第8話 伽藍とした

 冷房がよく効いた人気のない伽藍とした喫茶店で、窓から差し込む強い日差しを浴びながら、僕はアイスコーヒーを飲んでいた。

 コーヒーを飲みながらぼんやりと窓の外を見ていると、店内に懐かしい曲が流れ出していた。

 幼い頃、父がよく車内に流していた曲だ。

 誰が歌っているのかも分からないし、歌詞も英語なためよく理解出来ない。でも、僕はこの曲が好きだった。

『好きな理由に、理屈なんていらない。好きだから好きなんだ』

 榊原は音楽について語るとき、いつもそう言っていた。

 前まではその言葉をよく理解出来なかったが、この曲を十余年ぶりに聴いて、僕はその言葉をほんの少しだけ理解出来たような気がした。

 好きな曲だから好き。理由なんてそれだけで、それ以上のものがあるとは思えない。


「太宰がどうやって死んだか知っているか?」

 平生より遙かに早いペースで三杯目の生ビールを飲み始めたところで、榊原は言葉を紡ぐ。ああ。これはもう出来上がっているな。

「自殺だろ?」

「そう。じゃあ芥川は?」

「それも自殺だ」

 なにが聞きたいのだろうかと、答えながら思う。僕の知識を試しているのなら、流石に舐め過ぎだ。いくらなんでもこの話は、本が嫌いな人ですら知っている一般常識だ。ただ、もし僕の知識を試しているわけではないのなら、この話は酒場ですべきではない。酒が不味くなるだけだ。

「よく知っているな。それじゃあ、三島由紀夫は?」

「それも自殺」

「正解。因みに、有島武郎も川端康成も自殺だ」

 もしかしたら、今日はあまり気分のいい話ではないのかもしれないなと、僕は思った。気を紛らわすように、僕は煙草に火をつけ大きく煙を吸い込む。流石に咽せてしまいそうだったが、僕は堪える。

「なにが言いたいんだ?」

 僕の口から、こんなにも低い声が出るのかと思った。それくらい、今の気分は最悪だった。

 僕は煙に包まれる榊原を睨みながら、煙草の灰を灰皿に落とす。

「気になったのさ。文豪の自殺があまりにも多過ぎることにね。ほら、つい最近もニュースで取り上げていただろう? 小説家の遺体が見つかったって」

 言われてみればそうだけど、そんなこと気にしたところでどうにもならない。彼らにはそれなりの理由があって行ったことで、文豪だからとは限らないからだ。

「たまたまだろ。それに、彼らはもう死んでいる人間だ。君が今更そんなことを気にしたところでなににもならないだろう?」

「俺は偉大な文豪になる人間さ。彼らのようなことが起きるかもしれないだろう?」

 そんな滑稽なことを言う榊原の瞳を見て、三杯目にしては酷く酔っていることに気づく。きっと、僕と会う前にも何杯か飲んだのだろう。

 榊原は、酔うと瞬きをする回数が増えるのだ。この日は、今までで見たこともない速さで瞬きをしていた。

「自殺は基本的に自らの意思で行うことだ。君がしたくないと思うならそれまでだろ」

「もちろん俺は死にたくないからしない。ただ、文豪は呪われている。きっと、文豪にはそういう状況が来る」

 そもそも文豪になる前提で話しているのが腑に落ちないが、酔っているし、それはそのままにして榊原の話に付き合おうと思った。触れたら触れたで、また長ったらしい話が始まるだろうし、指摘して嫌な顔をされるのも出来れば避けたい。

「例えば?」

「なんらかの奇跡で篠原に出会ってしまった時とかね」

「小説家になりたいという夢が叶ったのに、君は叶わない恋のせいで死ぬのか?」

「多分死ぬね。だって、俺は小説に恋をしないし小説も俺に恋をしない」

 聞きながら、僕は炭酸の強いハイボールを飲む。あまりにもウイスキーの味が濃かったため、僕は一度マスターの顔を睨む。

 出来上がっている榊原に対して、僕はまだ全くと言っていいほど酔っていないため、マスターは僕を榊原のように酔わせたかったのだろうか。だとしたら、もう少しマスターを睨みつけてやろうと思った。

「結局、君はなにが言いたいんだ?」

 榊原は、腕を前で組みながら天井を見上げ、煙草の煙を吐くように大きく深呼吸をし、僕の方にまた顔を向ける。榊原の充血した赤い瞳が、なんだか神秘的だった。

「……小説ばかり書いてると篠原に会いたくなるし、時々死にたくもなる」

 畢竟、今日も恋愛談かと僕は呆れた。榊原は自分の恋愛談を僕に晒してから、鬱陶しいくらいに恋愛について語ることが多くなった。

 少し前までは自分から恋愛を語ることを避けていたのに、今はこれだ。

 榊原らしいと言えばそうなるが、正直もうお腹一杯だ。

「そんなに篠原が恋しいなら会いに行けばいいじゃないか」

「馬鹿言え。話したこともないのに会ってどうする? そもそもどこにいるのかも分からないんだ」

「会った時のことなんて会ってから考えればいい。居場所は大学の人間にでも聞いてみるさ。同じ学部の人間を漁れば、一人くらいは知ってる奴がいるはずだ」

「でも……」

 振られたくない。恋をしたことがない僕でも、その気持ちくらいは十分に分かる。

 でも、らしくないと思った。榊原は思ったことを忌憚なんてせず、歯に衣着せぬ発言も容赦なく言う男だ。考えるよりも先に行動する、そういう男だ。

「太宰が言っていただろう? 『恋愛は、チャンスではないと思う。私はそれを、意志だと思う』ってさ。君はこの先、少なくとも五十年は生きなくてはならない。その五十年間、ひたすら彼女の幸せだけを願い続けるのか?」

「会いに行って振られたりしらどうするんだ」

「その時は酒でも飲んで忘れたらいい。小説を書いてみたっていい。気が済むまで僕も付き合うさ。それに、会う前から振られることを考えるなよ。可能性はゼロではないだろう?」

 マスターのせいで、たったの数分で僕も酷く酔っ払ってしまったようだ。こんなにも恥ずかしい言葉を口にするのは初めてかもしれない。ああ。本当に僕はなにを言っているのだろう。

「……分かった。会いに行こう」

 やっと、榊原はらしい顔を僕に向けた。

 他人の恋愛事情なんて微塵も興味ないが、それが榊原のとなると話は違う。

 応援なんて僕らしくないし、恥ずかしくて出来ないが、それでも、榊原の恋が少しでもいい方向に向かってくれればなと、素直に思った。

 夏季休暇で学生はほとんどいないだろうから、とりあえず教授にでも当たってみるか。

 誰かのためになにかをしてあげると言い方は傲慢のように思えて嫌なのだが、そんな行為をするのは生まれて初めてだった。

 いや、これで三回目か……。

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