四十二

 凜は一路、目的の場所に向かった。

 常人であれば凡そ歩いて三日の距離を一日で駆け抜け、辿り着いたのはすでに使われていない街道の関所跡だった。

 山間にひっそりと設けられた関所は、月明かりに照らされて静まり返っていた。


 関所の建物は主に二つ。

 門と門を結ぶ道を挟んで建つ、大番所と詰所。

 凜の目的は詰所の地下牢だ。


 関所に詰めている衛士は多くても十人を超えることはないと凜は見ている。

 番所自体がそれほど大きくはないし、感じる人の気配も少ない。巫女のことを広められないためにも、人数は最低限にしているだろう。


 詰所に待機していたとしても、広さ的に二、三人。それ以外は物音の少なさからも、番所で寝ていると凜は判断した。

 寝ているところを襲撃すれば、皆殺しにすることも難しくはないだろう。

 それが陽鞠を助けるために最も確実な方法なら、凜は躊躇わない。紫星にしても、目撃者は出ない方が都合がいいだろう。


 短絡的になる思考を、凜は深く呼吸をして落ち着かせる。

 下手を打って番所で騒ぎが起これば、詰所の衛士が陽鞠に何をするか分からない。

 それに、ここに詰めている衛士は何の事情も知らないだろう。一年前の件で衛士に対していい印象のない凜だが、人殺しを安易に考えてはいなかった。

 

 嵐の夜の陽鞠の言葉が、人殺しに対する凜の戒めであり、覚悟だった。

 凜が人を斬るのは、陽鞠が斬ったのと同じ。陽鞠が斬るべきだと思わない相手を凜が斬るべきではない。

 少なくとも、陽鞠を秤にかけるような状況でもない限りはそうあるべきだった。


 凜は詰所の方の裏手に回り込む。

 門があるとはいえ、関所を囲むのは凜の背丈とさほど変わらない高さの木の柵だ。

 夜陰に紛れて、凜は容易く柵を乗り越える。


 音もなく着地した凜は、壁沿いに入口に回り込み、開いたままの木戸から中を覗き込む。

 奥の牢屋に続く土間と、半分は座敷になっている。

 座敷では二人の衛士が卓を囲んで酒を酌み交わしていた。

 当直中に酒を飲むなど軍紀違反なのは間違いないし、気が緩んでいる証拠だが、当直がいること自体に凜は舌打ちをしたい気分だった。

 これで事を荒立てずに済ますわけにはいかなくなった。

 中から衛士たちの声が漏れ聞こえる。


「しかし、いつまでこんな所にいなければいけないんですかね」

「文句を言うな。そんなに長くはかからんさ」

「顔も見てはいけないってどんな奴なんでしょう」

「詮索するな。死にたいのか」

「飯も落とし戸から下ろせって、徹底してますよね」

「飯はまだ食べているのか」

「ええ。でも最近は食べ残し汚いんです」

「もう、おかしくなっているかもな」


 それを聞きながら、凜の心が冷たい殺意に凍えていく。

 この衛士たちが悪いわけではないことは分かっている。与えられた職務を果たしているだけなのだということは。

 それでも、陽鞠を苦しめたものに対する怒りを覚えずにはいられない。


 どちらにせよ、当直が二人な時点で殺すしかなかった。

 一人であれば殺さずに無力化することも可能だっただろう。

 しかし、二人は無理だ。人間一人を声を上げさせずに完全に無力化することは簡単なことではない。

 騒ぎになる危険が大きすぎた。


 凜の左手が、音もなく腰の刀の鯉口を切る。

 するりと土間に滑り込むと、座敷の上がり框に足をかけ、背中を向けている衛士を無視して、もう一人の年かさの衛士の首を抜き打ちで切り裂いた。

 酔っていながらも咄嗟に声を上げようとした衛士は、首から溢れる血を抑えながら倒れる。

 凜の刃が翻り、振り下ろされた。

 まったく反応できずに目の前で起きたことをぽかんと見ているもう一人の衛士の首を、ほとんど落とす。

 普段なら刃が毀れることを嫌って骨には当てない凜だが、万が一にも声を上げられたくなかった。


 座敷に上げた足を土間に戻した凜は、刃の血糊を拭って鞘に納める。

 一つ息をついて、自らが作り出した惨状を見下ろした。


 血の海に沈んだ羅紗服の衛士が二人。

 先日の悪漢どもとは違う。誰かの良き夫であり、良き息子であるだろう、職務に従っただけの衛士。


 済まぬ、と凜は心の内でだけ言った。

 口に出して許しを求めるほど、身勝手にはなれなかった。

 人一人を救うために二人を殺す間尺の合わなさを凜は自覚していた。因果が応報するならば、いずれ自分も報いを受けるのだろうと、凜は刹那の間だけ目を閉ざした。


 目を開いた時には、もう衛士たちの亡骸を見ていなかった。

 詰所の中を凜はさっと見回す。

 期待はしていなかったが、牢の鍵らしき物は見当たらなかった。

 鍵などそもそもここにはないか、あっても番所の方だろう。

 拘泥せず座敷の行灯を手に取り、凜は土間の奥へと向かう。


 奥の牢屋は開け放たれたまま、誰も入ってはいない。

 牢屋の先、詰所の端の地面には蓋がされていた。

 木の蓋を凜が開くと、地下への階段が現れる。

 途端に、すえた臭気が凜の鼻をついた。


 行灯の明かりを頼りに階段を降りる。

 階段は途中で折り返しており、折り返す頃には行灯の明かりくらいでは照らしきれないほどの暗闇であった。


 凜は背筋が寒くなるのを感じていた。

 こんな所に陽鞠が一年も閉じ込められていた。

 人は狭い空間に一人で隔離されると、容易に心に失調をきたす。里でも懲罰のために独房に入れられた子供は三日も保たずに泣き出していた。

 ましてや、暗闇ともなれば大の大人でもまともでいられるものではない。


 気が焦るのを抑えながら、凜は階段を降り切って周囲を照らした。

 元は土蔵だったのだろう。さして広くもない空間が、木の格子で区切られている。

 格子の向こうは畳の敷かれた座敷牢になっており、襦袢姿の人が倒れていた。


「陽鞠様…?」


 凜が掠れる声をかけても、ぴくりとも動かない。

 格子に近づいて、行灯を掲げる。

 照らし出された姿を見ても、それが陽鞠だと凜には確信が持てなかった。

 背中を向けていて顔が見えないし、ばさばさになった髪が老婆のように真っ白だったからだ。

 体格で少女のようであることだけが分かった。


 凜は行灯を足元に置いて、格子の錠の前に立つ。

 腰を割って抜いた刀を両手で持ち、上段に構える。

 十の太刀、嶺上は残鉄の一太刀。

 凜の腕で揮われれば、据え物なら兜すらも両断する。

 鋭い呼気とともに振り下ろされた刃は、閂を両断して錠前に食い込んで止まった。

 凜が刃を引くと、閂が抜け落ちて錠前が地面に落ちる。

 余裕のない凜は改めずに刀を鞘に納めたが、刃には刃こぼれ一つない驚くべき技の冴えであった。


 行灯を手に、凜は格子を開けて牢内に踏み込む。

 倒れた人に近づくと、一際ひどい臭いがした。

 暗くて分かりにくいが、襦袢の下半身が黒ずんでいるのは粗相しているためだろう。


 行灯を置いて、凜は震える手で肩に触れる。

 その肩のあまりの小ささに慄きを隠せなかった。

 一年前の記憶に残る陽鞠よりも、明らかに細く小さい。

 まさか別人かとの焦りを覚えながら、慎重に仰向けにして顔を確認する。


 痩せて頬はこけていたが、明かりに照らし出された顔は間違いなく陽鞠であった。

 微かな安堵を凜は覚える。

 しかし、それ以上の不安が首をもたげていた。


「陽鞠様、分かりますか。凜です」


 陽鞠は意識を失っているわけではなかった。

 その目は開かれていたが、何も見てはいなかった。

 汚れきった陽鞠の体を、凜は構うことなく抱きしめる。

 しかし、陽鞠が何かの反応を返すことはなかった。

 体温もあり、息もしている。体は間違いなく生きているのに、その心が死んでいた。


 行灯の光を吸い込むように、陽鞠の瞳は黒く沈んでいた。

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