこと以外になにもありませんでした。
私はその足取りで駅前のカラオケ店に入り、そこで一晩を越したあと、店を出て街中を歩きながら、殺し方をひたすら考えていました。
そんな風に意味もなく歩きながら、計画を立てているうちに夜が来て、またカラオケ店で夜を越しました。
手持ちのお金が尽きたら、彼女を殺そう。
私はそう思い、残り少ない金が尽きるまでひたすら歩き続けました。
そして、ついに決行する日が来てしまったのです。
山の中で彼女の体を何度も刺しながら、私はふと考えていました。
これから、私はどう生きていけばいいのでしょうか。
どうせいつかは捕まってしまうでしょうし、その前に死ぬべきなのでしょうか。
そう考えているうちに日付は変わり、山を降りて、私は覚束ない足取りで古書店に向かいました。
死ぬことばかり考えていると、無性に太宰の本が読みたくなったのです。
太宰の本を探しに古書店に訪れると、お店の前で訝しんだ顔をしながら佇んでいる男性を見かけました。
雨宿りをしているのかと思いましたが、その男性の左手には傘が握られていて、私は同じようにその男性のことを訝りながら見ていました。
少し離れたところからしばらく眺めていましたが、彼は私の存在に気づく気配がなかったので、私は彼の横に立って、その険しい横顔を眺めていました。
まるで、鏡に写った自分の顔を眺めているような気分でした。
世俗を拒絶しているような、明日を拒んでいるような。そんな哀愁で寂寞とした横顔でした。
彼の横顔を覗きながら、自分の死について考えていました。
どうせもうすぐ死ぬのなら、最後に一つくらい嘘をついてみるのもありなのかもしれません。
それに、私は彼のことを深く知ってみたくなったのです。理屈では説明出来ませんが、彼の瞳が世界の不思議そのもののように見えたからでしょうか。それとも、自分と同じような境地に立っているのかもしれないと思ったからでしょうか。
どちらにせよ、そう考えた時にはすでに口が開いていました。
「凄い雨ですね」
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