四十四

 弓を引くとき時、心は限りなく無に近づく。

 それは、抜き打ちの時の感覚に等しい。

 三尺ほどの半弓の弦を、凜は引くという意識すらなく引ききる。


 獲物との距離は三十歩。

 風下に立ち、木立から覗く雌鹿を視界に捉える。

 狙う、という行為は殺意に繋がり、敏感な動物はそれを察する。だから視界は広く、獲物を中心に置かず、風景の一部として認識する。


 森の囁きに身を委ねて、呼吸は深く保つ。

 弓は射るものではない。矢が自然と指から離れるのを待つものだ。

 時間の感覚が薄れ、自我もまた森の空気に溶けて同化する。


 放つ、という意識すらなくいつの間にか放たれた矢は、吸い込まれるように鹿の頭を射抜いた。

 糸が切れたように崩れ落ちる鹿。

 同時に広がった意識と視界が急速に狭まり、凜は静かに息を吐いた。


 射抜いた鹿に近づいて、様子を見る。

 矢は鹿の頭部を貫通しており、止めの必要もなく完全に即死していた。

 獲物を無駄に苦しめないのは、狩猟の不文律だ。命を頂くということに対する敬意と、苦痛による肉質の低下を防ぐという実利のために。


 手早く血抜きを終えると、凜は鹿を担いで歩き出す。


 凜が村に住み始めて、ふた月が経っていた。

 その間に凜は十頭の鹿を仕留め、村に渡した。


 猟師の家には狩りの道具が一通り揃っていた。

 その中に銃は含まれていない。

 領主からの預かり物である銃は、猟師が死んだ時点で返上しているからだ。

 あったところで、村人ではない凜が使うわけにはいかない。扱えないわけではないが、本来、農民の銃の所持は禁止されている。

 領主に猟の成果を献上する対価として、特別に所持が許されるものなのだ。

 使えば必ず誰が使ったかという問題になる。

 

 山育ちの凜は軽々とはいかなくても、確りとした足取りで進む。

 鹿が今の陽鞠よりもわずかに重いことに、胸が微かに痛んだ。


 半刻ほどで森を抜けた凜は、そのまま庄屋の屋敷に向かう。

 村人たちは、そんな凜を遠巻きに見ていた。

 畑を荒らす獣を狩り、村に肉と皮をもたらす凜は重宝がられているが、同時に恐れられてもいる。

 こんな小さな村では、凜たちはどこまでいっても異分子でしかない。

 特に凜くらいの年頃の娘なら、嫁にいっているのが当たり前だ。それが山野を駆けて獣を狩っているのだから、気狂いと変わらなかった。

 陽鞠と合わせて、どちらも頭がおかしいか憑き物の類と思われていた。


 しかし、今日は村人たちの様子がどこか浮ついているように凜には見えた。

 特に若い娘たちが祭りの時しか着ないような着物を持ち出している。


 訝しみつつ凜が庄屋の屋敷に辿り着くと、門に立派な駕籠が付けられていた。

 そして、歩哨のように門の両脇に衛士が立っている。


 凜の中で警戒心が首をもたげた。

 正体が割れた、という可能性は低いと凜は考える。

 ここは西白州だ。その大公が放置するとしたものを、わざわざ手配するとは思えない。

 可能性が高いのは領主の視察だろうか。

 そう考えると、猟師のいないはずの村で、このまま獲物を持ち込むのはいらぬ疑念を招くだろう。

 踵を返そうとした凜を、しかし大声が呼び止めた。


「りんさーんっ」


 庄屋の小間使いの少年だった。

 おそらく凜が来るのを待っていたのだろう。遠目で凜を見つけると、手を振って駆け寄ってきた。

 呼び止められてしまった以上、逃げるのは逆に不自然だ。

 凜の方からも歩み寄る。


「りんさん。庄屋さんがお待ちです」

「何事ですか」

「ご領主様がいらしているのです。りんさんが来たらすぐに呼ぶようにと」


 少し焦った声で小間使いが言う。

 やはり領主かと思いながら、凜は疑念を抱いた。

 庄屋が領主に自分を会わせようとする理由が、凜には分からなかった。

 庄屋にとっても、凜の存在は明るみに出ない方が益になるはずだった。


「分かりました」


 今は状況を見るしかないだろうと、凜は頷いて屋敷に向かった。

 門をくぐる時に、若い娘である凜が鹿を抱えているのを見て、衛士たちがぎょっとする。


「りんさん。鹿は預かります」

「お願いします」


 頷いて凜が鹿を渡すと、自分と変わらない重さによろめきながら、小間使いは屋敷の裏手に運んでいく。

 それを横目に、凜は屋敷の玄関をくぐった。


 玄関の取次には、庄屋の娘の三十路女が苛立たしげに待ち構えていた。

 凜の姿を見咎めると、きっと眉を寄せる。

 もともと好かれているとは思っていないが、今日は一段と不機嫌に凜は感じた。


「ご領主様がお待ちです。早く上がりなさい」


 凜は無言で従い、草鞋を脱いで屋敷に上がり、女の後をついて歩く。

 廊下を抜けて縁側に回り込み、奥座敷の襖の前で止まった女が、膝をついて中に声をかける。


「お連れしました」

「入ってもらいなさい」


 中から応じたのは、庄屋の声だった。

 女が開けた襖を通って、凜が座敷の中に入ると、後ろで襖が閉じられた。

 その場で腰を下ろしながら、凜は座敷の中を確認する。


 下座には見知った顔の庄屋が座っている。

 上座に座る、三十代半ばに見える男が、領主なのだろう。

 地方では領主でもまだまだ紋付が多い中で、背広を着ているあたり、洒落者と思える。

 清潔感のある、なかなかの男振りであった。


 その斜め後ろには、大柄な男がひっそりと控えている。

 熊のようにむくつけき男なのに、恐ろしく気配が静かだった。

 質素な着流しに、左には刀を置いている。衛士を差し置いて領主がそば近くに置いているということは、個人的な護衛なのだろう。


 男は凜の方に目を向けてきたりはしなかった。

 しかし、視界に凜を収めていることは分かった。なぜなら、凜もまったく同じことをしていたからだ。

 男の左手の小指が微かに動く。

 それに反応して、凜はほんのわずかに座る位置を後ろにずらした。


 男は領主を守る間合いを計った。

 凜は男の初太刀を躱す間合いを計った。


 お互い何の間合いを計ったのかを理解して、立ち合いにならないことを合意した。

 時代遅れの剣士が二人、間合いで交わした、誰にも理解されない会話だった。


 安坐した凜は、浅く領主に頭を下げる。


「凜と申します」

「うむ。この地の領主をしておる和泉是定いずみこれさだだ。面を上げよ」


 凜が頭を上げると、領主はほう、と感嘆を漏らす。


「なるほど、美しいな。子供の時分に北玄州で見た白狼を思い出させる」


 しきりに顎を撫でながら、領主は語る。


「知っておるか。白き大狼の神である真神まかみは、畑を守り、人を悪意から守る神であるが、神となる前は大口と呼ばれる人喰い狼であったという」


 そんなことを言う領主の意図が分からず、凜は黙って聞くしかなかった。


「この村から献上された鹿の毛皮は良いものだった。其方が狩ったと聞いたぞ」


 凜は目だけを庄屋に向ける。

 まさか領主に献上しているとは思わなかった。てっきり、売り捌いて、金に変えていると思っていた。


「傷がなく、一矢で仕留めたことが分かる。しかも、月に五頭とはな」

「増え過ぎていた故、少し間引きました」

「ほう、そこまで考えておるか。山の民と聞いたが」

「は…」


 庄屋に話したことは、全て筒抜けだと考えた方がいいと凜は判断した。


「我が屋敷の近くにも、ここより広く、豊かな森がある。どうだ、我が元にこぬか」

「お抱えの猟師になれと?」

「ハハ。それもまあ、間違ってはおらぬ。狩りをしたければ、好きにするが良い」


 理解できずに眉を寄せる凜を、面白そうに領主は見る。


「有り体に申せば、私の妾にならぬかということだ」

「は…私が、でしょうか」

「うむ」


 あまりに予想外の言葉に、凜は返答に窮する。

 自分の容姿が人より優れていることを、凜は自覚していた。

 しかし、それは男が好む類のものではないことも理解していたために、領主の申し出は完全に虚を突いたものとなった。


「そう意外そうな顔をするな。たおやかな花も良いが、空を舞う鳥もまた美しかろう」

「しかし、私には…」


 陽鞠のことをどこまで言っていいか、凜は迷う。


「妹御のことか? それなら尚のこと応じた方が良かろう。この村では、世話にも難儀しておるのではないか」


 痛いところを突かれて、凜は唇を噛む。

 俯いて黙り込んでしまった凜を見て、領主は自分の膝を叩く。


「些か性急であったな。明日の朝、この村を立つまでに決めてくれれば良い。言っておくが、断ったところでお主にも村にも罰などないぞ」


 罰はないと言っても、断ればこの村での凜の立場が悪くなるのは間違いない。

 おそらく、凜を差し出すことで村か庄屋は何らかの便宜が受けられるのだろう。庄屋の狙いは初めからそれだったのだ。

 当てが外れた庄屋は凜の利用価値を低く見積もるだろう。


「…お言葉に甘えて考えさせていただきます」

「うむ。よき返事を期待しておるぞ」


 軽く頭を下げて退出した凜の顔は、心ここにあらずといった様子だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る