四十一

 篝火の焚かれた夜の境内で凜は一人佇んでいた。

 皇都と西白州都を繋ぐ街道の中ほどにある、比較的大きな宿場町に建てられた神社であった。

 皐月の夜風は涼やかで、頭の後ろで結んだ凜の髪をさらさらと揺らす。


 月が天頂に昇る頃、参道の階段を上がって現れた人物を見て、凜は少し目をみはる。

 頭巾を被った人物が、由羅一人を供に姿を見せていた。

 更には、階段を登り切ったところで頭巾を脱ぐと、西白州公夕月紫星その人ではないか。

 まさか、本人が本当に来るとは思っていなかったし、数十人からの衛士に囲まれることも覚悟していた。


 紫星は凜と数歩の距離をおいて、相対する。

 由羅は階段のところで控えたままだった。


 近づいて月明かりと篝火に照らし出された凜の顔を見て、紫星は盛大に顔を歪めた。


「いっそう不愉快な顔になったな」

「第一声がそれか」


 凜の声も棘を隠す気がない。

 敬語すら使わなかった。陽鞠を愛さず、今も見捨て続けているこの男を、凜が敬う理由がなかった。


「ふん。情報を貰おうという態度ではないな」

「這いつくばれと言うならするぞ。お前が陽鞠様の居場所を教えるならな」

「そういえば、其方には息子の面体を傷つけられたのだったな」

「知るか。躾のなっていない犬が吠えたから黙らせただけだ。けじめでも取れと言うのか」


 険悪な、しかしお互いに感情のない言葉が交差する。


「まあ、いい。其方と世間話をしに来たわけではない」

「そうだな。それで、何の情報を提供してくれるのだ」

「其方が先ほど言ったであろう。巫女が収監されている場所を教えよう」

「…本当か」


 懐疑的な凜に、紫星は無言で懐から出した紙片を差し出す。

 微かに震えるのが抑えられない指で、凜は受け取った紙片を開く。

 おそらくは陽鞠が捕えられているのであろう場所に印の付けられた地図と、施設の図面まで描かれていた。

 凜はそれを穴が開きそうなくらいに目に焼き付ける。


「ここに陽鞠様が…」


 この一年で最も有力な情報に、興奮が隠しきれない声を凜は漏らす。


「見たら燃やして残すな」


 紫星の言葉通りに、凜は紙片を篝火に放り込んだ。


「それで、対価は何だ」


 ただの善意や親子の情で紫星が情報を渡すとは凜も思っていなかった。


「其方が巫女を連れ出すことそのものが対価だ」

「…それだけか」


 紫星の腹が見えず、凜は訝しむ。

 紫星の意図になど興味はなかったが、過剰な施しは後の禍根になりかねない。


「そうだな…其方も事情を知っておいた方が都合がいいか」


 独り言のように漏らしてから、紫星は語り始めた。


「巫女の収監の裏で何があったかだ」


 その言葉に、凜は胸を押さえる。

 一年前の記憶を刺激されて、激情が頭を支配しそうになった。引きずられていく陽鞠の姿は、今も凜の脳裏に鮮明に焼きついている。


「ことの発端は、王国からの非公式な打診であった。其方は鴇羽殿を知っているか」


 聞き覚えのある名前だった。

 それを凜に教えた人物のことは、凜にとって苦い思いとなっている。

 凜が陽鞠を預けるに足ると思い、陽鞠が否定し続けた人物。結局は陽鞠が正しかったということなのだろう。


「東青州公のご子息であろう。と大公の座を争っているという」


 内心を隠して、凜は努めて冷静な声を出す。


「話が早いな。その鴇羽殿が王国に阿片を密輸しようとしているという密告が王国からあったのだ。十分な証拠とともにな」

「鴇羽とやらは何故そのようなことを」

「次期大公の座が蘇芳殿下に傾き、焦っていたのであろうな。資金が欲しかったようだ」

「ご禁制の品でか」

「たんに我が国でのご禁制品ではない。王国との条約で貿易が禁じられているのだ」

「王国から賠償請求でもされたか」

「いや、問題にしない代わりに、我が国で行う作戦を一つ見逃せという打診であった」


 外つ国の作戦というものに、凜は覚えがあり過ぎた。

 山祇側の許可が必要なほどの、隠し通すことができない大規模な作戦。


「それが王国による巫女の鹵獲作戦だった」

「…朝廷はそれを飲んだということか」

「王国も直接、巫女の身柄を要求するのは憚られたのだろう。作戦に自信もあったのであろうな」


 そこで紫星は、意味ありげに凜を見る。


「ところが、たった一人の守り手にその作戦を食い破られた。女の護衛など付き人程度に思っていたのであろう」


 それは間違った認識だったが、あえて正すほどのことではないと凜は聞き流す。

 甘くは見られていたのかもしれないが、守り手が優れた剣士であることを、あの者たちはよく理解していた。

 なにしろ、たった一人の女を相手に新式銃を二丁も持ち出してきたのだ。


「それはいい。王国の要求はあくまでも見逃すことのみ。失敗は我らの知るところではない」


 そこで紫星はため息をついた。


「しかし、朝廷は慌てた。王国の作戦による死者が多過ぎた。まさか村一つ消されるとは思っていなかったのだ」


 この数百年、戦をしてこなかった山祗は平和に慣れ過ぎていた。

 王国の進んだ技術を取り入れたい山祇は、王国とことを荒立てたくない側面もあった。


「また同じ要求をされるのではないかという疑心暗鬼。更には、巫女に朝廷の裏切りを伝えられるのではないかという恐怖が、判断を狂わせた」

「それで、巫女を誰の目にも留まらぬようにしようとしたのか…あわよくば、死んでくれれば同じ要求をされることもないと」


 巫女はまた生まれるが、それは何年も先のことになる。

 凜の左手が、剣の柄を軋みを上げるほどに強く握る。

 それは、激情で剣を抜かないように押さえているかのようだった。


「何だそれは。その行いのどこに正しさがある。そんなもののために陽鞠様は…」


 凜の目から憎悪が溢れる。

 殺気に反応して動こうとした由羅を、紫星が手振りで抑えた。


「お前もそれに乗ったというわけか。憎き巫女を殺すために」

「私は当時、州都におった故、関わっておらぬな」

「今まで見捨て続けていたのなら同罪であろうがっ」


 凜の剣の柄を握る手が右手に変わる。

 荒い息で睨みつける凜を、紫星はただ冷たい目で見返す。


 政を担う紫星は物事を正しいかどうかなどで判断しない。全ては国の益となるかどうかだ。法も、人道も、福祉も、教育も、軍事も、善悪ではなく国の益となるから施行されるのだと考えている。

 だから、凜の言葉に答える必要を感じなかった。

 政としての対応の拙さを指摘されたのなら、また別だったであろうが。


「お前たちは何なんだ。あんな幼気な娘を苦しめ続けて何も思わぬのか。それほど巫女が怖いか。憎いのか」


 凜は吐き捨てるように言って、顔を逸らす。

 ここで紫星を斬ることなど出来るはずがなかった。そんなことをすれば、陽鞠を救出するどころではなくなる。


「私個人の話であれば、巫女になど興味はない」

「お前は巫女を憎んでいるのだろう」

「私がか。あの哀れな女どもを憎むものか。気色が悪いとは思っているがな」


 陽鞠から聞いた話との食い違いに、凜は戸惑う。

 愛する妻との関係を壊し、心を操って尊厳を傷つけた巫女を、紫星は憎んでいるのだと凜は聞かされていた。


「ならば何故、陽鞠様を自分の娘として見ない」

「最も大きな理由は、巫女だからだな」

「…分からぬ」

「大公が巫女を自分の娘として扱ってみよ。西白州が巫女を擁して画策していると捉えられかねんであろう」

「…お前の言葉は建前ばかりだ」

「当たり前であろう。公人とはそういうものだ」


 凜にはまるで理解ができない話だった。

 生きている世界が違うというのは、こういうことなのだろう。


「自分の子を成した女にすら、思うところはないのか」

「あの女か。それを言うなら逆だな」

「逆だと」

「あの女の方こそ、私のことなど一度も見たことがない。自分の娘にあんな名前を付けて、死ぬまで一度も私に合わせなかったほどにな」

「名前…?」


 凜の疑問には答えず、紫星は息をつく。


「話しすぎたな。私の事情などどうでもいい」

「個人の事情でないなら、今更になって陽鞠様を救出しようとするのは何故だ」

「ふむ。朝廷はいま、巫女のことで身動きが取れなくなっている」

「どういうことだ」

「巫女を収監した直後に、帝が病で伏せられ、そのまま身罷られた」

「皇が替わったことは知っているが、それがどうした」


 話の繋がりが理解できない凜に、紫星は苦笑いを浮かべる。

 この守り手を見れば、いかに自分たちが見当違いの恐れを抱いているか分かるものをと、紫星は神祇府の臆病者たちを内心で嘲った。


「神祇府のものどもは帝の崩御を巫女の呪いだと恐れているのだ」

「はぁ?」


 心底、理解できないという凜の態度が、紫星にはいっそ小気味よいほどだった。


「もし、このまま巫女を死なせたら自分たちも呪い殺されるのではないかとな。さりとて、解放したらそれはそれで恨みをかっているのではと恐ろしい。神祇府のものどもの恐れは朝廷にまことしやかに広がって、政にも影響がでている」

「何だそれは。意味が分からぬ」


 神祇府が真に恐れる呪いに紫星は気付いていたが、この守り手に敢えて教えようとは思わなかった。

 呪いとは形のない、超常的なものとは限らないのだ。


「私にも理解はできん。其方たちに非があるとしたら、あまりにも清廉すぎたな」

「どういう意味だ」

「皇都に寄りつかず、何も要求せず、ひたすらに穢れを浄化する巫女など不気味で仕方なかったのだろう」

「巫女とはそういうものだろう」

「違うな。先代の巫女などは一つ穢れを祓う度に、皇都でひと月は休んでいた」

「そう、なのか」

「あの女は摂家の姫だったからな。暮らし向きは贅沢だった。擁護するわけではないが、それでも歴代の巫女を逸脱するようなものではない」

「陽鞠様の方が特別だったというわけか…」

「そして、そんなことも知らない守り手もな」


 紫星の辛辣な指摘に、凜は言葉に詰まる。

 華陽の教えが偏っていたことは、凜もすでに理解している。


「とりわけ今代の巫女は先代と顔かたちが似過ぎている。先代と被らせて見るものも多いだろう。にも関わらず、行いだけはまるで異なるのだから、不気味に思っても仕方あるまい」

「陽鞠様は陽鞠様だ。他の誰でもない」


 反射的に凜は言い返したが、そう思っているのが自分だけであることを凜はもう理解していた。

 陽鞠は陽鞠である前に巫女であり、巫女の娘であり、大公の娘なのだ。それが世間では当たり前の見方だった。

 だからこそ、凜は陽鞠の特別になり得たのだから。


「それで、秘密裏に陽鞠様を救出しろということか。お前が陽鞠様を匿うつもりか」

「先ほども言った通りだ。私が巫女を擁することはできない」

「ならば、お前が陽鞠様と私に望むことは何だ」

「消えろ。二度と表舞台に姿を現すな」


 言い様は厳しかったが、静かな暮らしは陽鞠が望むものだった。

 凜にしても、これ以上、陽鞠に巫女の務めを続けて欲しいとは思わない。

 穢れで誰が死のうと、王国との関係が悪くなろうと、凜の知ったことではなかった。それは、朝廷が対処すべきことだろう。


「いいだろう。だが、陽鞠様や私に刺客を差し向けようというなら、容赦はせんぞ」

「朝廷には私が手を打つ。そのようなことにはならぬ」

「ならば、いい」


 凜は紫星の横を抜けて、階段に向かう。

 その道を、由羅が塞いだ。


「どいてください」

「別に邪魔はしないよ。凜が止められないのは、よく分かった」


 たしかに由羅からは害意は感じられなかったが、いつもの余裕のある態度は鳴りを潜めて、表情も険しかった。


「では、何ですか」

「あの女を助けたら、もういいでしょ。どこかの神社にでも預けなよ」

「神社など神祇府の管轄ではありませんか。信用できません」

「だったら、凜があの女の面倒を一生みるの」

「そのつもりですが」

「どうやって。あんな育ちのいい女が、市井で生きていけるわけないでしょ」


 苛立たしげな由羅の言葉を、凜はまともに取り合わなかった。


「それは私と陽鞠様が決めることです。他人にとやかく言われることではありません」

「…絶対に後悔するよ」

「私の後悔は、あの日、あの場の全員を斬り殺してでも陽鞠様を救うことが出来なかったことだけです」


 凜は由羅を避けて、階段を下り始める。

 由羅は振り返るが、凜が振り返ることはけしてなかった。

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