第6話 ひとの恋愛談を聞く

 自分以外の誰かがいる部屋で目を覚ますのは不思議な感覚だった。

 夜遅くに帰っても、眞白は部屋の電気をつけて待ってくれているし、僕より早く起きた日には、朝ご飯も用意してくれた。

 眞白は前に、料理はあまり得意な方ではないと言っていたが、僕からしたら十分な出来だった。

 鯖の塩焼き、肉じゃが、豚汁、レモンの蜂蜜漬け。家にあった僅かな食材で、眞白は色々な料理を作ってくれた。僕はそれが素直に嬉しくて、昼間にスーパーに通うのが日課になっていた。

 そんな風に過ごしているうちに、ボロアパートのきつい匂いに鼻が慣れたように、気づけば眞白のいる生活に慣れている自分がいた。

『慣れというものは非常に怖いものだ。失った時、胸の柔いところに大きな穴が空いてしまうからな。そして、一番怖いのは、慣れているということに気づかないことだ』

 榊原の言葉だが、僕はあまりそうは感じないと思った。

 ある日突然眞白がいなくなっても、僕の生活に支障はない。

 僕の生活から眞白がいなくなることは、幕の内弁当から梅干しがなくなるくらい、些末なことなのだ。いやそれは言い過ぎか。訂正しよう。梅干し丸ごとではなく、種だけがなくなるくらいだ。

 それに、僕は慣れていることに気づいている。


「君は、一度でも本気で人に恋をしたことがあるかい?」

 三杯目の生ビールを飲みながら榊原は言う。

 今日は恋の話かと、酔った榊原の言葉を聞きながら思う。

 思えば、榊原と恋愛について語ったことは一度しかなかった。それも、僕たちが出会ってまだ三ヶ月ほど経った頃のことだった。

 あの日、僕たちは二人で海沿いの夜道を、ホイットニー・ヒューストンの曲を聴きながら、榊原のファンカーゴでひたすら走っていた。

 目的地なんて決めずに、窓から入る快い夜風に吹かれながら、規定速度ギリギリのスピードで走っていた。いや、運転していたのは榊原だったから、もしかしたら少しだけスピード違反していたのかもしれないが、真実は榊原とファンカーゴにしか分からない。

 僕は潮の匂いが堪らなく嫌いなため、煙草の煙でそれを打ち消しながら、夜風に吹かれる榊原の横顔を眺めていた。

「俺たちはこれからどこに行けば正解だと思う?」

「さあ。どこかに辿り着くわけでもなく、このまま夜が明けるまで走り続けるだけでもいいような気もする」

 いくらなんでも流石に吸い過ぎたせいか、少し頭が痛かった。

 喉の奥も少し痛むため、その痛みを洗い流すかのように、アルコール度数の高い缶チューハイを、溢れそうなくらいに口へ流し込んだ。

「君は行きたいところでもあるかい?」

 言いながら、榊原は慣れない手つきでライターで煙草に火をつける。この時はまだ、タールの低い煙草だった。

「特に思いつかないな。君は?」

 少し考えてみたが、そんな場所は思いつかなかった。強いてい言うなら便所だろうか。

「そうだな……。会いたい人間がいる」

 榊原は、フロントガラスの奥の方を見ながら答える。僕は同じようにフロントガラスの奥を一瞥したあと、もう一度榊原の横顔を捉える。

「それは誰だい?」

「薔薇のようにミステリアスな人さ」

 聞きながら、僕は缶に残っていた酒を胃に流し込む。もう何本目だろうかと、頭の片隅に埋もれた記憶を探す。ただ、三本目に手をつけたところからよく覚えていない。今日は酷く酔っ払ってしまったようだ。油断していると、今にも吐きそうだ。流石に車の中で吐くわけにはいかないし、もう酒を飲むのはやめようかと思ったが、それは無理な問題だった。

 僕は空になった缶を握り潰し、足元にあるゴミ箱に捨て、新しい缶を開けた。車内が揺れたせいか、開けた時に泡が溢れ出して手の甲が酒まみれになった。僕はちり紙を数枚手に取り、濡れた手を拭き、丸まったちり紙をゴミ箱に投げ捨てる。

「君は恋ってどんなものだと思う?」

 急だなと、僕は思った。

「さあ。一度も誰かに恋をしたことがないから分からないな」

「一度もないのかい?」

 榊原は不思議そうな顔で、僕を一瞥する。恋をしたことがないということが、そんなにもおかしなことなのだろうか。

「ああ。一度もないよ。君はあるのかい?」

「さあ。どう思う?」

 榊原は、少しだけ寂しそうに悪戯に笑う。いつもは迷いなく笑うから、榊原のこんな顔を見たのは初めてだった。

「そうだな……。例えば、君に好きな女がいるとしよう。容姿は上の中といったところで、基本的にはお淑やかだが、少しだけ変わった女さ」

 一体、なんの話をしているのだろうか。眠気に襲われながら、榊原の話に耳を立てる。気を抜いたらそのまま寝てしまいそうだった。

「学部が同じなだけで、一度も話したことはない。もちろん声も聞いたこともない。どんな匂いがするのかも分からないし、どんな風に笑うのかも知らない。それでも、君は恋をしてしまった。まるで、なにかに取り憑かれたみたいにね。講義中、いつでも彼女のことを見つめてしまうし、いつも彼女のことばかり考えてしまう。理屈では説明出来ない純粋な恋に落ちてしまうんだ。でも、ある日突然女は消えてしまう。女の存在が最初から夢や嘘だったかのようにね。君に取り憑く呪いだけを残して消えてしまうんだ」

「どうして消えたんだ?」

「俺と同じように、その女も大学をやめてしまったのさ。さあ、ここからが君への問題だ。もし、君がこんな立場に置かれたら、どこにいるか分からない上に、話したこともない女を探しに行くか? それとも、可能性のないその恋を潔く諦めてしまうか?」

 この時、僕はなんて答えたのだろうか。気づけば自宅のベッドで寝ていたし、記憶もここで途絶えていた。

 きっと、分からないと答えたか、答えるよりも先に眠ってしまったかの二択なはずだ。素面の状態で聞かれても、答えが出そうにないからだ。

 覚えていることがあるとすれば、この話をしている時は車内にワン・モーメント・イン・タイムが流れていたことと、フロントガラスの奥にある常夜灯が星のように輝いていたことくらいだ。

 僕たちは毎晩時間を共にしているのに、あの日以来恋愛について語ることはなかった。

 恋愛小説の話も、話題の恋愛ドラマについても、僕たちは語り合わなかった。

 恋愛経験皆無の僕にはそもそも語るものもなかったし、榊原も恋愛について語るのを故意的に避けているように見えた。

 語るものがない僕に気を遣ってくれたのか、それとも、他の理由で避けていたのかは分からないが、自ら恋愛について語り出すのは意外だった。


「……ないな。君はあるのか?」

「たった一度だけ。一度だけならある」

 あの日のようにはぐらかすと思ったが、素直に答えるなんて意外だった。それと同時に、あの夜の記憶が鮮明に頭にこびりつく。もしかして、あの話の女だろうか。とりあえず話を聞いてみることにしようか。

「どんな女だったんだ?」

「同じ学部の篠原って女を覚えているか?」

「よく覚えているよ。変わった女だったからね。もしかしてその子かい?」

 僕たちと同じ学部なら、彼女の名前を知らない人間はいない。まあ、いい意味ではないのだが。

「初めは、あんな女に恋なんてするはずがない。そう思っていたんだ。いつも最前列の席で講義なんて聞かずに居眠りしていて、講義が終われば誰よりも先に急ぎ足で帰宅する。そんな変わった女に恋をするなんてありえないはずだった」

 榊原は重たい前髪を掻き上げ、煙草に火をつける。あの日吸っていた時より、二倍近くタールの高い煙草だ。

「じゃあなぜ、君は彼女に恋をしたんだ?」

「自分で言うのも憎たらしいけど、俺は裕福な家庭に生まれたんだ。金に困ることもなく、欲しいものなんていくらでも手に入る。そういう家庭だった。偏差値が少し足りなくても、金の力で県一番の私立高校に入学出来たし、大学だって同じだった。でも、目的もなく大学に入学したから、入学早々行きたくなくなったんだ。そんな時に篠原と出会ってね。変な女だと思った。それと同時に面白い人間だとも思った。最初は、ただの好奇心だけだったんだ。でも、気づけばいつだって目で追っていた。講義なんて聞かずに、頭の全てを使って彼女のことだけを考えていた。そんな自分がいたんだ。そんな時に君とも出会ってね、毎日大学に行くのが楽しみだった。夜の帳、朝が待ち遠しく思えたのは生まれて初めてだったんだ」

 僕はハイボールを飲みながら、榊原の恋愛談をひたすら聞いていた。

 飲みながらふと、太宰の言葉を思い出す。

『私は、ひとの恋愛談を聞くことは、あまり好きでない。恋愛談には、かならず、どこかに言い繕いがあるからである』

 そういうものなのだろうかと、僕は思った。榊原の話には、そんな言い繕いなんてないように思えたからだ。

 そもそも榊原は嘘をつくのが苦手だし、僕は僕で、嘘を見抜くのが得意である。

 酔うとたまに嘘をつく榊原だが、とてもじゃないけれど、嘘をついている瞳ではなかった。

「でもな、君も知っていると思うが、それからしばらく経って彼女は大学をやめたんだ。空っぽになった彼女が座っていた席が、やけに寂しく思えた。空虚にもほどがあった。まるで、夜空から月が丸ごと消えてしまったみたいにね。彼女がいなくなったその席を、俺は毎日ひたすら眺めていたんだ。そんな時にふと思ったんだ。元々意味もなく通ってた上に、彼女がいなくなった大学に通い続ける価値なんてあるのかってね。だから、俺は大学をやめたんだ。こんなくだらない我儘でやめるなんて馬鹿みたいだろう?」

「さあな。僕は恋をしたことがないから君の気持ちが分からない。でも、馬鹿だとは思わないさ。それだけ好きだったんだろう?」

「ああ。自分の全てのように思えた。理屈では説明出来ないけど、そんな風に思ったんだ。色のない白黒の世界を二十年間生きてきた意味を、彼女と出会って初めて知ったんだ」

 ヒビのない透明なビー玉のように澄んだ迷いも靄もない目で、真っ直ぐに僕を見つめる。

 ああ。そうか。恋をしている人間はこんな顔をするのか。

「彼女にまた会いたいとは思わないのか?」

「もちろん会いたいさ。会って、今度こそ話してみたい。どんな声をしているのか知りたい。色々聞きたいことだってある。でも、このまま会えなくて、ひたすら彼女の幸せを願い続けるだけもいいような気もする」

「そうなのか?」

「ああ。俺は確信するよ。恋は、人間が命を無駄に捨てたりしないためにあるものだってね。彼女に会って振られたりなんかしたら、俺はこの世界に生きている意味をなくしてしまう。生き続ける価値を失ってしまうんだ。だから、このまま想い続けているだけの方がいい気がする」

 僕は、純粋に榊原を羨ましいと思った。自分以外の誰かを愛することが出来て、自分のこと以上に誰かを想うことが出来ることに羨ましく思えた。少し、妬みにも似た感情だった。だって、僕は自分のことですら好きになれないから。

「そうか。なあ、教えてくれよ。恋をするってどんな気分なんだ?」

「こんな恋だが、あまり悪くない気分だよ。簡単に説明出来てしまう恋なんてつまらないしね。恋をしてしまったことに後悔はないさ。ただ、誰かを想い続けるというものは、なによりも苦しいことだ。胸が張り裂けてしまいそうで、彼女を想うと涙腺が壊れてしまいそうだ」

 恋というものは難しい。榊原の話を聞きながら、そんなことを思う。

「君も経験してみたらいい」

「そうだな。一度くらいしてみるのもいいのかもしれない」

 言うと、榊原は三回ほど深く頷いた。

「因みに、俺が煙草を吸い始めたのもこの恋がきっかけさ」

「堂々と未成年喫煙を暴露するなよ」

「別にいいだろう? もう事後の話さ。それに、君も十九で吸っていただろう?」

「君が無理やり勧めたんだ」

 言うと、榊原はすっとぼけたような顔を見せたあと、僕から目を逸らした。目を逸らすのは別に構わないが、そんな間抜けな顔をしないで欲しい。まだ大人ではないが、もう子供でもないのだから。

「聞き忘れていたが、小説書いてみたかい?」

 卑怯なほどに、榊原は逸らすように強引に話を変えた。

「ああ。君に言われた通り自分のことを書いているよ」

 呆れながら答える僕の言葉を聞いて、榊原は大袈裟に驚いた。

「どうだ? 楽しいか?」

 食い気味に榊原は聞く。

「……思ったよりね」

「それはよかった」

 バレるまでは嘘ではないのなら、この時僕が紡いだ言葉は榊原にとっては真実だが、この夜、僕は初めて榊原に嘘をついた。

 初めて嘘をついて、榊原は嘘を見抜くのも苦手だと知った。乱用をするつもりはないが、あともう一回くらいは嘘をつくのを許して欲しい。

「そういえば、君に出会ったあの日、なんで君に話しかけたか分かるか?」

「ただ単に、僕と地獄変の話がしたかったからだろう?」

「半分正解といったところだ」

 他に理由なんてあるのだろうか。しばらく考えたが答えが見つからず、僕は口を噤む。

「君と友達になりたかったのさ。俺の恋愛談を黙って聞いたり、なにかについて意味もなくひたすら語り続ける俺を嫌がらないような、そんな友達が欲しかったんだ」

「僕が君の話を好んで聞いていると思うかい?」

 榊原の話は嫌いではないが、かといって特別好きでもない。たまに興味深い話の時もあるが、くだらない話の時の方が圧倒的に多いからだ。それでも、もう何年も一緒にいると、榊原の話を聞くのが日課になってしまっている。本を読むのと歯を磨くのと同じように、これから先も飽きることはないだろう。

「ああ。俺にはそう見える。この間も言ったが俺は幸せな奴だからね」

 紡いだ言葉を疑わない榊原を、僕は酷く羨ましく思った。

 こんな瞳で、僕もなにかを愛せる日が来るのだろうか。

 そして、同じように、僕も榊原に恋愛談を饒舌に語る日が来るのだろうか。

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