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電気を付けていても薄暗い夕方の教室。校庭から聞こえる賑やかな声。
窓の外には陰鬱な雲が広がり、今にも雨が降り出しそうな天気だった。
「小学生にはあまりにも酷です。成長に悪影響を及ぼしかねません。これ以上、背が伸びなかったら……」
「別にいいじゃありませんか。女の子は小さい方が可愛いし。それに、そのほうが仕事もたくさんくるんです」
「でも発育に影響が」
「だから別にいいって言ってるでしょう。なんです? 玲那が何か文句を言ったんですか?」
「いえ、それは……」
「本人が何も言っていないのだから、余計なこと口出ししないでください」
今日は、今年に入ってから幾度目かの、玲那の母親との面談日である。玲那には保健室で待ってもらっているが、話し合いは永遠と平行線をたどり、お互い的確な妥協点を見つけられずにいた。
こんなとき、ベテランの先生ならどういう風に対応しただろう。
真咲は、まだまだ未熟な自分に思わず歯ぎしりしたくなった。
そのとき、教室の扉が勢いよく開いた。驚いて扉のほうを見ると、そこに立っていたのは玲那だった。表情は暗く俯き、瞳は前髪で隠れて見えない。普段の様子とは明らかに違う彼女に、思わず言葉を失った。
しかし、焦る真咲とは対照的に、母親は柔らかにほほ笑んだ。
「玲那。玲那はお仕事好きよね? もうお家に帰りたいわよね? だってこんな時間無駄だもの。玲那はお母さんの言うことだけ聞いていればいいのよ」
「……嫌だ」
「え?」
「もう嫌だ。友達と遊びたいし、お出かけもしたいし、美味しいものも食べたい。全部お母さんの言いなりなんて嫌だ。もうやりたくない。もうお仕事なんてやりたくない!」
そう叫ぶと、玲那は強く唇をかみしめた。
真咲の前で、初めて見せた本心だった。
しかし、母親は呆れたようにため息をついた。「はいはい、そうなのね」と言いながら、バックを持って玲那のもとへ歩いていく。
まるで子供の戯言を受け流すように。まるで一時の反抗期だとでもいうかのように。──母親は、娘の言葉を真剣に受け止めようとしていない。
「わがまま言わないで。帰るわよ」
「嫌だ!」
母親が玲那の腕を掴む。しかし玲那は強く首を横に振りながら、母親の腕を払い、教室の奥へと逃げた。
「行くわよ。これから予定あるんだから。バレエのレッスン」
じりじりと追い詰められ、玲那はついにベランダへと出る。
――だめだ
真咲が最悪の事態を想定して駆け出したとき、彼女はベランダの手すりに手をかけた。
「だめだ!」
真咲の叫びは、彼女に届いたはずだ。
玲奈は泣きそうな顔で真咲を見た。
しかしその瞬間、ベランダから一気に身を乗り出した。
「玲那!」
「玲那!?」
真咲と母親が叫んだのはほぼ同時だった。
真咲は思いっきり手を伸ばした。
――彼女の身体が宙に浮く。
真咲は玲那の手を掴んだ。
――しかし彼女の身体は下方へと落下していく。
真咲は玲那を庇うように体を引いた。
――二人は一緒になって、コンクリートの地面へと落ちていく。
まだ死んではいけない。
君は魔法使いではないんだ。
こんなところから落ちたらそれこそ致命傷だ。
死ぬならせめて、夢を叶えてからにしてほしい。
「死ぬな! 玲那!」
それが教師としての、生徒を教え導く、ということだと思うから。
どんっ、という音がした。それは、自分自身の音だった。頭部を強く打ち付けたことによる脳挫傷。腕と背骨の骨折。玲那の体重が思いっきり真咲の身体にのしかかり、全身の骨に亀裂が入る。
それは間違いなく、致命傷だった。
真咲の月の石にピキ、とひびが入る。
鈍色の空は鈍く乱反射を繰り返し、地面に広がる赤を鮮明に映し出している。
徐々に薄れゆく意識の中で、真咲は“あの日”の夢を見ていた――
◆❖◇◇❖◆
あれは日が落ちる一歩手前、そう、燃えるような夕暮れ時だった。
耳に蔓延る爆音。脳裏に焼き付く業火。額に脂汗をかきながら目を覚ますと、目の前には真っ白な天井が広がっていた。
結愛が事故にあった日。真咲が目を覚ますと、そこは病室だった。医師からは、友達の事故現場に遭遇してしまいショックで気を失ったのだ、と説明された。たまたま居合わせた通行人が救急車をよんでくれたのだという。看護師から「大柄な男の人だったよ」と言われて、おそらくあの人だな、ととりあえず合点がいった。
自分のことなのに、ひどく他人事のように感じた。
「あの、結愛は」
「……集中治療室よ。でも……」
歯切れの悪い回答に、大体のことは察しがついた。
結愛は、まだ死んではいない。
しかし死ぬのは時間の問題である、ということだ。
「……そうですか」
結愛が最後に言った言葉を思い出す。魔法使いとは、人を救うのと引き換えに、死ぬ運命にあるのだ。
精密検査を受け、特に異常無いことが分かると、明日には退院しても大丈夫だと言われた。一泊二日とは、大分短い入院である。ついでにカウンセリングも勧められた。医師はアフターケアがなんとかと言っていた。
でも、そのとき真咲は不思議と悲しさは感じていなかった。結愛の死に実感が持てないとでも言おうか、とにかくあの公園に行けばまた会える気がしていたのだ。
翌日、入院中の荷物を持って外に出る。白い壁や白い布団・白い白衣を見続けていたせいで、外の色鮮やかな景色に少し目眩がした。
道路を渡り、いつもの公園へと向かう。
しかし、結愛はいなかった。
いつもの通学路を通って帰る。そのとき、自転車が真咲の背後からひゅんと追い抜かしていった。何気なく自転車を目で追うと、ちょうど道路には赤黒いシミのようなものができていた。
そうだ、あのときは自転車ではなくトラックだったのだ。真咲に迫りくるトラックを、結愛が庇ってくれたのだ。そして、紛れもなく、あの場所で結愛ははねられたのだ。
真咲は思わずその場にしゃがみ込んだ。
真咲のために、結愛は死ぬのだ。
その残酷な事実に、吐き気がした。
結愛を助けたい。結愛を救いたい。無理だと知っていても、無謀だと分かっていても、どうしてもそう思ってしまう。
真咲は掌を見つめた。結愛から継承された魔法は、この自分自身の中にあるはずだ。
真咲は走って家に帰った。ただいまも言わずに慌ただしく帰ると、階下から「真咲?」という母親の声が聞こえた。しかし、その声すら無視して自分の部屋に入り、部屋の中央に立った。円い模様を描く絨毯は、まるで魔法陣のように見えた。
静かに息を吐く。意識を集中させる。
結愛を助けたい。結愛を救いたい。
今度は、自分が結愛を救うのだ。
「聖なる力よ、時空の川を、我が
ゆっくりと、だが鮮明に、巨大な時空の川が真咲の目の前に現れた。
結愛の過去・現在・未来。真咲の過去・現在・未来。
二つの巨大な時の流れを、冷静に分析していく。結愛を助けるにはどうすればいい? どこの過去を変えるべき?
ぐるぐると渦巻く時空の川の中央で、真咲は、ある一点の過去に焦点を合わせた。そして、そこへ向かって大きく目を見開く。
「此方へ!」
突然、ぐるん、と大きく視界が回った。
何も見えない。何も存在しない。何もない。そこにはただ静かで無機質な空間が広がっていた。
「どうしましたか?」
ぱっと振り向くと、そこには不思議そうな顔をした看護師がいた。
そこで真咲は、はじめて自分が目をつぶっていたことに気が付いた。眩いLEDが、暗がりに慣れてしまった真咲の目を突き刺した。目を細めながらも、辺りを見渡せば、白い壁と長く続く廊下が広がっている。
「あ……いえ、大丈夫です」
早口でそう言うと、真咲は看護師に背を向けて歩き出した。真咲の記憶が正しければ、ここは結愛が小学生のとき、心臓病で入院していたという病院である。
結愛の病室の部屋番号は知らなかった。しかし、何となくここだろうなという予感がする場所ならある。一般人の直感は当てにならないが、魔法使いの直感なら少しは説得力があるだろう。
一番南側の日の当たる部屋。真咲が中に入ると、ふわりと風が起こった。部屋は消灯の時間で暗く、ほんのりとした月明かりが少女を照らしている。橙の光が、白のベッドに反射し、光の中に少女が浮かび上がっているかのようだ。
「結愛……」
真咲の声に、少女はゆっくりと振り向いた――かと思ったが、みるみるうちに体が傾いていく。とっさに駆け寄り、体を支える。すると、後ろから男性の声が聞こえた。
「その子は、大丈夫だよ」
「あなたは……」
思わず息を飲んだ。結愛に魔法を継承し、心臓病を直したという――あの男性魔法使いだ。そして、今、真咲が一番会いたかった人物だった。
真咲がこの過去に来た理由。それは彼と話をするためだったのである。
「その子の友達なんだろう? 心配はいらない。病気はすぐに治るよ」
「……『大人になりたい』という夢もですか」
男は驚いたように目を見開いた。
「僕、未来の魔法使いなんです。結愛は、大人になるという夢を叶える前に、僕を助けるため命を落としました。いや、命を落としたと断言するのはまだ早いですね……でも、もう時間の問題みたいです。だから今度は僕が魔法使いとして、結愛を救いたいんです。だけど、方法が何も分からない……」
男性魔法使いは、真咲の話を黙って聞いていた。しかし真咲は必死になって頭を下げる。
「お願いします。結愛を助ける方法を教えてください。少しでも結愛が長く生きられるように。僕はどうなっても構いません」
「……答えはシンプルだ。できない」
真咲は顔をあげた。大体予想はついていたことだ。
「ただ君は一つ勘違いをしているようだね。魔法使いは『夢を叶えるまで』は絶対に死ねないんだよ」
「え……? それはどういう……」
「とにかく、もとの世界に帰りなさい。そうすれば自ずと分かるから。私が言えるのはこれだけだよ。……魔法使いの
「……そうですか」
落胆の表情はうまく隠せていただろうか。
真咲が静かに病室を出ようとしたそのとき、男は小さな声で呟いた。
「二人の命、共にあらん」
月が一瞬だけ大きく輝いた。真夜中の幻覚かと思うかのような、ほんの一瞬だけ。
真咲は、男を凝視した。
男は真咲を励ますような、憂うような、そんな表情で見つめた。
「決して助けることはできない。でも、それでもあがいてしまうのが人間というものだ。たとえその先に待ち構えているものが、苦しい未来だったとしてもね。本当に魔法使いとは過酷な運命だよ、君も彼女も。もちろん私も。……まるで一種の“呪い”だ」
男の言葉に頷くと、真咲は今度こそ病室を出た。
満月は、眩しいくらいに輝いていた。
数日後、結愛は目を覚ました。奇跡的な回復だと医師は驚いていた。
結愛は真咲に微笑んだ。全身に包帯を巻き、肌はただれ、ろくに身体も動かせない――そんな見るも痛々しいその姿で、静かに笑っていた。
「……魔法使いって、死ねないんですね。こんな姿になったとしても」
真咲は、強く拳を握りしめた。
自分のしたことにやっと気がついたのだ。死ぬべき状況で、死ねないことがどんなに苦しいか、今まで分かっていなかった。あの男性魔法使いの言った「呪い」という言葉を、本当の意味で理解していなかったのである。
結愛はこれからも生き続ける。成人式をむかえ、大人になり、二十歳になっても……それからも変わらず歳を重ねていくのだろう。どんな痛みも苦しみも、彼女の死の要因とはならない。
真咲の夢が叶い、真咲の命が尽きるまで。
結愛の運命は、真咲と共にあるのだから。
◆❖◇◇❖◆
すんすんと耳元で泣き声がしていた。
ゆっくりと目を開けると、そこは病室だった。10年前に見た風景と全く同じで、まるでタイムリープしてしまったかのようだ。それか、あの日の夢の続きでも見ているのかと錯覚してしまう。
しかし、あの時病院で目を覚ました際と違うのは、隣に人がいるということ。
「れ……な……?」
「……先生っ!」
目を真っ赤にはらした玲那が真咲に抱きついた。その拍子にあばら骨がぎしりと軋み、あまりの激痛に思わず顔を歪める。しかし、何よりも玲那が無事であったことにひどく安堵した。
医者によると、玲那は骨折のみですんだが、真咲のほうは損傷が激しく、いつ死んでもおかしくない状況が続いていたという。一週間が過ぎても目覚めることはなく、もう医師も諦めかけていたところだったらしい。
状況はあのときの結愛と同じだな、と思った。
真咲が目覚めたその数日後、玲那の母親が蒼白な顔で病室を尋ねてきた。横には玲那もいる。思うように動かせない身体に鞭を打ち、真咲は二人に顔を向けた。
「……本当に申し訳ありませんでした。娘が自殺を考えるほど悩んでいるとは思っていなかったんです……。こうなるまで我慢を強いるなんて……親失格ですよね。仕事は一時お休みさせてます。玲奈が嫌ならもう辞めてもいいと思っています。これからゆっくり話し合っていこうと思います。本当に申し訳ありませんでした」
母親は深々と頭を下げた。きっとこれから、この親子の関係は変わっていくのだろう。もちろん良い方向にだ。
「そうですか。よかったです」
ほっと安心して言うと、玲那がぽつりと呟いた。
「私、辞めないよ」
「玲那……?」
「私はやっぱり仕事するの楽しい。これからもずっとずっと大好きなんだと思う。私はもっと楽しく仕事がしたいだけだよ。もっと真剣にやりなさいって怒られるかもしれないけど、私は嘘の笑顔を見せたくないの」
そう断言する玲那の笑顔は、やはりプロの笑顔だった。今までは、それが本心の笑みなのか、それとも作った笑みなのか分からなくなることがあった。しかし、玲那はいつだって誠実に生きていたのだ。
「そうか。それなら先生も応援しないとなー。頑張れよ、玲那!」
「うん!」
教師として、これ以上ないやりがいだと思った。教師という仕事はきつい職場であるが、きっと皆このようなやりがいを糧にして頑張っているのだろう。
玲那たちが帰ると、隣のカーテンがシャッと開けられた。結愛が興奮気味に真咲へ話しかける。
「真咲くん。ついに叶ったんですね、夢」
「ああ。『たくさんの子供たちを教え導く』だろう? 十分すぎるくらい叶ったよ」
真咲は大きく頷くと、すっと背筋を伸ばした。覚悟を決めるのは、今しかないと思った。
少し緊張しながらも改めて結愛に向き合う。すると、それに気が付いた彼女もしゃんと背筋を伸ばす。
「結愛、話があるんだ。大人になった結愛が、どうして今まで生きてこれたのかについて。そして、いつ死ぬのかについて。今までずっと言えてなかったことがあるんだよ。長くなるけど聞いてほしい」
「……はい」
真咲は静かに語り始めた。
それは、結愛の呪いに対する懺悔でもあった。
結愛が二十歳になっても死ななかった理由。真咲が夢を叶えても死ななかった理由。それは、すべて、「二人の命、ともにあらん」という魔法のせいだったということ。「大人になるまで死ねない」という呪いの上に、さらに「真咲が死ぬまで死ねない」という呪いをかけてしまったということ。
結愛は一つも口を挟むことなく静かに聞いていた。
部屋の空気がひどく重く感じた。
「……そうだったんですね」
「勝手なことをして、ごめん」
「……いいえ。私はこんなにも長く生きれて幸せでしたよ。昔は絶対に叶わないと思っていた夢が叶ったんですから。それに私のために、過去へと行ってくれたなんて感謝しかないです。それくらい私のことを助けようと思ってくれていたんですよね。……真咲くん、本当にありがとう」
最後に「それに孤独死は嫌ですから」と付け加えて、結愛は笑った。そして、何もかも悟った瞳で真咲を見つめた。
窓の外はもう暗闇に包まれていて、数え切れないくらいの星が空を覆っていた。魔法使いが唯一最強になれる、無限の可能性を秘めた時間帯である。
星が瞬くように、黄金の光が結愛を照らしていく。
ついにこの時が来たのだ。命が共に果て、魂そのものが消え失せる、この瞬間が。
真咲の身体も無数の星屑に包まれる。光を放ち、白と金の輝きに、自分たちが一体化していく。
「真咲くんっ」
「結愛!」
真咲と結愛は互いに手を伸ばした。あのとき届かなかった手に。いくら伸ばしても離れていってしまったあの命に。真咲の体温と結愛の温もりが、互いの手のひらに伝わる。
星はどこまでも輝いていた。新月の夜は星がよく見える。月が死んでしまったかのような、そんな夜だ。
やがて二人の肉体は星空に溶け、跡形もなくこの世から消失した。光と共に迎えた二人の最期は、魔法使いにふさわしい美しい終焉だった。
病室には寂しげな
しかし、そこにはただ黒く変色した二つの月の石だけが転がっているだけだった。
玲那は夜を待っていた。辺りが闇に染まるその
夜にだけ最強になれる魔法使いは、昼を生きる人々の犠牲となって、呪いと共に生きていく。
今日もまたどこかで魔法使いが生まれ、そして死んでゆくのだろう。
夜の呪い 此糸桜樺 @Kabazakura
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