第2話 小説を書いてみる

 あの日は、夏にしてはやけに寒い日だった。

 この日、僕は近所にある年季の入った古書店の屋根の下で、煙草の吸い殻が散らばった地面を、殴るように容赦なく降る雨をひたすら眺めていた。

 側から見れば、雨宿りをしている普通の人間に見えたのかもしれない。それとも、羅生門に登場する、頬に出来た面皰を気にする下人のように見えたのかもしれない。でも、両者とも違う。

 怪しげな空を見て家を出る時に傘を持ってきていたし、僕はただ、特に意味もなく雨を見ていただけだった。

 つい最近二年間続けた喫茶店のバイトをやめたばかりだが、暇を出されて途方に暮れているわけでもないし、気にするような面皰もない。

 意味もなく眺めていると聞くと、僕のことを雨が好きな変わった奴だと思ったかもしれないが、僕は決して雨が好きなわけではない。むしろ逆だ。

 僕は、嫌いなものを眺めるのが趣味なんだ。眺めていた理由なんてそれだけで、我ながら、その益体のない下衆な行動に呆れてその場で笑ってしまいそうだった。

 自分で言うのもどうかと思うが、こんな格好で古書店前に佇みながら、雨を睨むように見つめるその姿が、とてもじゃないけれど狂気染みていて、傘を片手に僕の前を歩く人間は、一度僕の方に視線を向けたあと、すぐに目を逸らして早足で離れていった。離れていったというより、逃げていったという方が正しいのかもしれない。きっとそうだ。僕が彼らの立場なら、目なんて合わせずにその場から離れるはずだ。

 流石にこのままずっとここにいたら、この小さな街に危険人物がいるだなんて噂が流れてしまう。そんな滑稽な考えが頭に過り、もう少ししたら帰ろうと、三十秒ばかり進みが早い腕時計を眺めながら思っていた。



     *



「俺は人間が嫌いなんだ」

 相も変わらず酒場のカウンター席で酒を飲んでいると、右隣の席に足を組んで偉そうに座る榊原が、そんなことを吐き出すように言った。

「人間は金に勝てないし、性欲にも弱い。なにもなかったかのような顔で平気で人脈を捨てる」

 榊原がそんなことを特に前触れもなく饒舌に語り出すことは、日常茶飯事である。今日もほろ酔いの中、僕は聞く耳だけは榊原に傾けていた。

「俺はね、時々分からなくなるよ。全員が悪人に見えて怖くもなる」

「僕やマスターもか?」

「ああ。でも、自分が一番怖い。俺だってその嫌いな人間の一人だからね」

 聞きながら、僕はマスターが作った、喉が焼けるほどに濃いハイボールを胃に流し込む。時間が経ったせいで炭酸が抜けていて、氷が溶けたせいで平生より味が薄く、人の体温のようにぬるかった。

「分からなくもないな。君と同じで、僕もあまり人間が好きではない」

 溶けかけの小石のような氷だけが残ったジョッキを優しくテーブルに置きながら、僕は言った。

「そうだろう?」

「ああ。でも、君はこうやって嫌いな人間と、嫌いな人間が作った酒を飲んでいる」

 その言葉を聞いて、榊原は僕の顔を見つめる。まるで、僕が雨をひたすら眺めていた時のような冷たい双眸だった。

 二重幅の広い漆黒の大きな瞳が、カウンターの奥に置いてある、歪な形をした小洒落た間接照明の光で宝石のように輝いていた。僕はそれに釘付けになり、それからしばらく榊原の瞳だけを見つめていた。

 数秒間黙ったまま見つめ合ったあと、僕はもう一度口を開く。

「それに、君はその嫌いな人間に恋をするだろう?」

「……ああ。するね」

 榊原の恋愛談なんて聞いたことがなかったし、適当に言ったつもりだったが、どうやら図星だったようだ。

「然し君、恋は罪悪ですよ」

「漱石の言葉かい?」

「そう」

 僕は言いながら浅く頷く。

「漱石の言う通り、恋は罪悪かもしれない。恋をすることで人間は馬鹿になるし、恋が枯れたら、費やした時間も労力も全て無駄なものになる」

「じゃあなぜ、君は嫌いな人間に恋をするんだ?」

 榊原は、腕を前で組んで天井を見つめながら深く考えていた。僕はその姿を意味もなく黙って見つめる。

 榊原は何度も天井に向かって息を吐いていて、僕は煙草に火をつけながら、その姿をしばらく眺めていた。

「俺は、嫌いなものを好きになる性質らしい」

 ややあっと口を開いた榊原は、そんなことを自信なさそうな声で呟いた。

「それは矛盾じゃないのか?」

 少し皮肉そうに右側の口角を上げながら言うと、榊原は自分の頭を両手で強引に荒く掻いた。まあ、僕が言えたことではない気がするが。

「駄目だな。完全にアルコールが脳を蝕んでいる。数分前の言動ですら忘れちまってるし、今日はもう、まともなことが到底言えそうにないよ」

 自分自身に呆れるように、自嘲的に笑いながら榊原は言った。その姿を見て、僕は大きく溜息を吐く。

「アルコールも大概にしておけよ。僕は酔い潰れた君の面倒を見ないぞ」

 僕も自嘲的に笑って言いながら、煙草の灰を人差し指で灰皿に落とした。

「あなたが言うことじゃないでしょう?」

 僕たち二人の間に割り込むように、カウンターの向こう側にいるマスターが食器を洗いながら言った。

 マスターは、僕たちの話を全く聞いていないように見えて、実は最後まできちんと聞いている地獄耳を持つ怖い人だ。

 榊原は、最近体重を気にしているマスターを揶揄したいらしいが、酒場ではそんな話は到底出来やしない。まあ、マスターがいなくなったら、零れ落ちるようにすぐに話し出すのだが。

「マスターの言う通りだ。酒なんか飲んでいないで、大学生なんだからちゃんと大学に行くべきだ」

「何回言えば気が済むんだ? 今は夏季休暇期間なんだ。それに、途中でやめた君には言われたくないね」

 溜息を零しながら僕は煙草の火を消し、もう一本箱から取り出し、それに火をつける。オイルがないせいだろうか、なかなかライターの火がつかなかった。確か、百円ライターって千数百回くらいは火がつくと耳にした覚えがる。しばらく同じライターを使い回しているし、そろそろ替え時だろうか。帰りにコンビニに寄ろうかと思ったが、帰る頃にはすっかり忘れていたのは内緒にしておこう。

「いいのか? 勉強もせずに毎日こんなところで酒なんか飲んでいて。そろそろ就職活動でもする頃だろう?」

「大丈夫さ。日中にやるべきことをやってる。それに、僕のことよりも自分のことを心配したらどうだ? そろそろフリーターも卒業するべきだ」

 榊原は大学をやめてから、酒場の近くにあるコンビニでバイトをしている。僕が帰りに行こうとしたコンビニだ。

 就職をしないのか聞いたことがあったが、適当な理由でいつも濁していた。

「俺はやりたいことがあるんだ」

「それはなんだ?」

「小説家になりたくてね」

「随分と大層な夢じゃないか。実績とかはあるのかい?」

 言いながら、いつの間にかテーブルに置いてあった四杯目のハイボールに僕は手をつける。頼んだ覚えはないし、マスターが勝手に置いたものだろうか。それとも、頼んだ記憶がないだけなのだろうか。まあ、それはどうでもいいとして。

 思えば、榊原の夢を聞くのはこれが初めてな気がする。いつもは真面目に話を聞くことなんてないが、この時は不思議と興味が湧いていた。まあ小説家なんて言われたら、興味が湧くのも必然だ。

「一度だけ新人賞で三次選考まで残ったくらいさ」

「消して甘い世界じゃないだろう? 凄いじゃないか」

 お世辞なんて微塵もなく、素直にそう思った。そもそも、僕はお世辞なんて汚らわしくて言えやしないのだけれど。榊原のことを褒めるのは嫌気が差したが、そんな矜持を張る意味もないし、純粋に凄いと思った。

「これでも、一応元文学部だからな。そうだ。君も文学部なんだし、小説を書いてみたらどうだ?」

「御免だね。残念ながら、僕には物語を創る才能がないよ」

「物語になんてする必要はないさ。そうだ。自分のことを書いてみたらいい。今日あったことでもなんでも構わないんだ」

 物語にしなくていい。それを小説と呼んでいいのかと疑問に思ったが、僕は口を噤んだ。

「そうか……。まあ、考えてみるよ」

 言うと、榊原は満足そうに笑って深く頷いた。

 それから数十分ほど内容の薄い雑談を交わし、僕はジョッキに残っていたハイボールを胃に流し込み、会計を済まして外に出て、店の前で榊原と別れ、駅に向かって歩いていった。

 今日は飲みすぎた。そんなことを考えながら、生暖かい風を全身に浴びながらタクシーを待っていた。普段はタクシーになんて乗らないが、今日はとても歩いて帰れる自信がなかった。

 タクシーに乗ると、強烈な眠気と疲労が僕を襲った。酷い倦怠感だった。

 不思議だ。酒を飲んでいる時はこんな思いなんてしないのに、一人になった途端急に襲ってくる。厄介な奴だ。

 大した距離でもないのに、なにも考えずにいるとタクシーの中で寝てしまいそうだったため、寝てしまわないように、僕は頭の中でひたすら数式を解いていた。

 自宅のアパート前に着き、タクシーを降りて、僕は覚束無い足取りで、錆びついて今にも壊れてしまいそうで、崖のように急な階段をゆっくりと上った。一段一段上る度に、不気味な音を立てるため、飲んだあと家に帰るのが嫌いなのだ。

 壊れかけのドアノブを掴み、重たい扉を片手で開けると、部屋は昼間のように眩しいくらいに明るかった。

 僕は靴の踵を綺麗に揃えて玄関に並べ、リビングに向かった。


「おかえりなさい。思ったよりも早かったですね」

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