第10話 シナモンティー

 詩季さんが出かけている間、詩季さんがくれた月下美人の花束をひたすら眺めていました。

 詩季さんがどんな理由で私に花束をくれたのも、どうして月下美人を選んだのかもなにも分かりませんが、私は嬉しくて堪りませんでした。誰かに花束をもらったことなんて、無論生まれて初めてですし、初めての相手が詩季さんだったから、余計に嬉しかったのです。

 詩季さんは笑みを隠しきれない私を見て、優しく微笑んでいました。

 詩季さんの笑顔を見る度、胸の柔いところを鷲掴みされているような感覚に陥ります。

 もしかしたら、詩季さんは私の心の中を覗き見しているのかもしれません。そうだとしたら、月下美人を選んだ理由に繋がりますから。

 それはいいとして、私は初めて詩季さんの本当の姿を見たような気がします。

 掴めない星のように儚い笑顔、今にも零れ落ちてしまいそうな輝きのある妖麗な瞳、蝉時雨に掻き消されてしましそうな朧げで繊細な声、僅かに聞こえる心臓の音。

 あの時、詩季さんの話を聞いて、どうして私は微笑んでしまったのでしょう。

 確かに、私と同じことを思っていることに嬉しくは思いましたが、笑ってしまうなんて思いもしていませんでした。

 ただ、あの日から私たちはその話に触れることはしませんでした。

 なにも変わらない朝が来る度、あれは夢だったのではないかと疑ってしまいますが、小説を書いている詩季さんの相好を見ると、とても夢だとは思えません。それに、私は現実であって欲しいと願うばかりでした。



     *



 先日近所の雑貨屋で買った海色の風鈴が、生暖かい夏風に揺られて静かな部屋に音を奏でる。

 流していたビートルズの曲を止め、僕はその風鈴の音に入り浸りながら、ソファーの右隅に座って梶井基次郎の檸檬を読む眞白を眺めていた。

「どうかしましたか?」

 視線に気づいた眞白は、僕の顔を見つめて訝りながら聞いた。

「いや。なんでもない。書き疲れたから休憩しているだけさ」

 正直疲れてなんていないが。

「小説書き終わりましたか?」

「まだまだだ。半分も終わってないような気がする」

「そうですか」

 言うと、眞白はまた視線を本に落とした。

 その姿を見て、僕は体を反転させてパソコンに向かった。

 しばらく風鈴の音を聞きながら小説を書いていたが、無性にジョン・レノンの声が聞きたくなって、風鈴の音を遮るようにウーマンを流した。

 僕が、こんなにもジョン・レノンの声を求めるようになったのはいつからだっけ。

 考えれば考えるほどその理由が分からなくなって、僕は考えるのをやめてベッドに横になった。

 眞白の横顔を眺めながら横になっていると、次第に僕に眠気が襲った。睡眠不足だったため、やけに体がだるかった。

 気づけば、僕は誘われるように昼寝をしていた。


 微睡みから覚めると、先ほどまでソファーに座って本を読んでいた眞白の姿が見当たらなかった。

 トイレに行っているのかと思い、僕はそんなことを気にもせずに台所に向かい、シナモンティーを二人分淹れた。

 眞白と二人で飲もうと思い、僕はシナモンティーに口をつけずに、眞白が帰ってくるのを、ジョン・レノンの声を聞きながらひたすら待っていた。

 だが、いくら待っても眞白が戻ってくることはなかった。

 トイレのドアをノックしても返事はなかったし、洗面所にも眞白はいなかった。

 僕は慌てるように玄関に向かうと、眞白のスニーカが寂しそうに僕を見つめていた。

 スニーカーがあることを確認し、僕は安堵する。

 ただ、眞白の姿は一向に見当たらない。どこかに隠れて、僕を脅かせようとしているのだろうか。もしそうだとしたら、急に現れて僕を驚かすより、急にいなくなる方が驚くのだが。ただ、どこを探しても眞白の姿はなかったし、この部屋に隠れられる場所はほとんどない。

 僕は早くなる鼓動を抑えながら、大きな声で数回眞白の名前を呼んだ。

 ああ。馬鹿みたいだ。僕はなんでこんなにも動揺しているのだろうか。どうしてこんなにも狼狽しているのだろうか。眞白がいなくなったところで、僕にはなんの影響もないと言っていたじゃないか。

 僕は自分の不肖さに苛々しながら、榊原の言葉を思い出す。

『慣れというものは非常に怖いものだ。失った時、胸の柔いところに大きな穴が空いてしまうからな。そして、一番怖いのは、慣れているということに気づかないことだ』

 眞白がいる生活がいつしか当たり前のなっていて、僕はそれを失って狼狽えているのか。

 僕はそんなことを認めたくなんてなかったが、もう一度、慟哭するように眞白の名前を叫んだ。

「眞白……! 眞白……!」


 僕は勢いよく起き上がり、汗が滲む掌に目を向ける。そうか。夢だったのか。

 僕は、夢の中では空虚だったソファーの上に視線を向ける。

 視線の先には、ソファーの上で、僕が眠りにつく前と変わらず眞白は本を読んでいた。

 僕は溜息を零し、自分の愚かさに苛々しながら、静かに眞白を眺めていた。

 眞白は僕が起きたことは愚か、眠っていたことにも気づいていないようで、見つめ続ける僕に目を向けることは一向になかった。

 思えば、僕はまだ眞白のことをなにも知らない。

 出身地も家柄も今まで読んできた本の数も、僕はなにも知らない。

 でも、それは眞白も同じだ。眞白は僕のことをなにも知らない。知っていることがあるとするのなら、ビートルズと紅茶と酒と豚汁が好きなことくらいだろうか。

 眞白は、僕のことを知りたいと思わないのだろうか。聞こうとしたこともないのだろうか。

 もう随分と共に過ごしてきたのに、手を伸ばせば触れる距離にいるのに、何度も眞白の笑顔をこの瞳に映したはずなのに。

 知りたいと願う度、眞白は遠くなる。その度に、僕を恐怖心が襲う。

 誰かのことを知りたいと思ったのも、自分の意思で誰かに興味を持ったことも、これが初めてだった。

 榊原が、篠原のことを知りたいと願った感情と同じなのだろうか。

 もしそうなら、この願いは恋になるのだが、僕の願いは恋ではないような気がした。

 認めたくないとかそんな幼稚な理由ではなくて、眞白のことを知りたいと思うのは、好奇心ではなく、恐怖心が働いているからだ。

 そんなことをしばらく考えていると、眞白は読み終えたのか、本を閉じ、僕に顔を見せて微笑んだ。ああ。やっぱりだ。この願いは恋ではない。

 僕は鳥肌が立った腕を掌で優しく撫でながら、少しでも平常心を保つために、なにも考えずに風鈴の音だけに耳を澄ませていた。

 ほんの少しだけ夏の終わりを感じさせる、そんな日だった。

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