第12話 精算をする

 私は子供の頃、性格面においても少しだけ変わっていました。

 それに気づいたのは小学二年生になってからで、普通を求めるようになったのは、それからしばらくしたあとです。

 私は生まれた時から本が好きで、父には一度も読んでもらったことはありませんが、母にはよく絵本を読んでもらっていました。

 それだけなら普通の子供のように見えますが、私は絵よりも文字ばかりを見て楽しんでいました。

 漢字が読めるようになってからは、父の書斎を漁って小説を読むようになり、毎日家に引き篭もって文字だけと接していました。

 難しい内容ばかりでほとんど理解出来ませんでしたが、私が真面目な顔をして本を読んでいる姿が父は嬉しかったようで、休みの日には、よく私を古書店に連れていってくれました。

 遊園地や動物園になんて連れていってもらったことはありません。

 これを聞いたら、私のことを憐憫な人間だと思うのかもしれません。でも、この頃の私にはそれが普通でした。

 遊園地? 動物園? 水族館? そんなもの、本の中の主人公が私を連れていってくれました。海外旅行もしましたし、結婚式にも招かれました。本の中で、私は男の子になったりもしました。

 私は憐憫な人間ではありません。七歳の頃の私は、十分すぎるほどその現実に満足していました。

 動物なんてテレビで見れますし、図鑑だってあります。生で見る? 獣臭くて堪ったものじゃないです。

 それでも、それが普通ではないということに、私は気づかされてしまいます。

 それは、小学二年生の時でした。

 遠足で遊園地に訪れた時、私は息を吐くように無意識にこんな言葉を口にしました。

「遊園地なんて初めて来た。観覧車ってこんなに大きいんだ」

 それを聞いた同級生の優香ちゃんは、驚いた顔をして私の顔を見つめていました。なんでしょうか。私の顔に、今朝食べた味噌汁に入っていた和布でもついているのでしょうか。そう思っていました。

「それって本当?」

「優香ちゃんは来たことあるの?」

「もちろんだよ! みんな来たことあるに決まってるよ!」

 この時、私は屈辱と劣等感を綯交ぜにした酷い孤独感に襲われました。私だけ、遊園地に来たことがないのか……。私だけ……。

 でも、不思議でした。私は優香ちゃんを含め、他のみんなのことを羨ましいとは思わなかったのです。

 自分が人と違うということだけに、屈辱を感じたのです。ただでさえ人と大きく違うのに、こんなところまで普通じゃないだなんて、私には赦せませんでした。

 それから、私は母に動物園や水族館に連れていってもらいました。流石に海外旅行は拒否されてしまいましたが。

 ただ、動物園や水族館に訪れて、私の生活はなにも変わりませんでした。やっぱり獣臭かったですし、魚が泳いでいるところなんて、テレビで見た方が迫力があったような気がしました。

 母は、自分から頼んでおいて辛気臭そうな顔をしている私見てがっかりしていましたが、私に対してなにも言いませんでした。父も父で、私と同じような顔をしていたからです。

 私が可笑しいのでしょうか。楽しそうな顔をして無邪気に動物に触れる同年代の子供を見て、私は初めてそう思いました。

 感性も私だけが他の人と違う……。

 私は全てに冷めている人間ではありません。面白いことがあれば、素直に笑うことだって出来ます。バラエティ番組を見ている時、お腹を押さえて笑う時だってあります。ちゃんと面白いと感じれるのです。

 それなら、このむしゃくしゃする心はなんでしょうか。なにが欠落しているのでしょうか。

 いつしか、私は父にこんなことを聞きました。

 確か、あれは小学三年生になってばかりのことです。

「私って変わってるの? 普通とは少し違うの?」

 父は訝しんだ顔をしたあと、微笑みながら私の頭を荒く撫でました。私が覚えている限り、父に頭を撫でてもらったのは、これが最初で最後です。

「人間なんて、みんなどこか変わっているのさ。ほら、僕も変わり者だろう?」

 撫でながら、父は囁くように言いました。 私はこの時、素直に父の言葉を信じていました。疑うということをまだ知らない、早熟な子供だったからです。

 でも、時間が経つにつれ、自分への疑いは大きくなっていきました。いつしかそれが確信に変わり、気づけば、私は普通を求めるようになっていました。

 普通の人間とはなにかと聞かれた時、私はこう答えます。

 それは、何者でもない者です。

 私は、そうあるために普通の仮面を被りました。

 生まれた頃から普通じゃない私が、そんな仮面を被り続けられる訳がなかったのに。

 でも、私はただ、普通の人間になりたかっただけです。

 最初から普通の人間として生まれていれば、こんな祈りなんてしなかったのでしょうか。

 今更もしもの話をしたところで、もう手遅れです。

 生来、私は普通の人間ではありませんでしたし、普通の人間はしないような、有るまじき行為をしてしまいましたから。



     *



 平生より少し早めに酒場に行くと、店内で、マスターは小さいテレビを睨むように見つめていた。

「あら。今日は随分早いじゃない。まだ榊原君は来ていないわよ」

 僕の存在に気づいたマスターは体ごと振り返り、不思議そうな顔で言う。

「見たところそうらしいな。それより、珍しいじゃないか。ニュース番組は嫌いじゃなかったのか?」

 僕はカウンター席に腰をかけながら言う。

 何年か前に、溺愛していた俳優の結婚発表のニュースを見てから、ニュース番組を見なくなったとマスターは言っていた。

 そのため、どんな時間に酒場に訪れても、ニュース番組が映ることはなかったし、僕や榊原もマスターに気を遣って話題になっているニュースは口にしなかった。

 余談だが、休業の理由はシンプルに体調不良だったらしい。一日で元気になるとは流石だが、マスターも体調を悪くすることに、僕も榊原も驚きのあまり揶揄し切れなかった。

 ただ、マスターの元気そうな顔を見て、榊原は酷く嬉しそうな顔をしていた。

「あなた知らないの? 隣街で殺人事件があったらしいのよ」

 僕の家にはテレビがないし、新聞も取っていないから、ニュースは大抵誰かの口から知ることが多い。僕が誰かと会話をすることなんてほとんどないから、基本的には榊原の口からなのだが。だから、その事件も今この刹那まで知らなかった。

 マスターの言葉聞いて、物騒だなと僕は思った。無関心にもほどがあるが、感想はそれだけだった。いや、その感想が出ただけでも十分かもしれない。

 でも、それと同時に一つの疑問が頭に突き刺さる。

「犯人は捕まったのか?」

「それがまだらしいのよ。それに、そもそも犯人が誰なのかも分かっていないみたいなの」

 なるほど。近くに犯人がいるかもしれない恐怖心が、マスターのニュース番組に対する嫌悪に勝ったのか。

「どんな事件だったんだ?」

「ナイフで何度も刺された遺体が山で見つかったらしいの。ほら、この前滝のように大雨が降ったじゃない? その前の日よ」

 ああ。やっぱりその日か。

「それは大変だな」

「興味なさそうね」

「まあね。僕や僕の知人が殺されたわけじゃないからな」

「あなたの近くに犯人がいるかもしれないのよ?」

「やめてくれ。マスターの言葉は現実になる」

 自嘲的に笑いながら僕は言う。マスターの言葉が馬鹿馬鹿しくて仕方なかったのだ。

「今日はもう帰るよ。やらなきゃいけないことがあったのを思い出してね。榊原には体調が悪いとでも言っといてくれ」

「やりたいことって?」

 立ちながら言う僕に、マスターは聞く。

「清算だよ」

「清算?」

「ああ」

 言いながら、僕は店の外に出た。

 空を見上げると、雨でも降りそうなくらい濃い鼠色の曇り空だった。

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