第5話 ドストエフスキーを読む女
よく晴れた空だった。青と白の割合が十対〇に近いくらい、青空が広がる日のことだった。
鼓膜に届くのは波の音と蝉時雨、全身を焼かれているようなくらい強い日差し、足先に触れる生暖かい砂、鼻に抜ける潮の香り。
あまりにも穏やかで気持ちのいいひと時だった。
僕は灼熱の太陽の下、そのままゆっくりと零れ落ちるように眠ってしまった。
夢の内容はなに一つとして覚えていないが、起きた時の絶望はよく覚えている。
全身に流れる冷や汗と鳥肌、雲の割合が増えた空模様、激しく動く心臓。
僕は飛び跳ねるように立ち上がり、そのままひたすら走り続けた。いや、罪悪感から逃げ出したかっただけだ。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
逃げたところで意味なんてないのに、僕は逃げ続けた。そして、走りながら何度もそう叫んだ。
「大丈夫ですか?」
反射的に寝返りを打つと、眞白が心配そうな顔をして僕を覗いていた。
「酷く魘されていましたよ」
ああ。そうか。夢だったのか。少し前までよく見ていた夢だったが、最近急に見なくなったからすっかり油断していたようだ。眞白の前でこんな恥を晒すなんて、滑稽にもほどがある。恥ずかしくてしょうがない。
「大丈夫ですか?」
黙ったままでいると、もう一度眞白は問いかけた。
「ああ。大丈夫だよ」
とても大丈夫と言える状況ではないけれど、これ以上眞白に心配をかけさせたくなかった。
僕は震える掌を布団の下に隠し、額に滲む汗をちり紙で拭き取ったあと、眞白に心配かけさせないように、微笑を見せた。
「よくあることなんですか?」
微笑を浮かべる僕を見ながら、眞白は口を開く。
「どうだろう。誰かに寝顔を見られることなんて基本的にないし、自分ではよく分からないな。夢の内容なんて朝起きると忘れているし、なにに魘されていたのかも僕にですら分からない。それに、そもそも魘されていたのかすら曖昧だ」
眞白には悪いが、僕は嘘をつくことしか出来なかった。これからは、眞白より早く起きないといけないな。
「本当にどんな夢を見ていたのか分からないんですか?」
流石の眞白も、こんな滑稽な嘘をつく僕に気づいたのだろうか。
「ああ。本当によく覚えていないよ。気づいたら君の顔が目下にあった」
我ながら酷い芝居だったが、眞白は納得したようで、それ以上なにも聞いてくることはなかった。いや、眞白なりに気を遣ってくれたのだろうか。そうだとしたのなら、眞白には感謝しないといけない。
眞白はソファーに座り、読みかけの本を手に取り、黙ったままひたすら読んでいた。
僕はその姿をしばらく眺めたあと、ベッドから立ち上がって、中古で買った安物のパソコンに向かった。
しばらくキーボードを叩いていると、眞白は本を読み終わったらしく、その本を本棚に優しくしまっていた。
僕はその姿を見て、壊れかけのCDプレイヤーでイギリスのロックバンド、ビートルズの曲を流した。
ポール・マッカートニーとジョン・レノンの声が、心地よく僕の鼓膜に滑り落ちる。二人のおかげで、作業効率は二倍ほど上がったような気分になる。まあ、実際はそんなことはないのだが。
「なにを書いているんですか?」
イン・マイ・ライフが流れ始めた直後だった。二人掛けのレザーソファーの右隅に腰をかけながら眞白は言う。
「友人に小説を書いてみたらどうだって勧められてね。他にやることもないし、試しに書いているのさ」
振り返りもせずに、キーボードを打ちながら僕は答える。
「楽しいですか?」
「どうだろう。楽しそうに見えるか?」
僕は手を止めて体ごと振り返り、眞白の顔を睨むように見つめる。眞白も同じように、パソコンデスクの前に腰をかける僕を見つめる。
「いえ。とても苦しそうです」
その言葉を聞いて、僕は意味もなく視線を窓の外に向けた。視界の先で、四十代くらいのスーツを着たサラリーマンが立ち止まって頸の汗を拭いていた。こんな暑さの中ご苦労様だ。
「どんな物語を書いているんですか?」
「残念ながら僕には創作力がなくてね。とりあえず自分のことを書いてる。友人にそうしてみろって言われたんだ」
言い終わると同時に、僕は眞白に背を向けてまた手を動かした。
眞白はそれ以上なにも聞いてくることも喋ることもなかった。
しばらくそうしているうちに眞白のことが気になって振り返ると、眞白は本棚に並べてあった本を手に取って、ソファーの上でまたひたすら読んでいた。
気になってその本の表紙を覗き込むと、ドストエフスキーの罪と罰だった。
「数ある中からよくその本を選んだな」
「面白くないんですか?」
「そういうことじゃない。とても面白い物語だったよ。ただ、辞書みたいに分厚くて、持っただけで頭がおかしくなるような、そんな小説を読もうとした君の好奇心の方がずっと面白い」
「……揶揄していますか?」
「いや。感心してるのさ」
揶揄していることが、眞白にバレていたらしい。なかなか洞察力があるなと感心しながら、僕は立ち上がって台所に向かった。
眞白と話していると、近くのスーパーで一昨日買ったシナモンティーが飲みたくなったのだ。
「今からシナモンティーを淹れるけど、君も飲むか?」
眞白は本から目を逸らして、僕を見て小さく頷いた。
その姿を見て僕は食器棚から空色の薔薇柄のティーカップを二つ手に取り、茶葉を入れる。お湯を注ぐと、癖のあるシナモンの強い香りが、汗の匂いと沈黙という言葉だけが漂う部屋中を駆け巡った。
「いい香りですね」
「そうだな。君はシナモンが好きなのか?」
「いえ。香りは好きですけど、実を言うと味は少し苦手です」
「じゃあ他のやつに変えるかい? 僕は紅茶が好きでね。アップルティーでもピーチティーでもなんでもあるんだ。もちろんコーヒーもある」
「大丈夫です。あなたと同じものが飲みたいので」
その言葉を聞いて、女はよく分からない生きものだと、眞白を見つめながら僕は思った。
こんな時、榊原ならなんて答えるのだろうか。そうだ。今日の夜、この話でもしようか。
「変な奴だな」
少し考えたが、僕にはこんな答えしか見つからなかった。もう少し時間があれば他の答えも見つかったかもしれないが、きっと、どの答えも正解ではないような気がした。
「よく言われます」
眞白は寂しそうに答え、ティーカップを手に取り、渋い顔をしながら飲んでいた。そんな顔をするくらいなら飲まなければいいのに。
僕も同じように手をつけると、その姿を見た眞白はまた本を読み出した。
飲み終わると、僕はまたパソコンに向かった。
相も変わらず、眞白は罪と罰を読んでいた。
文字を見つめるその栗毛色の双眸は、恐怖を覚えるほどやけに険しかった。まるで、誰かの拷問に耐えている時のような双眸だった。
牛車の中で焼かれた娘は、こんな顔をしていたのだろうか。もしそうだとしたのなら、残念だが僕はこの姿に恍惚することはない。
不思議だ。普段はこんなことなんて考えもしないのに、眞白といると変なことばかり考えてしまう。
僕は考えるのをやめ、日が暮れるまでキーボードを打ち続けた。
そしてまた、日が暮れた頃、眞白を部屋に残して酒場に向かった。
*
幼い頃によく食べていたグレープフルーツのように、とても酸っぱい匂いでした。
触れると人肌のように生暖かくて、舐めてみると海水のように塩っぱくて、赤子の髪の毛のようにサラサラで、満天の星空のようにキラキラと輝いていました。
ルールを破ってしまった背徳感と、やり切ったという達成感に襲われながら、目下に広がる美し過ぎる光景に釘付けになっていました。
叶うなら、ずっとこうして眺めていたい気分でした。
この時、生まれて初めて自分が生まれた意味を知った瞬間でもあったからです。
ふと、我に返って夜空を見上げてみると、無数の星たちがそれを眺めていました。
人一倍独占欲が強いため、その光景を独り占めにしたくなり、夢中になって地面に穴を掘って、星の視界から隠すようにそれを埋めました。
学生時代、特別なことを書いているわけでもない日記を親にバレないように、鍵付きの引き出しにわざわざ閉まっていた時のような感覚でした。
埋め終わり、しばらく星空を眺めたあと、人気のない夜道をひたすら歩き続けました。
翌日、天気予報が大きく外れて大雨が降りました。水をいっぱいに溜めたバケツをひっくり返したような、そんな雨でした。
土に埋めたそれが心配で、一度確認しに行きました。
ですが、地面がぬかるんでいて、とてもじゃないけれど歩ける道ではありませんでした。
大雨の中この道を進むのはあまりにも危険だと判断し、確認することを諦め、途方に暮れながら古書店に行きました。
理屈では説明出来ないけれど、無性に太宰治の本が読みたくなったのです。
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