第9話 旅人と嘘をつく
「詩季さんは毎日こんな生活を送っているんですか?」
「ああ。そうだな」
言われてみれば、榊原と出会ってから、大学のない日は毎日同じ生活をしている。
それに、眞白と出会う前にバイトをやめてしまったし、日中家に引き篭もっては小説を書いている僕を見て、寂しい奴だと思ったかもしれない。まあ、寂しい奴に違いはないのだけれど。
「飽きないんですか?」
「歯を磨くのと同じさ。飽きるもなにもない。それに、似ているようで少しだけ違うところもある。例えば、ここ数日は小説を書いていたり、流している曲がビートルズではなくオアシスだったりね。それに、口にするものも毎日違う」
まあ、だからと言ってそこまで大きな違いはないのだが。
僕は自分の生活に対してなんの不満もないのだが、眞白からしてみれば、退屈でなんの色味もない生活なのだろうか。
「僕の家に来てから、君は一歩たりとも外に出ていないし、そろそろこの生活に飽きたかい?」
「いえ。毎日違う本を読んでいるので飽きてはいません。ただ、読む本がなくなった時にどうしようかと思いました」
そういうことなら、大して僕と変わらないじゃないかと思った。つくづく眞白と僕は重なる。
「僕も、夏季休暇の課題はとっくに終わったし、小説を書き終わったらなにをしようかと思っていたよ」
思えば、溜息が出るほどに長いこの夏季休暇の予定を、僕はなにも決めていなかった。 悲しい話だが、そもそも榊原以外の友人はいないから、予定を決めようとしても無理な話なのだが。
一人でやりたいこともないし、行きたい場所も特に思いつかない。
それに、こんな暑い中外に出る方がずっと憂鬱だ。なにもしないでいるのはそれはそれでしんどいが、なにも決めずに外に出るよりかはずっといい。
「詩季さんはやりたいことってありますか?」
「やりたいことか……。そうだな。一つだけあるよ」
僕には欲という欲がないし、なにかに夢中になれる性格も持ち合わせていない。
でも、一つだけ。この夏の終わり、たった一つだけやりたいことがあるのだ。正確にいえば、すでににもう進めているのだが。
「それはなんですか?」
好奇心と期待を綯い交ぜにした眞白の穏やかな瞳を見て、僕は眞白に言ってしまおうか少しだけ考える。直前まで黙っていようかと思ったが、眞白には話してみるのもいいのかもしれない。
話したら、眞白のことを少しだけ知れるかも知れないし。
「……自分を殺したいんだ」
告げると、眞白は驚くことなんてせずに僕を一心に見つめた。まるで、幼い子供が買ってもらったばかりの玩具を見つめるように、その瞳は星空のように輝いていた。
正直、この反応は意外だった。驚くかどうかは怪しかったが、流石に嬉しそうな顔をするとは思わなかった。
そして、
「私もです」
まるで、世界の秘密そのもののような狂気的で不敵な笑みを浮かべて、眞白は息を吐くように言った。
エアコンが効き過ぎたせいか、それとも、その笑みに恐怖を覚えたせいか、炎天下の昼に僕は寒気を感じた。
二十余年生きてきて、間違いなく人生で一番寒い夏の日だった。
僕は黙ったまま眞白を見つめていて、眞白もまた、少しだけ口角を上げながら僕を見つめていた。
何分間そうしていただろうか。気づけば空は紅くなっていて、僕は眞白を置いて酒場に向かった。
榊原と話している間もずっと、眞白の笑顔と言葉が頭から離れなかった。
*
「よう。待っていたよ」
酒場の前に着くと、本を片手に榊原は車に寄りかかって待っていた。
約束より随分と早めに来たつもりだったが、榊原は何時間もそこで待っていたような態度だった。
「なんの本を読んでいたんだ?」
「哲学の本さ」
ああ。なるほど。この間は、この本に影響されたんだな。
「最近読んだ中でも上位に食い込むくらい面白い本だから、君にも読んでもらいたい」
榊原は言いながら本に栞を挟んで閉じ、煙草に火をつける。
「申し訳ないが、僕は哲学という学問を理解することが出来ないからやめておくよ」
「どこが理解出来ないんだ?」
「哲学を否定する訳では決してないが、愛とか生と死とか悪と善とか、実態も正解もない話ばかりでどの話も納得がいかないんだ」
高校三年の時興味本位で倫理の授業を選択したことがあったが、矛盾や考え方の多さに頭を抱えたことがある。哲学が嫌いというより、トラウマと言った方が近いのかもしれない。
「それなのにも関わらず、この人の考えを正解だと信じ、崇拝する人間がいる。僕は捻くれ者だし、性格が頗る悪いから、哲学とは仲良くなれそうにはないよ」
榊原は人の話を聞くとき、相槌も打たずに話し手の顔を見ながら黙ったまま聞いてくれる。榊原の気に入らないところは多々あるが、そういうところは好感する。
「気持ちは分かるさ。哲学は百人いれば百人ともきっと違う答えを持っているし、百人とも違う答えを正解だと信じている。俺自身も納得がいかない答えもあるし、かといって、興味を惹くような話も、なんとなく分かる気がするような話もある。まあ、あとはそうだな。人は絶望的な状況に陥った時や零落した時、最後に救いを求めるのが哲学さ。ほら、君も天国に行きたいと思うだろう?」
僕は小さく頷く。
「正直、俺もそこまで哲学を信じている訳でも、心の拠り所にしている訳でもないさ。ただ、俺は愛を知ってしまったし、生と死もよく知っている。でも、自分の頭では整理出来ない莫大な問題だから、俺より頭が良くて、俺よりその問いについて長い時間を費やしている人間の話を聞きたくなるのさ」
酔っていないと、こんなにも知的で説得力のある話が出来るのかと、僕は感心する。
「一つだけ言うことがあるとするなら、自分が見ている世界が世界の限界だと思い込まない方がいい。別に悪いことではないのだが、君はまだ少しだけそう思っているように感じるよ」
自分の視野と世界の視野か。今まで考えたこともなかった。これからは少し気にしてみよう。そしたら、眞白のことをもっと深く知れるかもしれない。
「もう時間もないし、続きは車の中でしよう」
言いながら、榊原は助手席のドアを開けた。
約二年ぶりに乗った榊原のファンカーゴで薄汚れた狭い道を走りながら、僕は煙草を吸っていた。
煙を吐く度、ホイットニー・ヒューストンの声に浸っていたあの夜のことを思い出す。
「あと五分ほどで着くよ」
緊張のせいか、榊原は平生より少し小さな声で告げた。まあ、無理もないか。
「長かったな」
「ああ。まさかこのボロい車で長野まで行くことになるなんて、免許取りたての頃の俺は思いもしなかったよ」
先日、僕は篠原と親しかった教授に、彼女が長野県にいることを教えてもらった。母親が倒れたため、代わりに実家の花屋で働いているらしい。
「ただ、二年間もずっと想い続けたんだ。こんな些末な時間、俺にとってはプランクトンより微小さ」
榊原の言葉を聞きながら、僕は蝉時雨の音に浸る。
僕は夏が嫌いだ。かといって冬が好きなわけでもない。ただ、暑いのはなによりも嫌いだし、夏は嫌なことを思い出す。
それでも、蝉時雨だけは昔から好きだった。その儚くて脆い音楽が、矮小な僕にピッタリなのだ。好きな音楽があるとするのなら、蝉時雨と答えてもいいくらいだ。
「着いたぞ」
「ああ。見れば分かる」
榊原は花屋の近くにあるコンビニに車を駐車し、ゆっくりとシートベルトを外した。
「僕はここで待っているけど、僕のことなんて気にせずに好きなだけ話してくるといい」
「悪いけど一緒に来てくれないか? 一人じゃ心細いんだ」
榊原は、少し照れくさそうに顳顬を人差し指で掻きながら言う。榊原もこんな顔をするんだな。
「緊張しているのか?」
「そうみたいなんだ。ほら、見てくれ」
言いながら、榊原は小刻みに震える自分の掌を見せる。
「別に僕は構わないよ。じゃあ、行こうか」
長いこと座っていたせいで疲れ、外に出て陽の光を浴びたくなったし、それに、少しだけ篠原という人間をよく見てみたいとも思った。普段なら面倒くさいと思うはずなのに、どうしてだろう。好奇心が勝ってしまう。
僕たちは車を降り、花屋を目指して歩いた。一分ほど歩き、先を歩く榊原は花屋の前で立ち止まった。
「こんなところで急に立ち止まるなよ」
言い終わったのと同時に、僕は榊原がここで止まった理由に気づく。
僕たちの目下で、土で少し汚れたエプロンを着た篠原が、咲き誇る花々に如雨露で水をやっていたのだ。
「いらっしゃいませ」
篠原は僕たちの存在に気づき、口元を緩めて微笑みながら言った。僕も榊原も、篠原の笑顔を見るのはこれが初めてだった。
こんな言い方はどうかと思うが、こんな風に綺麗な笑顔をするとは思わなかった。だって、篠原も僕と同じように誰とも関わろうとしない人間だ。こんなに綺麗に笑える人間が、友人を作ることをしなかった理由がよく分からない。いつも無愛想な顔なんてしていないで、その笑顔を見せればよかったのにと、僕は思った。
それはいいとして、篠原は僕たちを認知していないようだった。まあ、無理もない。学部が同じとは言え、僕たちは一度も話したことがないんだ。当然と言えば当然なのだが、影の薄い僕ならまだしも、背の高い榊原のことを認知していないのは想定外だった。
榊原はなにか言いたそうな顔をしながら、ゆっくりと店内に入る。僕は、ゆっくりと歩く榊原についていく。
入ったのはいいものの、店内には気まずさが漂っていた。
僕は榊原になにか声をかけるべきなのだろうか。それとも、榊原と同じように、黙ったまま店内を見渡していればいいのだろうか。
数分考えたが、榊原にかける言葉が見つからず、僕たちは二人で狭い店内を睨むように見渡していた。
すると、
「なにかお探しですか?」
数分間なにかを探し求めているかのように睨みながら歩き回る僕たちに、篠原は訝りながら言った。
こんな怪しげな男たちに声をかけるなんて、やっぱり篠原は変わった奴だ。
篠原目的で店内に入った僕たちはなにも答えられず、そんな僕たちを篠原は不思議そうに見つめていた。
そんな時だった。
「あの。間違っていたらすみません。私たちってどこかでお会いしたことってありますか?」
僕たちを一心に見つめながら篠原は言う。
ただ、その言葉を聞いても榊原は口を開かないままだった。どうしたんだろう。緊張のせいなのだろうか。
僕たちの間にもう一度沈黙と気まずさという言葉だけが生まれ、僕はその居心地の悪さに目眩を覚えた。あの大雨の日のように。
僕は肘で榊原を突く。緊張するのは分かるが、早く口を開いてくれよ。
そう思っていると、
「多分気のせいです。俺たちは旅人ですから」
なにを言っているのだろうか。僕は、榊原の言動と思考回路が理解出来なかった。とても榊原が素面の状態だとは思えなかった。いや、酔っているときの方が、まだまともなこと言っているぞ。
「月下美人の花束をください」
榊原は、なにもなかったかのような清々し顔で言った。
「おい。あんなこと言っていいのか? なにをしにここまで来たと思っているんだ?」
駐車場に戻ると、僕は早々に榊原に聞いた。正直、揶揄われているのかと思い、僕は少しだけ苛々していた。
「君は彼女の左手を見たか?」
僕は首を横に振る。
「薬指に指輪がはめられていたよ」
僕は返す言葉が見つからず、その場で黙り込んでしまった。
一体どんな言葉を囁けば、どんな行動をとればいいのだろうか。世界中に転がっている答えを探しても、どこにも正解がないように思えた。
「申し訳ないとでも思っているか?」
僕はなにも言えず、恐る恐る榊原の顔色を伺うように小さく頷く。
「馬鹿言え。元々、俺は彼女の幸せだけを願っていたんだ。彼女が誰かと幸せになったのなら、これからはその幸せが続くことを願い続けるだけだ。それに、俺はチャンスを逃した。彼女が在学している時に話しかけていたら、もしかしたら、こんな未来にはなっていなかったかもしれない」
「でも……」
「もういい。もういいんだ。君には感謝している。俺の話を聞いてくれて。こんなところまでなにも言わずについて来てくれて。彼女と話す機会を作ってくれて。君を責める理由なんてないさ」
「僕が会いに行けなんて言わなかったら……」
申し訳なさでいっぱいだった。
「傷ついていないと言えば嘘になるが、でも、これから彼女のことはもちろん、この痛みも少しずつ忘れていく。そうなっていくはずだ」
僕は変わらずなにも言えないまま、榊原の哀愁で物憂さげな瞳だけを見ていた。
「そうは言っても君は優しいからな。そうだ。じゃあ、今日はお詫びとして酒でも奢ってくれよ」
言い終わると同時に、榊原はドアを開け、車内に入る。それを見て、僕も同じように車内に入り、もう一度榊原の顔を見つめた。
沈黙の間、後部座席に置いた月下美人の花の香りが僕の花を擽った。同時に、少しだけ目頭が熱くなるのが分かった。
「じゃあ、ホイットニー・ヒューストンの曲でも流そうか。今は彼女の曲に癒されたい気分だ」
言いながら榊原は曲を流したあと、エンジンをかけた。エンジン音と共に聴こえてきた曲は、ワン・モーメント・イン・タイムだった。
「マスターになんて言われると思う?」
曲に浸っていると、ふと、榊原は言葉を紡いだ。
「どうだろう。流石のマスターも、僕と同じようにかける言葉が見つからないんじゃないのか?」
言うと、榊原は大袈裟に笑った。とても、強がりの笑顔には見えなかったため、僕はなんだか嬉しかった。同時に、少しだけ安堵した自分がいた。
「そんなマスターを見てみたいな。さ、早く帰ってマスターに会いに行こう。反応が楽しみだ」
僕が頷いたのを見て、榊原は少しだけスピードを上げた。もちろん法定速度は守っていた。
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