四十

 薄暗い道をしばらく歩いた女は、不意に立ち止まった。

 懐に手を当てて、先ほど受け取った包みに触れる。

 人とまともに話したのは、いつぶりだっただろうか。


 竹皮を取り出そうとして、別の布の包みが懐から零れ落ちた。地面に落ちた布が解けて、粉々となった茶色の塊が飛び散る。

 風に乗って、それが吹き散らかされていく。

 しばらく呆然とそれを見送った女が、ゆっくりと顔を上げた。


「いい加減に出てきたらどうですか」


 女の声に応えて、横手の木陰から別の女が姿を現した。

 柔らかな薄茶色の髪を結い上げ、緑の瞳を持った女。ほっそりとしていながら、着物の上からでも分かる豊満な肢体。

 二十歳にはならない程度の、美しいが明らかに山祇の民ではない容姿の娘だった。


「由羅…」

「久しぶりだね、凜」


 女、凜が近づいてくる由羅を見る目には、何の感慨もなかった。

 由羅は凜の前に立つと、嬉し気な笑みを浮かべる。そこには、別れた時の蟠りはまるでないように見えた。


「二年ぶりかな。奇麗になったね。でも、顔色良くないよ。ちゃんと寝てる?」

「ずっと見ていましたね。さっきの境内でも」


 由羅の言葉には応えず、凜は冷たい声で言う。


「流石ね。でもさっきのは凜にしては荒い剣だったかな」

「神祇府の指示ですか。私の暗殺と監視からは手を引いたと思っていましたが」

「悉く惨殺されたらね。ひどいことするなぁ」

「苦しめるつもりはありませんでしたが、口が固かったので」

「刺客や間諜が口を割るわけないじゃない。そもそも知らないだろうし」


 由羅の笑みが深まる。


「陽鞠様の居場所なんて」


 その名を聞いて、ざわりと凜の雰囲気が変わる。

 由羅ですら凜の間合いのうちにいると、冷や汗が滲んできた。


「その名を口にするな…」


 その名を聞くだけで、凜の中に制御できない感情が吹き荒れる。

 隣にいた時の愛しさ。守り切れなかった後悔。見捨てたものたちへの憤怒。探しても見つからぬ焦燥。

 目も眩むほどの強い感情に、頭が沸騰しそうになる。

 感情が全て殺意に置き換わりそうになるのを凜は堪えた。


「もう一年以上になるでしょ。目途は立ったの?」


 由羅の問いに、凜は唇を噛む。

 凜が連れ去られた陽鞠を探し始めて一年が過ぎていた。

 最初は自分への刺客や間諜から情報を引き出そうとしたが、分かったことは相当な上層部で情報統制されていることだけだった。

 その後は西白州の軍事施設を探して回った。巫女の収監を秘匿しておきたい神祇府が、町中や一般の人が利用する施設を使うとは思えなかった。

 同じ理由で施設規模が小さいものを優先した。

 しかし、軍事施設の情報など一般には公開されていないし、見つけても内部の情報を手に入れることは更に困難だった。

 それなりの立場のものが施設の外で単独に近くなるのを待って襲撃し、脅すくらいしか情報を得る手段はなかった。

 もちろん殺しはしていない。殺せば本格的に調査が入ってしまうが、生かしておけば失態を隠すためにも勝手に隠蔽してくれるからだった。


 そんな調べ方が捗るはずもなく、この一年で凜が調べられた施設は十にも満たなかった。

 時間が経つほどに焦燥が募る。

 凜には自分が守り手であると確信できるものが何もない。

 陽鞠に対する庇護欲のようなものは消えていないが、これが守り手でなくなったら消えるものかも分からない。

 それは、陽鞠の生存を確信できるものが何もないことを意味していた。


「貴女には関係ない…」

「そもそもとっくに死んでるんじゃない」


 咄嗟に言い返せずに、凜は言葉に詰まる。

 胸中の不安を読まれたようだった。


「巫女を弑することなんて、神祇府にはできない」


 巫女と穢れを過剰に恐れる神祇府が、直接手を下す可能性は低いと凜は考えていた。

 同時に直接でなければ、陽鞠の死を願うであろうことも分かっていた。

 つまり、時間が経つほど陽鞠の生存率は下がっていく。


「直接にはね。死期を早める方法なんていくらでもある」


 由羅の言葉に、凜は思わず剣の柄に手をかけていた。

 それ自体が由羅の言葉の正しさを、自分で証明してしまっていた。


「私を斬るの? いいよ、別に抵抗しないから」


 手を広げて、由羅は凜に一歩近づく。

 凜は手の震えを隠すように、柄を強く握る。

 そんな手の内では、抜き打ちなど出来るはずもないと分かっていた。


「あの人のことなんて忘れちゃいなよ」


 更に一歩、由羅が近づく。


「あの人だって、凜にここまでしてほしいなんて思わないよ」


 それはそうだろうと凜も思う。

 きっと、もう十分だと言ってくれるだろう。


「凜は頑張ったよ」


 そうだろうか。

 出来ることはやり尽くしてしまったのだろうかと凜は考える。


「私と一緒に帰ろう」


 どこへ帰ると言うのだろうか。

 凜は自分の帰るべき場所を思い浮かべる。


 手が届くところまで近づいてきた由羅が、広げた手を凜を包み込むようにゆっくりと伸ばす。

 それに応えるように、剣の柄から離れた凜の手が由羅に伸ばされ。

 由羅の身体を柔らかく押し留めた。


「貴女は今、どこに雇われていますか」


 凜の言葉に、由羅の顔から笑みが消える。


「どういう意味かな」

「貴女が言ったことは一般に出回っている情報ではありません。神祇府ではありませんね」


 冷静に考えれば、神祇府が凜と親しかった由羅をわざわざ使うとは思えなかった。

 刺客としては最高かも知れないが、凜の命にそれほどの価値はない。刺客を差し向けたのも、あわよくば死んでくれればいい程度のものだったはずだ。

 由羅と通じて情報を抜かれる危険を犯すとは思えない。


 ため息をついて、由羅は腕を下ろすと一歩下がった。


「どうでもよくない? 言っておくけど、私は居場所なんて知らないよ」

「貴女は知らなくても、貴女の雇用主はどうですか。相当に事情に通じてそうですが」


 凜の目には欠片の迷いもなかった。

 帰るべき場所などとうに定めている。

 それは生きていようがいまいが、陽鞠の意思すら関係ない。凜が望み、凜が果たすべき誓いだった。


 由羅の顔に苛立ちが現れる。


「だとしても凜には関係ないでしょ。お偉いさんに会えるような立場じゃないんだよ」


 表立って手配されているわけではないが、凜が神祇府ひいては朝廷にとって邪魔なことに変わりはない。

 凜と接触することは朝廷に対する叛意と取られる可能性すらある。


「それなら貴女は何をしに来たのですか。まさか、本当に私に諦めさせるためだけに来たわけではないでしょう」

「そうだよっ!」


 切迫した叫びを上げて、由羅は凜を睨みつける。


「そんなにあの女が大事なの。あの女はもう巫女じゃない。凜だって守り手じゃないんだよ」

「私は巫女の守り手になったわけではありません」


 凜の声が完全な落ち着きを取り戻し、しかし目だけが昏い光を湛えていた。


「私は陽鞠様の守り手です。私が守り手かどうかを決めるのは陽鞠様だけです」


 気圧された由羅が更に一歩下がり、引きつった口の端が微かに歪む。


「…ねぇ、覚えている? 昔、凜は言っていたよね。あの女を守らないといけないと強制的に思わされている気がするって」

「…」

「それ、当たってるよ。巫女って自分を守らせるために人を惑わすんだって。凜はあの女に騙されているんだよ」


 一瞬、きょとんとした凜が、「ああ」と頷く。


「ええ、知っています。騙されているわけではありませんが」

「…は?」

「陽鞠様から聞きましたので」

「…あの女、頭おかしいんじゃない。自分で言うとか、あり得ないでしょ」


 目算が狂ったのか、由羅が舌打ちを漏らす。


「それなら、分かるでしょ。あの女が死ねば、その気持ちも消えるよ」

「かもしれませんが、関係ありません。私はお守りすると誓ったのです。誓いは果たさなければなりません」

「それが、凜の本物の感情でなくても?」

「ええ。それに、植え付けられたのかもしれない庇護欲が消えても、それが陽鞠様に対する想いの全てなわけではありません」


 凜と由羅の視線が正面から交わる。

 しばしの沈黙の後、由羅は視線を逸らした。


「私が凜を諦めさせるために来たのは嘘じゃないけど、それとは別にあなたへの伝言を預かっている」

「聞きましょう」

「『まだ、巫女を諦めていないなら情報を提供してもいい』、だそうよ」

「分かりました。どうすればいいですか」


 凜の答えには、一瞬の逡巡すらなかった。


「場所と日時を指定するから、直接会いたいって」

「行きましょう」

「ねぇ、こんなの罠だと思わないの。それが誰かも言っていないんだけど」

「どうせ、名乗る気はないでしょう。罠ならそれでもかまいません」


 直接会いたいというのは露骨過ぎて、逆に罠ではないのではないかとすら凜は思った。


「名を伝えろってさ」

「ほう。誰なのですか」


 ため息をついて、由羅はその名を告げた。


「西白州公、夕月紫星よ」

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