四十三

 陽鞠を抱えて関所を脱出した凜は、山を一つ越えた所にある村にたどり着いた。

 陽鞠の状態は、正体をなくしたまま良くなる事はなかった。


 当初、凜はどこかの町で陽鞠を匿うつもりだったが、この状態の陽鞠を不特定多数の暮らす町に置いておくことは危険に思えた。

 陽鞠から長時間目を離すことはできないが、生活のためにはずっと陽鞠を見ていることもできない。

 一年前に所持していた金子は底が尽きかけていた。

 白髪の正気を失った美しい娘など、町中ではどんな輩に目を付けられるか分かったものではない。

 途中にあった川で洗い清めた時も陽鞠は一切の反応を示さず、抵抗することもなかった。今の陽鞠に自分の身を守ることはできない。


 陽鞠は一年の座敷牢の生活で弱っていて、歩くこともままならなかった。

 一日の大半を眠って過ごし、口元に持っていけば飲み食いだけはするのが救いだった。


 村の近くの森に刀を隠した凜は、陽鞠を連れて庄屋の屋敷を訪ねていた。

 流石に血の染みた着物は処分して着替え、最低限の身なりは整えている。

 とは言え、あまりに身なりが良ければ身分を疑われる。特に陽鞠は正体をなくしていても、顔立ちや身にまとう雰囲気に品があり過ぎた。

 不潔感を与えない程度に、薄汚れた様子は残しておく。


 座敷に正座して待つ凜の肩に寄りかかって、陽鞠は眠っていた。

 こんなことは共に旅をしていた頃もよくあった。その時よりも陽鞠からかかる重みが少ないことに、凜は胸が潰れそうだった。


 しばらく待つと、襖が開いて、老人が姿を現した。

 連れもなく、矍鑠として背筋の真っ直ぐな老人だった。


「お待たせしましたかな」

「いえ、突然訪れたのにありがとうございます」


 凜の正面に腰を下ろした老人が、自分を頭の上から観察するのを凜は感じた。

 老人の目が凜から陽鞠に移る。

 観察されていることは分かるが、感情が見えないことに流石の年の功だと凜は思った。


「この村の庄屋をしております重蔵です」

「凜と申します。これは妹の陽鞠です」


 凜は名乗りつつ、軽く会釈する。

 偽名を使うことも考えたが、下手な嘘をついて綻びる方が怖かった。「りん」も「ひまり」も音だけであれば、ありふれた名前だ。


「ご丁寧にどうも。さて、若い娘さんが二人、こんな辺鄙な村に何用ですかな」

「勝手な願いではありますが、この村に置いてはもらえないでしょうか」

「ふむ。もう少し詳しく伺えますかな」


 聞く耳を持ってもらえないことも考えられたので、凜は少し胸を撫でおろす。


「私たちは山の民のものです。朝廷には関わらずに生きてきましたが、集落が流行り病でほとんど死んでしまい、散り散りになりました。妹も一命を取り留めましたが、このようになってしまい…」


 凜は眠る陽鞠の肩をそっと抱き締める。

 凜の言ったことは完全に嘘ではなかった。剣の里の子供は身元がしっかりしており、身元を探ればどこかの人別帳に名前が記載されているものだが、凜だけは違う。華陽がどこからともなく赤子の時に連れてきた凜には、身元を明かすものは何もなかった。


「山の民…まだ残っていたのですな」


 まつろわぬ民とも呼ばれる山の民は、国に帰属せずに山中で狩猟生活をおくる民のことだ。

 この太平の数百年で村落に吸収されて、ほとんど残ってはいなかった。

 庄屋の目に、凜は微かな欲の光を見た。


「狩りの経験がおありで?」

「はい。親が集落きっての狩人でしたので」


 これも半分は嘘ではない。

 狩りの腕で凜に敵うものは、里では育ての親である華陽しかいなかった。凜一人であれば、山の中で生きていくことも容易かった。


「ほう。実は数年前に村の猟師が死んでしまいましてな。偏屈な男で子供も後継者もおらず、難儀しておったのです」


 村において猟師とは特別な立場だ。

 身分としては農民だが、村に肉をもたらし、毛皮を領主に献上すれば税の免除や還付金が受け取れる。

 場合によっては庄屋よりも裕福なものもいるほどだった。


 しかし、それはあくまでも村人の立場があってのものだ。

 村の人別帳に記載のない凜は、納税の義務がない代わりに、肉や毛皮を現金に換える伝手がない。


「それはそれは。畑を荒らす獣にもお困りでしょう」


 凜は自分の言葉を庄屋が全て信じるなどと思ってはいない。

 言葉遣いや振る舞いなど、無理があることは分かっている。重要なのは真偽ではなかった。

 重要なのは、凜たちが村に危険な存在ではなく、有益な存在であることを理解させることだ。

 そして、そのことを凜が理解していると知ってもらうことだった。


「いや、まったく。ここのところ鹿も増えていましてな」

「ほう。しかし、鹿は肉も毛皮も捨てるところがありません」

「なるほどなるほど」


 庄屋が繕った笑顔を浮かべた。

 それは獲物を狙う獣を秘めた笑みだったが、生真面目な凜に気が付くだけの余裕はなかった。


「しかし、狩った獣はいかがなさるおつもりで」

「私たちは自分の食い扶持があれば十分です。村にお譲りしましょう」

「いやいや、そこまでは申しませんよ」

「私には肉も毛皮も売り捌くことはできません。その代わり、妹に便宜を図っていただけないでしょうか」

「おお。そんなことで宜しければ」


 好々爺然として庄屋は顔を綻ばせる。

 凜は明らかに下手に出過ぎだった。もともとの交渉経験の少なさに加えて、陽鞠を休ませたい一心が凜を気負わせていた。

 どんなに大人びていようとも、凜とて十七歳の少女にすぎなかった。


「それでは」

「ええ。どうぞ村にご滞在ください」

「ありがとうございます」

「村の外れに猟師が使っていた家があります。案内させましょう」


 頭を下げた凜は、庄屋が蛇のように目を細めたことに気が付かなかった。


◇◇◇


 案内された村外れの家に入った凜は、座敷に上がると背負っていた陽鞠を下ろした。

 何年も放置されていた家は埃が積もっていたが、片付けるほどの気力は凜にも残っていなかった。

 丸二日間以上、夜を徹して動き続けたせいで頭の奥で疼痛がする。


 布団などの家財は明日手配してくれるとのことだったので、畳の上に陽鞠を寝かせる。

 救出してから、ようやく落ち着いて陽鞠の顔を見ることができた。

 痩せ細り、頬はこけているが、顔立ちそのものは一年前とほとんど変わっていない。

 背丈もまったく変わっておらず、自分だけ背が伸びてしまったことに凜は寂しさと罪悪感をおぼえる。


 真っ白になってしまった陽鞠の髪を、凜はひと房掬う。

 あれほど柔らかかった髪から艶が失われて、手触りが乾いてしまっていた。

 それは陽鞠の受けた心の傷の証で、凜の心臓は突き刺されたように痛む。


 髪をそっと手離し、凜は陽鞠の頬に触れた。

 その温かさが、陽鞠がまだ生きていることを教えてくれる。


 ぽたりと、陽鞠の顔に雫が落ちた。

 一瞬、雨漏れかと思って凜は天井を見上げるが、そもそも雨など降っていない。

 凜が自分の頬に触れると、濡れた感触がした。

 それが涙だと気が付くのに、凜はしばらく時間がかかった。

 物心がついた時から、泣いたことなど一度としてなかった。その涙の原因が喜びか、安堵か、悲しみか、不安かすらも凜には分からなかった。


 頬の涙を雑に拭い、凜は陽鞠の隣に横たわる。

 陽鞠の首の後ろに腕を回して枕にして、もう片方の手で腰を抱きしめる。

 もともと折れそうなほど細いと思っていたが、今は力を入れたら本当に折れてしまうだろう。

 それでも、生きて自分のところに戻ってきてくれたことを、凜はようやく実感する。


 これからのことはまだ分からない。

 この村に長期間いられるとは、凜も思っていなかった。

 庄屋が自分を利用しようとしていることは分かっていた。それはいい。それが分かっていて、凜も自分を売り込んだのだから。

 しかし、いずれは凜たちが若い娘であることに価値を見出すかもしれない。

 人別帳に記載のない、罪にはならない娘。

 自分だけならともかく、陽鞠のそんな扱いを許すわけにはいかなかった。


 陽鞠は心を取り戻すだろうか。

 例え陽鞠がこのままでも、凜はずっとそばにいるつもりだった。それが陽鞠との誓いだ。

 それでも、凜は言い様のない寂しさを感じていた。


「…陽鞠様、早く私の名を呼んでください」


 抱きしめた陽鞠の温かさを感じながら、目を閉じた凜は眠りに落ちた。

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