汝と約束は守れ

春木ゆたか

第1話 無様な死

 夏の終わりは、朝、目を覚ました時の絶望感とよく似ている。

 

 こんな書き出しで榊原は納得してくれるのだろうかと、僕は少し不安になる。

 読者の立場では、文の美しさだとか秀逸さだとか散々貶してきたのだが、いざ執筆してみると、自分の語彙力の貧弱さに呆れる上に、創造力がないことを思い知らされる。

  

『残酷な過去を抜けた先に存在するのは、魅力的な未来ではない。絶望的に過去に囚われたまま、無様に死んでいくのさ』


 僕は壊れかけのパソコンのキーボードを壊さないように優しく叩きながら、少し前に酒場で榊原がそんなことを言っていたのを思い出していた。

 本当はあの時、あの場所で死んでおくべきだったのではないかと、その言葉を頭の中に浮かべながら苛々と思う。

 少し前に、夢を操れる人間がいると榊原が楽しそうに話していた。

 時間を操るだとか、空を飛ぶだとか、誰もが喉から手が出るほど欲しがるような能力よりも、僕は夢を操る能力の方がよっぽど手に入れたい。

 そんなことをしばらく考えていると、疲れが溜まっていたせいか、僕は宵闇に誘われるように、パソコンの光を浴びながら眠ってしまっていた。



     *



 二〇〇三年 八月三十一日 日曜日 午前九時 今にも落ちてきそうな大きな雲を浮かべた快晴


 これから実行するというのにも関わらず、あまりにも平凡で平生と変わりのない朝でした。いつもと同じ顔で登ってくる朝日が少し恐ろしく感じました。

 学校の机の天板のように小さい窓から見える、鼠色の電柱に張りついた蝉は慟哭するように鳴いていて、その窓から入った生暖かい風と扇風機の風が触れる遮光カーテンは踊っているように揺れていて、夏の終わりを知らせるチャイムのように儚い音楽を奏でる風鈴も、私の顔を照らす灼熱の太陽も、癖のある独特な香りがする飲みかけのシナモンティーも、顔の全体を濡らす小粒の汗も、部屋中を駆け巡る煙草の煙も、昨日となにも変わりませんでした。

 自分自身も、これから実行するとは到底思えないほど不思議と泰然していて、恐怖という言葉がやけに他人のようでした。

 大きな欠伸と共に腕を小さな汚点がついた天井に向かって伸ばしたあと、少しだけ冷めたシナモンティーを口に運び、癖のある香りに囚われたまま意味もなく小さな窓の外を見ました。

 夏の終わりとはいえ、この日は特に気温が高く、まだ陽炎が視界の先にありました。

 秋の足音が聞こえ始めたこの時期、夏に対して大した思い入れもないはずなのに、なんだか物寂しさを覚えてしまうのは、私だけなのでしょうか。

 うだるような暑さ、赤く腫れ上がる蚊に刺され、日焼け止めクリームを容赦なく流す大粒の汗、夏の象徴である蝉の大きな鳴き声。

 夏の嫌いなところは枚挙に遑がないはずなのに、なぜか夏のことを嫌いにはなれません。

 夏休みの終わりが近づいて悲しさでいっぱいだった小学生の頃の気持ちが、未だに忘れられていないせいでしょうか。それとも……。

 そんなことをいつまでも長々と書いている時間もないので、夏への思いを綴るのはもうやめようと思います。

 もうこれで最後ですから。最後に少しだけ、本当に少しだけ私の思いを書かせてください。

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