第11話 本日は休業いたします
いつも通り酒場へ向かうと、背の高い男が酒場の前で佇んでいた。
パンタロンのジーパンに派手な花柄シャツ。顔はよく見えないが間違いない。榊原だ。
遠くから不思議そうに眺めていると、僕の存在に気づいた榊原は、左腕を天に向かって伸ばして大きく手を横に振った。
「よう」
榊原の目の前まで行くと、覇気のない声で榊原は呟いた。
「店の前でなにをしているんだ?」
言うと、榊原は右手の人差し指で店の扉を指す。
「休業みたいなんだ」
汚れがこびりついた扉には、『本日は諸事情により休業致します』と、丁寧な字で書かれた紙が貼ってあった。余談だが、マスターの字はとてつもなく綺麗だ。
「それにしても、マスターは意地悪だよな。昨日のうちに言ってくれればよかったのにな」
榊原は重い溜息を零したあと、煙草に火をつける。
「どうしたものかね。今日はなしにするかい? それとも、どこか別の場所で飲むかい?」
僕も同じように煙草に火をつけ、榊原の顔を見つめる。
「僕はどっちでも構わないよ。ただ、君は酒を飲みたくて堪らないだろう?」
「ああ。よく分かったな」
榊原は言いながら、皮肉そうに笑う。
「でも、どこで飲むんだ? 君はここ以外にいい場所を知っているかい?」
榊原は首を横に振る。
「そうだ。俺の家にでも来るか? 思えば、まだ一度も部屋の中には入ったことがなかっただろう? いい機会だと思わないかい?」
質問は一つずつして欲しいのだが、そんなことは置いといて、いい案だと思った。
前までは他人の部屋なんか全く興味なかったが、眞白に僕の部屋が綺麗だと言われてから、自分以外の部屋を確かめたくなったからだ。
僕が頷いたのを見て、榊原は満足そうに笑った。
榊原が住むアパートは、酒場から徒歩八分ほどの場所にあって、僕が住むアパートよりもずっと新しく建ったもので、嫌な匂いももちろんしなかった。
それに、部屋には僕の比にならないくらいものが多く、実に榊原らしい部屋だった。
丁寧にフレームに入れて壁に掛けられた、ビートルズやビーチ・ボーイズなど見覚えのある小洒落たジャケットの無数のレコード、柑橘系の匂いがするキャンドル、灰皿やライターが置かれた硝子のテーブル、隙間なくぎっしりと本が詰まった僕の背くらいある大きな本棚。
ものは多いが、しっかりと整頓されていたため、僕は榊原の部屋を小洒落ていて綺麗だと思った。
榊原には失礼だが、正直意外だった。
榊原のことだから、読み終わった本やゴミを投げ捨てたり、テーブルの上も、空になった煙草の箱や、使用したちり紙を捨てずに置いてあると思っていた。
後に聞いたところ、散らかっている部屋にいると、自分がなにかに悩んでいるように思えて嫌なのだと言っていた。
「人の部屋をじろじろ見ていないで、早く飲もうじゃないか」
しばらく忘我して眺めていると、ソファーの前に座る榊原の言葉が鼓膜に届いた。
僕はその言葉を聞いて眺めるのをやめ、テーブルを挟んで榊原と向き合うように座った。
榊原は僕が座るよりも前にビールの缶を開けていて、早く飲みたそうな顔で僕を見つめていた。
話でも振って少し焦らしてやろうと思ったが、僕も早く飲みたくてしょうがなかったため、榊原が用意してくれたハイボールの缶を開けた。
「マスターの諸事情ってなんだろうな」
僕が二缶目を開けたところで、榊原は言った。
「さあね。マスターが風邪になんてかかるとは思えないし」
「それは同感だ。マスターは妖怪だから風邪にかかるはずがない。ただ、それ以外になんの理由があって店を閉めたんだろう。皆目見当もつかないな」
マスターのことをなんだと思っているのだと思われるかもしれないが、榊原の言う通り、マスターは本当に妖怪なんだ。
いくら酒を飲んでも平気で立っていられるし、体調を崩しているところなんて一度たりとも見たことがない。毎日休むことなく、誰に対しても笑顔を向けているのだ。
「さっき、君はマスターのことを意地悪だと言っていたけど、可笑しいと思わないかい? いくらマスターでも、僕たちに休業することくらいは伝えるだろう? 一応、これでも常連客なんだし」
榊原は持っていた缶を優しくテーブルに置いたあと、小さく頷く。
「今朝マスターになにかがあったのか、もしくは、マスターの身内になにかがあったのか。休業の理由はそんなところだと思うな」
言うと、榊原は納得いったような顔を見せる。
「まあ、多分明日は空いているんだ。明日聞いてみればいい」
榊原は、マスターのことを妖怪だの太っただの揶揄しているが、本当はマスターのことを人として尊敬している。
酔い潰れた時に面倒を見てくれるし、眠ってしまった時には、なにも文句を言わずに店に泊めてくれる。卵を割るときに白身が手につかないくらい本当に稀にだが、たまに酒やつまみをサービスしてくれる。
そんな器の広いマスターのことを、榊原は酷く尊敬しているし、僕もまた、同じようにマスターのことを尊敬している。
僕には誰かのためにここまで出来ないし、あんな風に毎日笑顔でいることなんて、到底出来やしない。
眞白は僕のことを優しいと言うが、マスターに比べたら、僕なんて大したことない。
僕の部屋も、榊原の部屋に比べたら、全くもって綺麗な部屋だとは言えない。
僕は優しくもない、普通の人間だ。
僕の部屋も、綺麗でも汚くもない普通の部屋だ。
「もしかして、君はマスターのことを心配しているのかい? 今までこんなことなんてなかったし」
榊原は煙草を一本手に取り、口に咥えながら天井を見上げた。
「少しだけな」
天井を眺めながら榊原は続ける。
「本当に少しだけだ」
いつもだったら揶揄するはずなのに、僕はなにも言葉を紡ぐことはせずに、数回頷いた。僕も本当に少しだけ、マスターのことが心配だったからだ。
榊原と飲み終わったあと、僕は煙草を買いに行きつけのコンビニに行った。前に話したこともある、榊原が働いているそのコンビニだ。
煙草だけのつもりだったが、眞白に何か買って行こうと思い、眞白が好きそうなお菓子を数個選んで手に取り、それを持ってレジに向かった。
「お久しぶりですね」
財布の中から小銭を探している僕に、店員はそう言った。
「ああ。久しぶりだ」
彼女は、榊原が唯一バイト先で仲のいい同僚の女だ。榊原に紹介されて何度か三人で飲んだこともあるが、会うのは二ヶ月ぶりくらいだろうか。
「お菓子を買うなんて珍しいですね。いつもは煙草とお酒だけなのに」
「そうだな。たまにはこういう日もあっていいんじゃないかって思ってね」
言いながら、僕はお金をトレイの上に置いた。
「なんだか少し変わりましたね」
「そうかい?」
「はい。少し表情が明るくなったような気がします」
明るい? この僕が?
「なにかいいことでもあったんですか?」
彼女は不思議そうに僕の顔を覗く。
「いいことか。特に思いつかないな。むしろ、夏のせいで毎日が憂鬱だよ」
「詩季さんも私と同じで暑さに弱いんですね」
憂鬱な理由はそれではなかったが、僕は否定しなかった。なんだか少しだけ、彼女が嬉しそうな顔をしていたからだ。
僕は黙ったままビニール袋に商品を詰める彼女を眺めていた。随分と手際がいいなと、見つめながら思った。
「また来てくださいね。次会う時は少し驚かせてしまうかもしれませんが」
「驚かせる? なにをするんだい?」
「それはまだ内緒です」
悪戯に笑いながら、彼女は商品が入ったビニール袋を僕に差し出す。
「じゃあ楽しみにしているよ」
ビニール袋を手に取りながら言うと、彼女はまた嬉しそうに笑っていた。
僕や眞白とは違う、篠原と同じ種類の笑顔だった。
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