第7話 風変わりな名前を

 榊原の恋愛談を聞いた夜、僕は相も変わらず覚束ない足取りで帰宅し、重い玄関の扉を開けると、ソファーの前に腰をかけ、テーブルの上に置かれたノートに、なにかを必死に書いている眞白の姿が目に入った。

 なにを書いているのかは微塵も気にならなかったが、険しい顔をする理由には興味があった。ただ、理由を聞いたところで眞白が答えてくれるはずもない。

 眞白を眺めながらしばらくそんなことを考えていたが、眞白は僕が帰ってきたことに一向に気づく気配がなかった。

 そんなにも我を忘れて書いているのかと、僕は少し眞白に感心する。集中力のない僕からしたら、小さな物音がしただけで気が滅入ってしまうからだ。

 鳴りを潜めて眺めていると、なんだか自分がとてもいけないようなことをしているかのように感じた。盗人の気持ちが少しだけ分かったような気がした。ただ、死体の髪をむしる老婆の気持ちは理解出来ない。

 僕は音を立てずに息を吐き、スローモションのようにゆっくりと眞白に近づく。

 一メートルほどの距離まで近づくと、流石に僕の存在に気づいたようで、眞白は反射的に振り返った。

「……おかえりなさい。帰っていたんですね」

 ややあって僕の存在に気づいた眞白だったが、口を開く前に慌ててノートを閉じていた。覗ける距離にいたが、僕はそんな幼稚でみっともないことなんてしないのに。眞白には、僕がそんなことをするような人間に見えたのだろうか。

「ああ。ただいま」

 言いながら、テーブルに置かれたままのノートの表紙を見ると、僕が先月セールで買ったばかりの空色のキャンパスノートだった。

「ごめんなさい。勝手にノートとペンを使ってしまって……」

 眞白は慌てるように早口で言う。

「言っただろう? 家のものはなんでも使っていいって。それくらい別に構わないさ。それより、なにを書いてたんだ?」

 さっきはあんなことを言っていたが、眞白が僕を見て慌てて隠すものだから、純粋にその内容が気になってしまった。

「小説みたいなものです」

 みたいなものという言い方に、この時の僕はそこまで気にしなかった。ただ、やっぱり眞白は正直に答えてくれないか。

「へえ。君は、小説を読むだけじゃなくて書くのも好きなのか?」

「いえ。そういうわけではないんですけど」

 じゃあなんで書いているのかと聞こうとしたが、数秒考えてやめた。聞いたところで、今の僕には全く関係ないと思ったのだ。そもそも、その質問に眞白は正直に答えない。答えられるはずがないのだ。

「じゃあ、僕は酔っ払ったし疲れたから寝るよ。電気は消さないから、続けたいなら続けていい」

「ありがとうございます。でも、私ももう少ししたら寝ます」

「そうか」

 眞白が頷いたのを見て、僕は着替えるために洗面台の方へ向かった。普段ならリビングで平気で着替えるが、眞白が来てからはわざわざ部屋を移動して着替えている。眞白がいるおかげで助かったことは多々あるが、不便なことはこのくらいかもしれない。

 着替え終わってリビングに戻ると、眞白はまた、初めて会った日のように生気のない顔でノートに向かっていた。寝ると言っていたのに、続きを書かずにはいられなかったのだろうか。

 眞白はやけに険しい顔で、殴るように文字を書いていた。そんなに強く書いたらノートに穴が空いてしまうだろうと、僕はノートの心配だけをしながら、その憐憫で悲哀に満ちた顔を見て、やっぱりなと僕は思った。

「あの……」

 ベッドに入ろうとした刹那、そんな言葉が鼓膜に届いた。

「どうかしたかい?」

「今更ながらですけど、なんてお呼びしたらいいですか?」

 そういえば、まだ僕の名前を教えていなかったっけ。いや、名前どころか歳すらも教えてないような気がする。

 思えば、僕が眞白のことをほとんど知らないように、僕もまた、眞白になにも教えていなかった。

「詩季とでも呼んでくれ。みんなからはそう呼ばれている」

「分かりました。これからは、詩季さんと呼ばさせてもらいます」

 眞白は、やけに嬉しそうに微笑みながら言った。

 その笑顔を見て、僕は静かにベッドに入った。

 ベッドに入ってからしばらくの間、眞白の微笑が頭から離れなかった。

 あまりにも頭から離れないため、僕は苛々し、立ち上がって台所の換気扇の下で煙草を吸った。

 煙草の火を消してベッドに戻ると、眞白は座りながら眠りについていた。

 視線をテーブルの上に向ける、とノートが開いたまま置いてあった。

 気になって覗こうとしたが、暗闇で文字が見えなかったし、そもそもそんな卑劣なことはしたくなかった。

 僕は、ソファーの前で座りながら眠りにつく眞白に布団をかけ、そのままベッドに横になった。

 煙草を吸ったおかげか、それとも気持ちよさそうに眠る眞白の寝顔を見たからか、今度はベッドに入ってすぐに零れ落ちるように眠りについた。

 朝目を覚ますと、テーブルに置かれたままだったノートがなくなっていた。

 この日以来、僕はノートを書く眞白の姿を目にしなくなったし、ノートの在処ももちろん知らない。

 この部屋のどこかにあるのは確かだが、僕はもちろん探すことはしなかった。

 いつか、眞白がノートに書いていた内容を自分の口で、僕に教えてくれると思ったからだ。



     *



 優しい人間とは、誰のことをいうのでしょうか。偉い人間とは、誰のことを指すのでしょうか。

 ボランティア活動に励んだり、誰かの相談を親身になって聞いたり、素直になにかを褒める人間のことを優しいや偉い人間だと呼ぶのなら、私は全くもってそんな人間ではありません。

 じゃあなぜ、数少ない知人たちは皆、私のことを挙って優しくて偉い人間と呼ぶのでしょう。

 平均より少しだけ頭がいいからでしょうか。どんなお願いをされても、なんの躊躇いもなく引き受けていたからでしょうか。

 一つ言わせてください。私にとって、それは酷く当たり前のことです。

 だから、優しいや偉いだの言う人間のことを、私は惨めに思えて仕方がありませんでした。

 優しい人間というのは、自然に気を遣うことが出来る人間のことです。私には誰かの気持ちなんて一ミリも理解できませんし、気を遣うことももちろん出来ません。だって、自分の気持ちですら理解出来ていないのですから。

 私は優しくも偉くもない、普通の人間です。

 普通の人間。普通、普通、普通、普通、普通、普通、普通、普通、普通……。


 ここまで書いたところで、いつの間にか眠ってしまっていたようです。

 開いたまま眠ってしまったものだから、詩季さんに見られてしまったかもしれませんが、私には、詩季さんがそんなことをするような人間だとは到底思えません。

 言い忘れていましたが、昨日の夜から彼のことを詩季さんと呼ぶことになりました。

 とても雅で、風変わりな素敵なお名前を、私みたいな汚らわしい女が容易く呼んでいいのか疑問に思いましたが、詩季さんが赦してくれたので、忌憚せずにそう呼ばせてもらいます。

 これでようやく、詩季さんのことを少しだけ知れたような気がします。

 ビートルズとお酒と紅茶が好きだということ、強く信頼している友人がいること、そして、とても優しい人間だということ。

 まだまだ知らないことばかりなので、明日は好きな食べものでも聞いてみようと思います。

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