四十六

 翌朝、陽鞠の手を引いて、凜は庄屋の屋敷に向かった。

 刀は置いて行こうか迷ったが、陽鞠が手離そうとしなかった。今も陽鞠が片手で抱えている。


 陽鞠の歩みに合わせて、凜はゆっくりと庄屋の屋敷に近づく。

 屋敷の前につけられた駕籠を背に、領主が待っていた。

 十数人からの衛士が警護につき、熊のような用心棒も控えている。


 村人の姿は見えない。

 そういう御触れが出ているのかもしれないと凜は考えた。


 凜は領主から数歩の距離をとって、片膝をついた。

 手を離した陽鞠も、凜に倣ったのか、たんに立っていられなくなったのか、両膝をつく。


「来たか」

「お待たせしてしまいましたか」

「何、待つのも一興よ。それが楽しみであれば尚更な」


 言葉通り、領主は上機嫌であった。


「ここに来たということは、良き返事を貰えると思ってよいか」

「は…」


 迷いが消えたわけではなかったが、凜はもうそれを考えまいとしていた。


 領主の目が陽鞠に移る。

 老婆のように真っ白な髪の、正体を無くした美しき少女に、目を細める。


「そちらが妹御か」

「は。陽鞠と申します」

「姉妹揃って美しいな。其方とはまた違う美しさだが」

「妹が迷惑をおかけするかもしれませんが…」

「なに、夢の中で生きる娘もまた儚かろう。愛でようぞ」


 何の悪意もなく言われたその言葉に、凜の全身から冷や汗が吹き出した。

 領主の言葉に、陽鞠もまた妾にするつもりがあるという可能性に、ようやく気がつく。


 そんな意図はないのかもしれない。

 しかし、陽鞠の面倒を見てもらうというのは、当然にその意味も含まれておかしくない。

 それを問いただすことは、凜がそのことを望ましい行いだと思っていないと伝えるのに等しい。

 この領主であれば理解が得られるかもしれないが、それは賭けだった。


 今更、断ることも難しかった。

 一度受ける流れになった話を反故にされたら、領主としての体面に関わる。

 本人の意思とは関係なく、ただでおくことはできないだろう。


 領主との敵対を、凜は避けたかった。

 敵対すれば、静かな暮らしが失われてしまう。


 凜は静かに息をついて、冷静になろうとする。

 そこまで、焦るほどのことかと考える。

 もともと、凜は陽鞠が蘇芳の妻となることを勧めていた。

 それと同じことだと思える。

 大公家の娘でもなく、巫女でもなくなった陽鞠の庇護を求める相手として、領主の妾というのは悪くないはずだ。


 そう思うのに、凜の脳裏に浮かぶのは初めて穢れを浄化した日の夜のことだった。

 涙ぐみ、取り乱して「拒絶しないであげて欲しかった」と言った陽鞠。


 陽鞠のことを凜は拒絶しているわけではない。

 しかし、陽鞠はどんなに先が辛くても、二人でいたいと言っていたのだ。

 あれは穢れとなった二人のことだけではなく、自分たちも重ねて言ったのだと凜は理解している。

 陽鞠に権力の庇護が必要だと思ったのは凜であって、陽鞠はずっとそれを否定していた。

 これが果たして陽鞠の望む決断なのか、凜には分からなくなっていた。


 凜の喉は干上がり、言葉は出なかった。

 何も言わなければ、このまま話は進むだろう。

 目を閉じ、流されそうになった凜の袖を、小さな手が掴んだ。


 はっとして凜は目を開いた。

 凜の袖を掴んだ陽鞠の何も見てはいない目が、真っ直ぐに凜に向かっていた。


「ご領主!」


 凜が叫んだのは、もはや本能にも近いものだった。


「何かな」

「…私は、剣士です」

「ほう?」


 凜は陽鞠が抱えた刀を掴む。

 陽鞠は大人しく刀を離したが、凜の袖は離さなかった。

 その陽鞠の手を握り、凜はゆっくりと引き剥がす。

 それから、腰帯に鞘を差して、領主に向き直った。


「ご領主の妾になるなら、剣を捨て未練を断ちたいと思います」

「なるほど、それで?」

「そちらの御仁と立ち合わせていただけないでしょうか」


 凜は用心棒の男に目を向けて言う。

 男は表情一つ動かさなかった。


「敗れれば私は剣を折ることができましょう」

「ほう。其方が勝ったら何とする」

「再び剣の道を歩みたいと存じます」


 この妾の話を荒立てずに断るなら、領主の面目を立てる必要がある。

 妾の話を断られるのではなく、凜の決意を尊重するという論理のすり替えだ。

 こんなことをする意味があるのか、凜にも分からない。

 領主には何の益もない話だ。全ては、興を引くかどうかだった。

 安定を取ろうとし続けて、結局のところ最も分の悪い賭けに出ている自分が、凜にはあまりにも滑稽に思えた。

 しかし、もはや賽は振られてしまった。


「…面白い。面白いな」


 そして、見事に領主の興を引いたようだった。


「だが、決闘は法で禁じられておる。それを犯そうというなら、私が命じることはできないな」


 戦乱が終わり、武士が衛士に変わった頃から、決闘は禁止された。

 しかし、剣術道場での仕合は許可されているし、その場合の得物は問われない。本人同士の合意があれば緩い取り決めではあった。


重里しげさと、お主が決めるがよい」


 声をかけられた用心棒の男、重里が一歩前に出る。


「御屋形様。立ち合えば、死ぬと思っていただきたい。よろしいか」

「おお、それほどのものか!」


 凜が死ぬ、とは言わなかった重里の言葉に、領主はむしろ楽し気に感嘆の声を上げる。

 重々しく頷いて、更に前に出た重里は凜の前に立った。

 応じるように凜は、ついていた膝を上げる。


「りん殿と言ったか。真剣でかまわぬか」

「無論」


 むしろ、凜にはそれ以外の想定がなかった。

 しかし、その躊躇いのなさに見守る衛士たちからざわめきが上がる。銃が主力となり、太平が続いた山祇で、真剣の立ち合いなど滅多に見られるものではない。

 それでも止めようとはしないのは、領主の酔狂に慣れているからだろう。


「重里殿と申されたか。迷惑をかける」


 この男こそまさにとばっちりを受けただけと思っての凜の言葉だった。


「迷惑? 迷惑だと」


 物静かであった男が、その体躯に相応しく獣のように歯をむき出して笑った。


「某はかつて一度だけ立ち合いで後れを取ったことがある」


 ゆっくりと腰の刀を抜く重里。

 打刀の拵えの鞘に納めて腰に差してはいるが、刃渡りおよそ二尺六寸の、おそらくは戦乱時代に打たれた太刀だった。朝廷により二尺三寸までと定められた近年の打刀より明らかに長い。


「天覧試合でのことだ。相手は女人であった。かの名高き守り手、華陽殿だ」


 その名に、凜は胆が冷える。

 気付いているのかと、疑念をおぼえた。


「故に女人だからといって侮らぬ。そして、華陽殿との立ち合いで一つだけ心残りがあった」

「それは?」

「真剣で立ち合えなんだことよ」


 もはや、言葉はなかった。


 間合いは二間。

 重里がゆっくりと剣を構える。

 頭の右手側に剣を立てる八双に近いが、右手の位置がもっと高い。

 この構えから繰り出される一太刀は、まさに必殺といえるだろう。

 それを躱すには全力で回避に徹するしかない。

 そして、そうなれば体は崩れて、次の太刀を躱すことはできない。


 凜にとっては最も相性の悪い手合いだった。

 体格に勝り、小手先の技を弄せず、牽制の通じない技量。


 凜は抜き打ちの構えをとる。

 抜き打ちとは遭遇戦でこそ活きる技であって、このような正面からの仕合に向いた技ではない。

 しかし、それ以外に凜に頼れる技はなかった。


 由羅との守り手の座をかけた立ち合いが思い出される。

 あれは体格で凜の方が勝っていたから通じた奇策であって、重里が相手では弾かれて終わりだろう。

 それでも、凜の活路はそこにしかなかった。


 凜はすり足で間合いを詰める。

 重要なのは、重里が必殺の一太刀を繰り出す機を凜自身が作り出すこと。

 後の先では遅い。

 後の先の先が必要だった。


 凜の状態は万全とはいい難い。

 体調はずっと優れないし、心は千々に乱れ、ここひと月剣を振ってすらいない。


 それでも凜は今、陽鞠を背負って戦う守り手だった。


 半歩、凜が間合いを詰める。

 そこは、凜の剣は届かず、重里の剣は必殺となる絶死の間合い。


 重里は掛け声など上げなかった。

 切先も体もわずかな予備動も見せず、完璧な浮身と抜重からの一太刀。


 早過ぎれば対応され、遅過ぎれば切られる、そんな刹那の機を捉えて凜は動いた。

 左に大きく体を開いて躱し、半身になりながら抜き打つ。


 体を開いた分、わずかに遅れた抜き打ちは、しかし剣速は勝り、男の一太刀を追いかけるように、その峯を押した。

 正中線で止まり、次の一太刀に繋がる太刀が、加速されてわずかに流れる。


 翻った凜の剣が、太刀の峯を滑るように走る。

 追いかけるように太刀が切り返される。


 ほとんど密着するような状態で、男の太刀の鍔元が凜の脇を打ち、凜の刀の物打ちが男の首に押し当てられた。

 寸止めのような形になったのは、凜の本意ではなかった。体格に勝るものとの戦いを想定する里の剣に寸止めはない。

 脇を打った太刀を止めるために堪えたことが、腕の動きを止めて拮抗を生み出していた。

 どちらも引き切れば致命傷になり得るが、男の方がより長く引く必要があった。


 間近で凜と男の視線が交錯する。

 首の皮一枚を切られた男の静かな目と、脇を打たれて脂汗を流す凜の苦しげな目が。


 微かに手を震わせて動けない凜に対して、重里はゆったりと剣を引いた。

 崩れ落ちるように片膝をついた凜が、大きく息を吐き出す。

 

「見事。其方の勝ちだ」


 静かに納刀した重里の顔を、凜は呆然と見る。

 勝ったなどという実感はまったくなかった。

 震える手で凜は刀を鞘に納める。切先を鞘口に当ててしまうなど、初めてのことだった。


 凜は領主に無言で頭を下げると、踵を返した。

 座り込んだ陽鞠の手を取り、立ち上がらせる。

 早くこの場を立ち去りたかった。


「待て」


 呼び止める領主の声に、凜は平静を装って振り向いた。

 領主は懐から取り出した巾着を、凜に向けて放り投げる。

 凜が受け取ると、じゃらりと重い金子の手応えがした。


「良いものを見せてもらった褒美だ。受け取るがよい」


 もう一度、頭を下げて、凜は陽鞠の手を引いて村の外に向かって歩き出した。

 その背中を見送る領主に、重里が近づいた。


「申し訳ございません。遅れを取りました」


 頭を下げる重里の肩に、領主は気さくに手をおく。


「なに、野にあって美しい花もあろう。摘むだけが愛でることではあるまい。其方も久しぶりに剛のものと立ち合えて楽しかったのではないか」

「は…」


 頭を上げた重里は、領主に顔を寄せて耳打ちをする。


「御屋形様、あの二方は…」

「よせ、言ってはならぬ。他言無用ぞ」

「ご承知であられましたか。酔狂が過ぎますぞ」

「ははっ。まこと、人の世は数奇なものよな」


 軽く笑うと、領主は遠ざかる凜の背中から目を離して駕籠へと戻っていった。

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2025年1月11日 00:01
2025年1月12日 00:01
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あの花かんむりを忘れない とらねこ @rapple1118

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