第4話 榊原と対義語ゲーム
「なあ。幸福の対義語ってなんだと思う?」
相も変わらず酒場で酒を飲んでいると、ほどよく酔いが回った榊原が天井を眺めて言った。
「……無とかかな」
十数秒考え、僕はそんな答えを告げる。
「無? なるほど。それは面白い」
「突然どうしたんだ? もしかして、今日は人間失格でも読んだのかい?」
榊原は、読んだ本に影響を強く受けやすいタイプの人間だ。
スポーツの本を読んだらそのスポーツを始めようとするし、突然言葉遣いが変わったこともある。確か、この派手な服装もドラマの主人公かなんかに影響を受けたからだったような気がする。
「違うさ。別に対義語ゲームがやりたいわけじゃない。ただ単に、俺は哲学に興味を持ち始めたのさ」
またなにか変な本でも読んだのだろうか。そんなことなんてしてないで、早く仕事を見つけるべきなのに。
「君も幸福について生涯をかけて答えを探すのか?」
僕は呆れながら言う。
「そんな馬鹿な。俺は地獄と天国について知りたくなったのさ」
「死にたいのかい?」
「いいや。ただの好奇心だ。いざ死ぬ時、なにも知らなかったら困るだろう? だから知りたいのさ」
なるほどと、僕は榊原の双眸を見ながら頷く。
「君は天国ってどんな場所だと思う?」
「……そんなものなんてないさ」
あって欲しくないと言った方が正しいのだが、それは言わなかった。
「へえ。じゃあ地獄は?」
「そうだな。僕たちが今生きている世界ってのはどうだ?」
「俺たちが今、生きているこの場所が地獄なのか?」
僕は、本日二杯目のハイボールを飲みながら深く頷く。ペースが早い榊原と違って、今日はまだ酔ってはいないようだ。
「そうか。まあ、分からなくはない。ただ、俺はそう思わない時がある」
「例えば?」
「ここで君と酒を飲んでる時とかね」
よくそんなに恥ずかしいことを言えるなと思った。いや、初めて出会った時から榊原はこんな人間だったか。
「幸福になるには、自分でそう言い張るのが大事だと思うんだ。たまに不幸だと感じる時もあるが、少なくとも俺は幸福な人間だと思うし、君もきっとそのはずだ」
「君が僕と過ごす時間を幸福だと感じるように、僕もまた君と同じことを思っているということかい?」
榊原は頷きながら、ライターで煙草に火をつける。流石は喫煙歴三年。慣れた手つきだった。ただ、ここは室内だし風除けの手は必要ない。
「こうして地獄の話をしていると、君と出会った日のことを思い出すよ」
口に溜めた大きな煙を天井に向かって吐いたあと、榊原がそんなことを煙を吐くようにぽつりと呟いた。
「……そうだな」
「あの日は本当に暑かった」
「ああ。思い出しただけで背筋がゾッとする暑さだった」
僕と榊原が出会ったのはお互いがまだ大学一年生の夏で、今から二年ほど前のことだ。
今では、あの日のことを随分と前のように思うし、それと同時につい最近のようにも感じる。
あの日、講義終わりに僕は講義の内容をノートにひたすらまとめていた。
「なあ。君はさっきの講義についてどう思う?」
僕の真後ろから、まるで親しい友人に話しかけるかのように声をかけてきたのが榊原だった。
榊原は僕と同じようにいつも一人のくせに、誰の視界にも入らない空気のような存在の僕とは違って、背が高いせいでやけに目立つ人間だった。そのため、榊原の名前は入学当初から知っていた。ただ、話しかけられたのはこれが初めてだった。
僕から話しかけようとはしなかったし、そもそも榊原のことなんて気にもしていなかった。いつも一人でいる背が高くて前髪が長い奴。僕の中で榊原の印象はそれだけで、第一印象は忌憚のない奴だった。
「面白かったよ」
僕をやたらと不思議そうに見つめる姿に怪訝を覚え、僕は小声で答える。もしかしたら、彫の深い榊原の顔が少しだけ怖かったのかもしれない。純日本人だとは到底思えない顔つきだし。
「そうか。俺は、さっきの講義で一つ気になることがあったんだ」
「へえ。それはなんだ?」
正直興味なんてさらさらなかったが、ここで会話を終わらせるのもどうかと思い、不承不承だが榊原に問いかける。
「どんな状況に陥っても、溺愛する娘が目の前で燃えているのに絵なんて描けるものなのか? ほら、恍惚の表情で書いてる姿に大殿様本人ですら青ざめていただろう?」
「さあ。僕はそんな体験をしたことがないからね。ただ、とても描く気にはなれないよ」
「そうだろう? 芥川の話は短くて読みやすいし、珍妙で好きだけど地獄変だけはどうも納得いかないんだ」
「へえ。僕以外にあの講義を本気で聞いてる人なんて初めて見たよ」
僕らが通う大学は、世俗的にはいわゆる三流大学である。教授は生気も髪の毛もない高齢者ばかりで内容は薄いし、生徒も講義中は基本的に寝ているか、携帯をいじっているかの二種類しかいない。そんな中、僕は学費を無駄にしないために、このつまらない講義を真面目に聞いては、ノートにきちんとメモをし、講義終わりにはいつも一人だけ講義室に残ってノートをまとめている。
側から見れば普通の人間なのだが、ここでは狂気的な人間とされてしまう。そのせいか、僕は入学当初から同級生に話しかけられることはほとんどなかった。もちろん、それになんの不満もないが。
「確かに、講義終わりにノートをまとめてる真面目な人間は君しかいない。君はそれほど本が好きなのか?」
「いいや。別にそこまで好きではない。空いた時間を埋めるために読んでいるのさ。主に通学時や飯を食い終わったあととかね。なにもしないでいると気が狂いそうになるし、しょうがなく読んでいるといった方が正しいかもしれない。同じ質問をするが、君は本が好きなのか?」
好きな著作はあるけれど、本自体はそこまで好きではない。父親が大の読書好きだったため、早熟な子供の頃に影響を受けたのがきっかけで、呼吸や飯を食べるのと同じくらい、日々の中で本を読むという動作は、僕にとって当たり前のことだった。
「ああ。もちろん好きだよ」
迷いのない瞳で、榊原は即答する。
「君はなんで本が好きなんだ?」
「ヘミングウェイが言っていただろう? 書籍ほど信頼できる友はいないって」
「君は友達がいないのか?」
「ああ。君以外にね」
変な奴だと思った。初対面でこんなにも馴れ馴れしい人間に、こんなにも恥ずかしい言葉を容赦なく口にする人間に出会ったのは初めてだった。
「そうだ。このあと近くの喫茶店で本について語らないか? 次の講義まで相当時間があるだろう?」
「今の気温を君は知らないのか? この暑さの中外に出たりなんかしたら、体内の血液が沸騰してしまうよ」
朝、パソコンで天気予報を確認すると、今日の最高気温は三十六度まで及ぶと記載されていた。数字を見ただけで目眩がし、それと同時に僕を襲った寒気で風邪を引いてしまいそうだった。
せっかくエアコンの効いた室内で次の講義まで時間を潰しているのに、外に連れ出すとはいい度胸だった。そもそも、場所なんて変えなくていいのに。
「大袈裟な。せいぜい目玉焼きが出来るくらいだろう?」
「それもそれで大変さ」
「確かにな」
言いながら、榊原は大きな声で笑った。僕たちだけが残る講義室に、その声がトンネル内で叫んだかのように響き渡る。少し前まで講義室には人が溢れていたのに、いつの間に二人きりになってしまったんだ。
「まあ、いいじゃないか。洒落た場所でなにかについて語り合うって、なんだか大学生らしいだろう? 一度でいいからしてみたかったんだ」
そんな憧憬を正直馬鹿らしいと思ったが、不思議と嫌気はしなかった。
「分かったよ。それなら早く行こう」
言いながら僕が立ち上がると、榊原も同じようにゆっくりと立ち上がった。こうして改めて見てみると、本当に背の高い奴だった。百八十センチは余裕で超えていそうだ。
それから、僕たちは毎日のように講義終わりに喫茶店で本について語り合い、二十歳になってからは、毎晩のように酒場で酒を飲みながらくだらない雑談を交わすようになったりと、大学生らしい退廃的な生活を共に送ることになった。
今思えば、友人と呼べる人間が出来たのは齢十九で榊原が初めてだった。
寂しい人間だなと自分でも思うが、初めてが榊原でよかったなと、少しだけ酔いが回った僕は煙草を吸いながら思っていた。
榊原が僕のことを信頼してくれるように、僕もまた、榊原の言葉を信じている。
いつしか、榊原という人間は僕にとって必要不可欠な存在になっていた。
榊原は僕に変な気を遣わせないし、かといって榊原自身も僕に気を遣うことはしない。思ったことはなんでも口にするし、僕の間違いをきちんと指摘してくれるし、自分の間違いを否定することもしない。そんな榊原だからこそ、僕にとってそんな存在になったんだと思う。
ああ。少し酔っ払ったせいだろうか。それとも榊原の性格が移ってしまったせいだろうか。この僕が、こんなにも恥ずかしいことを考えてしまうなんて。榊原に知られたら大変だ。もう考えるのはやめよう。そう思いながら、僕は煙草に火をつけた。
榊原の顔を見ながら煙草を吸っていると、ふと、眞白の顔が頭に浮かんだ。
僕がいない間、眞白は部屋でなにをしているのだろうか。
なにをするのも眞白の勝手だが、いくら他人に興味がない僕でも少しだけ気になりもする。ただ、眞白はいつも僕の話を聞くだけで、自分のことは話そうとしない。
ただ単に、話すことがないだけのかもしれない。いや、そんなことはないはずだ。
まあ、焦らなくていいか。
必ずだ。必ず、眞白は僕に全てを話す時が来るはずだから。
そんなことを考えていると、酔い潰れた榊原がいつの間にか僕の隣で、机に伏せながら寝息も立てずに静かに寝ていた。
榊原のことはマスターがなんとかしてくれるし、今日はもう帰ろう。
帰ったら、眞白と対義語ゲームでもしてみようか。きっと、僕と同じ答えになるはずだ。
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