第9話

 準備、といってもすることはない。ただの鬼ごっこなのだから。


 だだっ広いアリーナの中心に恢とメルリが向かい合う。もっともな理由で、シュックに指名された橄奈は、依然として不安な姿勢で、間に立つ。


「準備はできたようね。私が十秒数えるから、恢は逃げなさい」


「ああ、分かった」


 両者の間の準備はできているようだ。あとは、審判の合図を待つのみだ。


「ねえ、秋澄さん。こういう時、世間一般の観客は、どっちが勝つかを賭けると思うんだ。西部劇の酒場とか地下闘技場みたいにね。だから、僕たちもやらないかい?」


「そうだね、でも、どっちが勝つかなんて明白じゃないか。あの鈍間が勝つわけがない。それに、賭けるものも無いよ」


「それもそうか」


 広い客席の一番前で見学するシュックと秋澄は、恢の勝ち目は無いとみている。


「あのクソガキと気取り野郎、好きかって言いやがって。目にもの見せてやる」


「さあ、始めるわよ! 審判!」


 活発そうな見た目のわりに喧嘩や勝負事に慣れていなさそうな橄奈は、何かおびえた様子でメルリに答える。


「あっ、はい。二人とも準備は……できてますよね。で、では、これから、鬼ごっこを始めます。制限時間は三分。メルリさんは、十秒数えてからスタートし、時間内に恢さんを捕まえれば勝利。その間、左足を使ってはいけません。恢さんは、逃げ切れば勝利です。いいですね」


「ああ」


「いいわ」


 ルール説明と、双方の合意を得て、審判としての役割をこなす。


「それでは、よーい……スタート!」


「いーち、にーい、さーん……」


 スタートの合図とともに、メルリは片足立ちで十秒を数え始め、恢は、小走りでメルリから離れていく。


 障害物がなく、見通しのいいアリーナ内で、全力で走るメリットは無いし、何より相手は片足しか使えない。そんな相手に負けろという方が難しいかもしれない。


 絶対に勝てると思っている恢だが、傲りはしない。常にメルリを視界に捉え、十秒の中で確実に距離を取る。


「……きゅーう、じゅう! それじゃあ、追いかけるわよ」


 十秒を数え終えたメルリは、既に三十メートルほど離れているにもかかわらず、すぐに追いかけず、関係のない腕を伸ばしてストレッチをしている。


「そんなに余裕ぶっこいていて大丈夫か? 三分しかないんだぞ」


「正確にはあと二分三十七秒よ。そんなことより、ここ、運動するにはちょっと暑すぎると思わない?」


 鬼ごっこの最中とは思えない問いかけに、これ以上離れても荷が切れると判断した恢は、距離を取るのをやめる。


「そうか?適温だと思うけどな。そんなことより追いかけてこないのか? それとも、降参か?」


 立ち止まって話す二人だが、観客たちはそうではない。


「やっぱり、あれ、やるんだ。僕は、あそこまでやらなくてもいいと思うんだけどな」


「そうみたいだね。おーい、橄奈! こっちに来た方がいいよー」


「あっ、はいー」


 三人は、これからメルリが何をするのか知っているらしい。二人から距離を取り、集まっている。


「うーんそうね。やっぱり暑いわ」


 この時点で、既に一分経過している。しかし、メルリは、案山子の様に立っているだけだ。


「おーい! 早く追いかけて来いよ!」


 位置情報の変わらないメルリをさすがに心配して、少しずつ歩み寄っていく。すると、メルリが動きを見せる。


 ジャケットの内側から、そこに入るはずのないサイズのステッキを取り出す。それを左足の代わりにするのだろうか。そういうわけではないらしい。くるくると器用にステッキを回して感触を確かめているようだ。まるで、これからマジックを披露するかのように。


「ウォーターマジック アダマスグラーシス」


 ステッキを上へと掲げ、一周させる。


メルリを中心に氷が現れた。小宇宙の様に何もない空間に氷の結晶が現れる。それは、俗に細氷と呼ばれる現象だ。大気中の水蒸気が凍り、光を受けて虹色に輝く。その美しさから、ダイヤモンドダストの別称がある。


 細氷が起こったという事は、必然、周囲の温度が下がったという事である。マイナス十度を下回らなければ細氷は起こりえない。


「痛っ!」


 人は、生命の危険信号として、体温よりも低すぎるものを感知した際、痛みへと変換する。それは、生存の観点に置いて重要なものであるが、勝負事では、逆効果である。


 恢は、寒さによる痛みで、思うように身動きが取れない。しかし、それは万全の状態ではないだけで、片足立ちの女児から逃げるには十分な身体能力を残している。


「この魔法はすごいけど、これだけじゃあ、俺を捕まえられないと思うよ。ほら、普通に動ける」


 幻想的なフィールドで、鬼を煽るような動きをする。いくら綺麗な景色でも、見惚れて固まるようなへまはしない。


「かいー! 優しい優しい僕がアドバイスしてやる。あんまり動きすぎない方がいいぞ!」


 観客席にいる秋澄が、まだ終わってもいないのに話しかける。


「あ? お前のアドバイスなんて誰がき」


「あー遅かったか」


 恢は、話している途中に固まった。文字通り固まった。氷の様に固まった。


「あんた馬鹿ね。私の魔法が、寒くするだけだと思ったの? そんな訳ないじゃない」


 恢の身に起こったことそれは、過冷却である。通常、液体に起きるそれは、ゆっくりと氷点下以下に冷やした後に、刺激を与えると、一気に氷へと変化するものだ。メルリの魔法は、恢から体温を奪い、過冷却状態にしていた。そのため、動いた際の刺激によって、一気に凍り付いたのである。


「もう口もきけないと思うけど、安心して。シュックに頼めばすぐに戻れるわ。あっ、その状態じゃあ、頼むこともできないわね」


 ぐうの音も出ない。発音することすらできない。


「もうつまらないから終わらせちゃいましょ」


 今まで一歩も動かなかったメルリが動き出す。右足を一蹴り。なんと、その一蹴りだけで、かなり離れていた恢の元へとたどり着く。おまけに空中ではひねりと回転を加えている。華麗な着地を決めたメルリは、もちろん左足を付けていない。


「ざあこ」


 決着がつく瞬間、恢だけに聞こえたその声は、圧倒的実力差を知らしめる。


「勝者、メルリさん!」


 観客席から聞こえた橄奈の声は、勝者と敗者、強者と弱者、先生と生徒の力関係を示すものとなった。それと同時に、恢の帰宅を遅らせることを決定づけた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

魔法世界に平和を求めて ふろっぷ Frop @Frop-A

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ