第3話 傘の中に二人
しばらく眺めていると、降る雨が更に強くなっていった。地面や屋根を叩く音が、地下鉄内の騒音のように、耳が痛くなるくらいに五月蠅かった。
向かいの喫茶店の窓に、屋根の下で雨を眺める僕の姿が反射していた。
ひたすら雨を眺めるその姿が、まるで教室の隅で想い人を眺める色恋少年のようだった。
そんなことは置いといて、いつまでここにいようか。そんなことを考えている狭間だった。
「凄い雨ですね」
右隣から、覇気のない掠れた声とそんな言葉が鼓膜に届いた。
振り向くと、生気のない矮小で痩躯な女が僕をじっと見つめて佇んでいた。生気がないと言うより、死人と言った方がずっと近いような気もするが。
僕も同じように女の顔を訝るように覗く。
高校生くらいだろうかと、少し幼い女の顔を見ながら僕は考えていた。
「天気予報の外れ方の方が凄いけどな」
「そうですね。午前中はあんなに暑かったのに、まさか今日に限って降るなんて」
「傘はないのか?」
「はい。ないからここで雨宿りをしているんですよ」
「そうか。普通はそういうものか」
会話はこれで終わり、僕らの間には気まずさだけが漂った。
何分間、その居心地の悪さと戦っていたのだろうか。滑舌が悪く諧謔のない教授のつまらない講義を九十分間聞いている方が、よっぽどマシに思えた。いや、どっちも最悪だ。
次に女が口を開くまで、まるで何時間も経ったかのように感じた。
「いつまでここにいますか?」
そんなことを聞いてどうするつもりだろうかと、女を眺めながら思っていると、忘れかけていた遠い過去の記憶が僕の頭を横切った。もしかしたらなと、僕は頭の片隅で薄ら考えていた。
「僕はもう帰るよ。君も早く帰った方がいい。この街はあまり治安がよくないからね。雨の日は特に」
言い、僕は持っていた白鳥色の傘を広げる。広げると、真っ白な傘地に汚れがついていることに気づいた。帰ったら拭かないとな。
「あの。もしよかったら、少しの間だけ家に泊めてくれませんか?」
僕が帰るのを止めるかのように、女は慌てながら口を開く。
「なぜ?」
「帰る家がないんです」
そんな馬鹿なと思ったが、女が嘘をついているような瞳でも、僕をからかっているようにも見えなかった。
「それは大変だな」
予想が当たっていて驚きはしたが、僕は素っ気なく返す。だが、それから少し経って僕はもう一度口を開いた。
「もし僕が家に泊めなかったら、君はこのあとどうするんだい?」
「どうしましょう。でも、ずっとここにいるわけにもいかないので、どこか別の場所に行くしかないです」
「この雨の中で?」
言うと、女は悲しそうに頷いた。
「歳は?」
「二十です」
僕の一つ下かと、少し驚きながら思う。だって童顔にもほどがあったからだ。中学生と言われても信じれる。
「なにか証明出来るものはあるかい?」
「運転免許証で大丈夫ですか?」
「ああ。構わない」
女は、所々に穴が空いているデニムのショートパンツの左ポケットから運転免許証を取りだし、黙ったままそれを僕に差し出した。そんな大事な免許証を裸のまま持ち歩いているのかと僕は訝りながら思ったが、そんなことはどうでもいい。
免許証を見る前にふと、女の足元を見ると白いスニーカーが泥で酷く汚れていた。少し、その汚れが赤黒いようにも見えた。
それに、よく耳を澄ますと、まるでなにかから走って逃げてきたかのように、女の呼吸が少しだけ荒かった。
僕が考え過ぎているだけなのかもしれないし、それは一先ずいいとして、僕は免許証に視線を落とした。
加賀眞白。二十歳。証明写真もあるため、免許証に偽りはなさそうだった。まあ、そもそも最初から疑ってなんていないのだが。身分証を見たかったのは、僕がわざわざ聞かなくても、女の名前を知れるからだ。
免許証を見ながら、僕は深く考える。
夏季休暇期間、夜は基本的に榊原と酒場にいるから家にいないし、昼間はひたすら課題に取り組んでいる。ワンルームだが、ものが少ないから小柄な眞白が住むには十分な広さはある。少し大きい犬を飼うのと大して変わりないはずだ。まあ、ペットは禁止されているけど。
もし、眞白が盗人でも盗まれて困るものは家にない。それに……。
「なるほど。そういうことか。まあ、少しの間だけなら構わないさ」
「泊めてくれるんですか?」
眞白は目を輝かせながら言う。その瞳を見て、相当必死だったんだなと僕は思った。
「ああ。嘘をついている人間は理由から話すはずだ。理由を話さないってことは、言えないからだろう?」
「はい。出来れば聞かないで欲しいです」
「聞かないさ。知って欲しくなったら言ってくれればそれでいい」
「優しいんですね。ありがとうございます」
「そんなことない。それより、僕はやることがあるんだ。ほら、帰るぞ」
言うと、眞白は僕が差す傘の下に、お邪魔しますと、僕に聞こえるように呟きながら入った。
眞白が僕の肩に触れる距離までくると、長い髪の毛からふわりとラベンダーのような香りがしたあと、懐かしい匂いが鼻を擽った。
それは、思い出したくもない過去に封じこめた刺激臭だった。
「お家って近いんですか?」
歩き出すのと同時に、眞白は聞いた。
「五分くらいで着くよ。それと、言い忘れていたが、古いアパートだけど我慢してくれ」
「気にしませんよ」
「古いせいで少し匂いがきついんだ」
一年ほど前に一度だけ榊原が僕の家に訪れたことがあるが、その匂いのきつさに榊原は狼狽えていた。その姿があまりにも滑稽で僕は笑ってしまったが、僕自身もここに引っ越してきた当時、榊原と同じような反応をした。
「まあ、三日くらい経てば気にならなくなるけどな」
気にならないというより、ただ嗅覚が麻痺しただけなのだが。僕も、今ではもうこの匂いに対して嫌悪感はない。むしろ、この匂いを嗅いでいると安堵するまである。
どうでもいい余談だが、三日ほど榊原と遠出をした時、久しぶりにこの匂いを嗅いで気絶しそうになったこともある。そのくらい、慣れていない人間には酷くきつい匂いなんだ。
「三日も泊めてくれるんですか?」
僕は足を止めて眞白の顔を確認したあと、また黙って歩き出した。それからしばらく歩き、僕は口を開いた。
「好きなだけいればいいさ。夏が終わるまでならね」
言うと、眞白は白い八重歯を見せて大袈裟に笑った。夏が終わるまでという発言に突っ込んで欲しかったが、眞白は全く気にしていないようだった。
「ほら、着いたぞ」
言いながら傘を閉じ、急な階段を登り、ドアノブに手をかけ、重いドアを優しく開く。
「案外匂い気になりませんよ」
言いながら、眞白は汚れたスニーカーを脱ぎ、踵を揃えて玄関にそっと置く。僕は、その隣に同じように踵を揃えて靴を置いた。僕は特別足が大きい方ではないが、眞白のスニーカーと比べると、大人と子供くらいの差があった。
「強がる必要なんてないぞ」
「本当ですよ。もっと酷いのを想像していました」
どんな匂いを想像していたのか気になったが、この匂いを嗅いで真顔でいれる人間を見るのは初めてだった。
「それにしても綺麗なお部屋ですね」
「ものが少ないからね」
「埃の一つも落ちていません」
自分の部屋が綺麗かどうかと聞かれたら、僕は普通と答える。普通の定義がよく分からないが、汚い部屋だとは思わないし、かといって特別綺麗な部屋だとも思えない。ただ、ものが少ないだけの狭い部屋。部屋の特徴なんてそれくらいだ。
「適当に座って構わないよ。ベッドで寝たかったら使っていいし、シャワーも勝手に浴びていい。サイズは合わないかもしれないが、着替えは僕のを使ってくれ。それと、トイレも好きな時に行って構わない。冷蔵庫のものも勝手に食べていい。まあ、大したものはないけどな」
「ありがとうございます。でも、私はソファーで寝るので大丈夫です。あなたの身長だと、横になったらソファーから足がはみ出てしまいそうなので」
「確かにそうだな。それじゃあ、他になにか聞きたいことはあるか?」
「二つだけ聞きたいことがあります」
「なんだ?」
「この部屋にあなた以外の人間が出入りすることはありますか?」
「いや、基本的にはない」
友人と言える人間は榊原しかいないし、その榊原はこの匂いがトラウマでアパートに近づくことすらしない。親だって、一度もこの部屋に訪れたことはない。宅配便ですら滅多に来ない。
「それと、私がこの部屋に一人で留守番をしても大丈夫ですか?」
答えはもちろんイエスなのだが、僕は少し意地悪をしようと思った。
「僕が家にいない間になにかするのか?」
「いえ。ただ、私は外に出たくないだけです」
やっぱり、意地悪をしたところで意味はないか。
「構わないよ。むしろ、基本的に夜は出かけているから留守番を頼みたい」
「それならよかったです。じゃあ、改めて今日からよろしくお願いします」
眞白は深く頭を下げて言った。普段、礼儀という言葉を知らない榊原といるせいか、眞白のことを凄く礼儀の正しい人間だと思った。いや、実際に眞白は礼儀のいい人間だった。
敬語の使い方も正しかったし、読んだ本や使ったものも全て、同じ場所に優しくそっと置いていた。いや、むしろ前より綺麗にしまってくれた。ちり紙をゴミ箱に投げて入れたりもしなかったし、自分の使った食器は自分で洗っていた。
生まれた環境がそうだったのか、それともなにか違う理由があるのかなにも知らないが、とにかく僕はそんな礼儀のいい眞白のことに好感を持っていた。
ただ、もしそれに生まれた環境以外の理由があるのなら、それはきっと、僕と同じ理由なはずだ。
「家に来たばかりで悪いけど、僕はもう家を出るから留守番を頼むよ」
普段はもう少し遅めに家を出るのだが、家にいたところでやることもなかったし、どうせ榊原はすでに酒場にいるはずだから、少し早めに酒場に向かおうと思った。
「どこへ行くんですか?」
「友人と飲みにね」
「その格好でですか?」
「いや、流石に着替えるよ」
言い、僕は眞白の返答も聞かずに洗面所に向かった。
着替え終わって部屋に戻るまで、眞白は一歩も動かずに僕の帰りを待っていた。
「じゃあ、留守番を頼むよ」
「分かりました」
その言葉を聞いて僕は眞白に背を向け、ドアノブに手をかける。
「あの……」
「どうかしたか?」
僕はドアノブから手を離し、体ごと振り返る。
「本棚にある本読んでもいいですか?」
眞白は部屋の奥にある本棚に、骨張った細い指を差しながら言う。
「君は本が好きなのかい?」
眞白は恥ずかしそうに深く頷く。恥ずかしがる理由を僕には理解出来なかった。女というものは全て、こういう生きものなのだろうか。
「言っただろう? 家にあるものは勝手に使っていいって。気が済むまで好きなだけ読めばいいさ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、行ってくるよ」
僕はもう一度背を向け、今度こそドアを開ける。
「行ってらっしゃい」
ドアを閉じる時、穏やかに言う眞白の声が鼓膜に届いた。
誰かにそんな言葉をかけられるのはいつぶりだろうか。不思議と、その言葉をかけられて嬉しく思ってしまう自分がいた。
僕は傘を広げ、雨を睨みながらゆっくりと歩き出した。
今日は平生より早く帰ろう。眞白が起きている時間に帰ればきっと、『おかえり』も聞けるはずだから。
馬鹿らしい考えだが、その言葉を聞ける機会なんて滅多にない。
眞白が気が済むまで本を読むように、僕も気が済むまでその言葉を聞きたいと思った。
「おかえりなさい。思ったよりも早かったですね」
玄関の扉を開けると、眞白は早足で僕の前まで駆けつけてきた。
「こんな時間だから、もう寝ているかと思ったよ」
「待っていたんですよ」
言い終わると、眞白はお腹を鳴らした。
「ご飯食べていないのかい?」
眞白は小さく頷き、もう一度お腹を鳴らした。
「勝手に食べていいって言っただろう?」
僕は言いながら靴を脱いで部屋に入り、ソファーに腰をかける。
「一緒に食べたかったんです」
眞白は少し恥ずかしがりながら言った。
もし、僕がいつもと同じくらいの時間に帰っていたら、眞白はどうしていたのだろうか。流石に痺れを切らしたのだろうか。それとも、餓死してしまっていたのだろうか。
「じゃあなにか作ろうか?」
言いながら僕は立ち上がる。本当は少し休憩してそのまま寝ようかと思っていたが。まあいい。
「私も手伝います」
眞白はそう言いながら、台所に向かう僕の後ろをついていった。
キャチャップライスにオムレツを乗せただけの素朴なオムライスだったが、眞白は嬉しそうに食べていた。思えば、誰かに料理を振る舞うなんて生まれて初めてだった。
眞白は食べ終わってすぐに台所に向かい、食器を丁寧に洗っていた。
もう随分と前に汚れは取れているはずなのに、何分間も同じ食器を洗い続けていた。
「お風呂借りてもいいですか?」
食器を洗い終わった眞白は、ソファーの上で煙草を吸いながら寛ぐ僕に言った。
「ああ。構わないよ。着替えとタオルは用意しておくから、好きなだけ入ってくるといい」
「化粧水とかはありますか?」
「一人暮らしの男の家にそんなものなんてないよ」
「そうですか」
残念そうな顔をすると思ったが、少しだけ喜んでいるように思えた。
「必要だったら買ってこようか?」
「大丈夫ですよ」
じゃあ、どうしてあるか聞いたのかと思ったが、僕はなにも言わなかった。
「じゃあお借りします」
言い終わると、眞白は浴室に消えていった。眞白が浴室に入ったのを確認し、僕は着替えとタオルを浴室の前に置いた。
湯船には浸かっていないしすぐに出てくると思ったが、三十分以上経っても眞白は戻ってこなかった。
ややあって浴室から戻ってきた眞白は、あまりにもサイズが合っていない僕のTシャツを下着もつけずにそのまま着ていた。
「この服可愛いですね」
「友人に貰ったんだ」
去年の誕生日に、榊原は見たこともないうさぎのキャラクターが描いてあるTシャツを僕にくれた。あの時は嫌がらせかと疑ったが、ようやく使い道が見つかって少し感謝を覚える。
「私が着てもいいんですか?」
「構わないよ。僕には似合わないし、一回も着る機会がなかったから丁度いい」
「それなら良かったです」
言いながら笑顔を見せる眞白を見て、僕は立ち上がった。
「じゃあそろそろ寝ようか。本当にソファーでいいのかい?」
「はい。背の低い私はここで十分です」
少し皮肉そうに眞白は言った。背が低いことを気にしているのだろうか。
「そうか。じゃあ、布団と枕を持ってくるよ」
一人暮らしを始めた時、特に意味もなく布団と枕を二人分買っておいて良かった。自分でも本当に買った理由が分からないが、今やっと理由が生まれた気がする。
僕は押し入れから布団と枕を取り出し、それをソファーの上に置いた。
「じゃあ電気を消すよ」
眞白が横になったのを見て、僕は言った。
「はい。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
そう言い終わるのと同時に僕は電気を消し、ベッドの上に横になった。
目を閉じながら少し考え事をしていると、眞白の寝息が鼓膜に届いた。
ああ。やっぱり疲れていたんだな。眠かったのなら、僕の帰りなんて待たずに先に寝ていれば良かったのに。僕は、電気を消す前に見た眞白の眠たそうな顔を思い出しながらそう思った。
しばらく眞白の小さな寝息に耳を澄ましながら考え事をしたいたが、気づけば僕も深い眠りについてしまった。
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