「それは言葉のあやだから」
ここでいう、〝あや〟は、
「誤」でもなければ、「文」でもなく、
「謝」でもなければ、「危」でもない。
「それは言葉の〝綾〟だから」
が正解だ。個人的な感想でいえば〝彩〟でもいい。
ことばを編む。綾取りをする。
「綾」は、狭義では。斜線模様の絹の布のことだが、美しくも巧みに、精巧につづら織られたさまざまな形や模様。
「言葉の綾」だからと使うとき、それは、
「複雑に苦心して作り込んだ文中の言い回しだから、誤解させちゃったかもね。ごめんね。わかりにくかったよね?」という意味で主に用いられる。
意味を違えて相手が受け取った場合の、それは〝やさしさ〟だ。
ミラン・クンデラが編み物をした?
クンデラの『存在の耐えられない軽さ』は、私の精神構造に融合したもっとも中心核にある小説のひとつ。映画で見られたことがある人もおられるかもしれないが、もしご興味のある方はぜひ集英社文庫の『存在の耐えられない軽さ』千野栄一訳の版をお読みいただきたい。
なぜわたしが、クンデラの名を出したのか、なんとなく伝わってくれたらうれしいけれども、伝わらなくても仕方がない。なんていったって、これも言葉のあやだから。
訳者の千野栄一氏の言葉を借りれば、「シャープではあるが陰影に富んだその芸術感」を持つのがクンデラだが――。
編み糸は、そのままでは、細く、頼りなく、火を点ければいとも簡単にすすけて、燃えカスとなり、地に落ちて踏みつけられ、もしくは明日降る雨に流されて、側溝の隅に追いやられるだろう。
雄弁な棒や、あるいは指先で、重厚に紡がれた糸は、引っ張っても千切れないばかりか、どこまででも広大な構造物となりうる。
美術館の大きな広間の真ん中に立つ彫像物には、ロープは張られているが、360℃そのどの方位からででも、鑑賞できうる力を持つ。
これは広間に置かれたクンデラの編み物。揺らぎつつも、そびえたつ、ピサの斜塔。
それは言葉のあやだから。
ぜひ、たったひとつでも、そのあやがあなたの心をざりりと気持ち悪くも舐めたなら、明日また、360℃、そのどこからでもいいから、明後日また、裏をのぞいてみたりしてもいいから、どうかまた、訪れてほしい。
この〝かいとおる美術館〟へ。
すばらしかったです。ありがとうございました。