四十五

 庄屋の屋敷を出た凜は、家に向かって歩きながら先ほどのことを考えていた。


 いずれこの村での生活が破綻するのは分かっていたことだ。

 より良い環境がほとんど約束されているのだから、出ていく契機としてはまたとない好機だろう。

 村の恨みを買うこともなく、陽鞠にもっとましな暮らしがさせられる。

 こんな小さな村では、陽鞠に満足に食べさせて上げることもできないことが、凜を焦らせていた。

 それに、今のままでは陽鞠のそばにいる時間が取れなかった。


 今の陽鞠は、凜がいなければ何もできないのだ。

 食事はできるが、それは本能で目の前に出されたものを食べてしまうだけで、作り置くことができない。

 そして、人間は食べれば必ず出す。長い時間離れていれば、粗相もそのままだ。


 狩りをしなければ、陽鞠を食べさせることもできない。

 しかし、狩りに時間を使うほど、陽鞠のそばにいられない。

 その背反が凜を苦しめていた。

 

 考えるほどに、凜には悪い話とは思えなかった。

 それなのに、凜の中から躊躇う気持ちが消えない。

 何故か、泣きそうな怒り顔で自分を見る陽鞠が、凜の脳裏をちらついていた。


 いつの間にか俯きながら歩いていた凜は、行き先が騒がしいことに気がついて顔を上げた。

 数人の村の男たちが道の真ん中に集まっている。

 男たちに囲まれて蹲る陽鞠を、男の一人が抱え上げようとするのが隙間から見えた。

 その瞬間、縄で引きずられる陽鞠の姿が重なり、凜の頭は真っ白になった。


に触るなっ!」


 叫んだ凜が男たちを押しのけ、陽鞠を男の手から奪い取る。

 奪い取った陽鞠を腕の中に閉じ込めて、凜はその場に蹲った。


「私からもう陽鞠を奪わないでくれ…」


 凜は自分が何を言っているのかすら分かっていなかった。

 男たちが何事か頭の上で言っているが、それも聞こえてはいない。

 尋常ならざる剣士も、不屈の守り手もそこにはいなかった。そこにいたのは、宝物を奪われまいとする、ただの幼子だった。


 凜に声が届いていないと分かると、男たちは散り散りに去っていく。

 誰もいなくなった道で、ようやく凜は顔を上げる。


「…帰りましょう」


 腕の中の、やはり何の反応もしない陽鞠を抱えて、凜は立ち上がった。

 軽いはずの陽鞠が今の凜には重く感じられて、ゆっくりと家路を辿る。


 村の外れの家に着いた凜は、上がり段に陽鞠を座らせた。

 汲みおいておいた水を木桶に移して、裸足で汚れた陽鞠の足を洗う。


「陽鞠様、外に出てはいけませんよ」


 言っても無駄だと思いながら、凜はぽつりと漏らす。

 最近、陽鞠が立てるようになったのは分かっていたが、まさか外に出歩くとは思っていなかった。

 よりにもよって凜が不在の時に。


 入り口を開かないようにした方がいいだろうかと凜は考える。

 そうしたところで、奥の座敷は縁側になっているから外に出られてしまう。

 全て戸板を立てて閉じ込めるしかないだろうか。

 暗闇で心を壊した陽鞠を、また暗闇に閉じ込めることに、凜は慄然とする。


――歩けない方が楽だったな。


 自然とそんな考えが凜の頭に浮かんだ。

 次の瞬間、自分が考えたことを理解した凜は、自己嫌悪で吐きそうになった。

 込み上げてくる酢えたものを、必死に飲み込む。


「申し訳ありません…」


 陽鞠の手を取り、凜は額を手の甲につけて首を垂れる。

 陽鞠は何の反応もしめさず、しかしわずかに目線を上げて、土間の棚の上を見ている。


 顔を上げた凜は、その目線に気が付いて「ああ」と頷いた。

 陽鞠が触らないように、危険なものを片付けた棚の上から、凜は刀を下ろした。

 隠しておいた森から回収した物だ。


 刀を陽鞠に渡すと、陽鞠は両手で抱きしめる。

 そうしていると安心するようだった。

 自分よりも刀を頼りにしているのかと、凜は微かな蟠りを覚え、はっとしてその考えを打ち消す。


 思考が負の方向に傾いていることを、凜は自覚した。

 思っているよりも、自分が今の生活に限界を感じていると理解する。


 ため息をついて、凜は奥の狭い座敷に入り、隅にたたんだ薄い布団を敷いた。

 それから戻って抱え直した陽鞠を布団の上に運ぶ。

 布団の上に座った陽鞠と向かい合って、凜も畳に座る。


「先ほど領主から妾にならないかという話を貰いました」


 話しかけても、その声は陽鞠に届いてはいない。

 そんなことは凜にも分かっている。


「陽鞠様の面倒もみてくれるそうです」


 悪い話ではないのに、何故躊躇うのか。その答えを凜は陽鞠に教えて欲しかった。


「陽鞠様はどう思いますか」


 村の娘たちが着飾っていた理由が今なら凜にも分かった。

 領主の目に留まるためだ。

 そう考えれば、庄屋の娘が不機嫌だった理由も分かる。

 自分の娘が領主の目に留まると思っていたのだ。


 それは、領主の女探しが周知のことで、しかも悪く思われていないということを意味していた。

 あの手の粋や風流を重んじる人間は、行いの矜持が高い。飽きたから女を捨てるということはしないだろう。


 別に凜は領主に男として惹かれるものがあるわけではない。そもそもが、そういう感情とは無縁の人間だ。

 しかし、陽鞠の身を守るために、身を委ねる相手に足るかどうかだけを合理的に計る。


 懸念があるとしたら、紫星との約束くらいだと凜は思う。

 領主の妾は表舞台に当たらないかどうか。

 微妙なところかもしれないが、側室ですらないのだから問題はないだろう。

 それなのに、決断ができない。


 陽鞠は刀を抱いたまま、黒い瞳はどこも見てはいない。

 凜は自分の刀をじっと見た。


 自分の無力を認め難いのだろうかと思う。

 陽鞠を守るために、他者の力を当てにすることを矜持が許さないのだろか。

 蘇芳で一度、失敗していることが二の足を踏ませているのかもしれない。権力に陽鞠を奪われたのに、結局、権力に頼るしかないことが矜持を傷つけたのか。


 そうだとしたら、あまりにも小さい己の器が惨めだった。


「犬にでも食わせてしまえ…」


 そんな、何の役にも立たない矜持は。

 吐き捨てるように小声で凜は漏らした。


 陽鞠は何も答えてはくれない。

 凜が自分で決めるしかなかった。

 そして、迷いがあろうとも、凜の答えは初めから出ていた。


 凜は陽鞠のそばで体を丸めるように横になった。

 もう、ずっと頭の奥が重くて、疼痛が続いている。気を張っている時は体の不調を無視できる凜だが、気が抜けると痛みを無視できなくなった。

 目をきつく閉じて、歯を食いしばる。


 凜はもう、考えることも億劫になっていた。

 もともと考えることが得意な方ではない。腹の読み合いも、先の心配で心が揺らされるのも、もうたくさんだった。

 決断し、行動するだけでいい。それが一振りの刃というものだろう。


 凜は思考を放棄して、やがて意識も手離す。

 だから、凜は気が付かなかった。

 陽鞠の指がわずかに動いて、指先が凜の髪に触れたことに。

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