六章

三十九

 斑鳩いかるが帝二年五月。

 突然の鷦鷯帝の崩御から一年が過ぎようとしていた。


 山祇の都市間は街道が整備され、宿場町も点在おり、旅行客も多いことから治安はいい。

 しかし、街道を外れれば未だ法の光が及ばない場所も多かった。


 後ろ暗いところがあるものは街道を外れ、それが野盗の標的になることもある。

 野盗といっても、街道を行く商人を徒党を組んで襲撃するような山賊まがいは最早、成立する時代ではない。

 普段は散り散りになり、決まった日に街の商家に押し込む所謂、盗賊のことであった。

 街で集まって計画を練れば怪しまれる可能性も高いため、街道を外れた隠れ家に集まるのだ。


 その女衒が野盗の隠れ家を通ってしまったのは、ただの偶然であった。

 女衒とは貧しい村から女を買い、遊郭に売るもののこと。山祇では人買いを禁止しているが、女衒はあくまでも労働の仲介業者であり、営むのには朝廷の認可を得ている。

 遊郭では女は若ければ若いほど価値がある。特に太夫や花魁と呼ばれるような高級妓女は、幼い頃から禿という見習いを経てなるものだ。しかし、未成年の扱いを女衒は法で禁じられている。実際には見て見ぬふりをされるとはいえ、表立って仲介を行うことはできない。

 だから、未成年を取り扱う時は表街道を使うことはできなかった。


 寂れた神社の境内で、女衒は五人の男に囲まれていた。

 女衒は三十路半ばの婀娜っぽい女だ。

 女の後ろには十代半ばの少女が一人と十歳にもならない女の子が三人。少女は子供たちを庇うように抱きしめている。


 男たちの手には血に濡れた抜き身の脇差が握られ、足元には物言わぬ男の骸が倒れている。

 その手にも脇差が握られており、おそらくは女衒の用心棒だったのだろう。


 男の一人が切先を女衒に向ける。

 浮かべた下卑た笑みに似合わず、身なりは悪くない。町に溶け込んで押し込みを働く彼らは、見た目は町人にしか見えなかった。


「なんだい、お前らはっ。金なんて大して持ってないよっ」


 勝気に怒鳴る女衒の言葉に、男たちは顔を見合わせて笑った。


「金なんてどうでもいい。仲間が集まるまでの遊びさ。お前と後ろの女は犯して殺す。ガキは今殺す」


 切先を突きつけられて動けない女衒の横を、残りの男たちが通り抜けて少女たちを囲む。

 少女は子供たちを強く抱きしめたまま、逃げることもできずに震えていた。


 少女の髪が鷲掴みにされて、乱暴に顔を上げさせられる。

 少女の整った顔立ちは、涙と恐怖に歪んでいた。


「まだガキっぽいが、いい女じゃないか。こういうの極上って言うんだったか」

「せいぜい上玉だろ。なあ、女衒さんよ」


 気の利いた冗談でも言ったつもりになったのか、男たちは高らかに笑う。

 ひとしきり笑うと、冷やりとした酷薄な表情を浮かべ少女の髪を掴んだまま乱暴に引き倒した。

 とりすがる子供たちを乱暴に蹴倒す。


「後生です。子供たちだけは見逃してください」


 髪を掴む男に震えながらも少女は縋りつく。

 男たちは顔を見合わせて失笑を漏らした。

 男は腰を落として、少女と目線を合わせる。


「それなら、まずお前の目の前でガキを犯して殺す」

「おいおい、お前、畜生かよ」


 楽し気に笑う男たちに、少女の顔面が蒼白になる。


「…どうして、そんな」

「ん? 意味なんてねぇよ。その方が楽しそうだろ」


 心底、楽しそうに言う男に、少女の体から力が抜け落ちた。

 男たちは少女にとって、あまりにも理解の及ばない化け物であった。


「あんま腑抜けんなよ。つまんねぇだろ」


 神社の方に少女を引きずろうと振り向いた男は、自分の見ているものが理解できずに間の抜けた顔を晒した。

 女衒を脅していたはずの男が、地に伏せていた。

 肩から腹まで袈裟に半ば両断された姿は明らかに生きてはいない。


 その傍らに立つものを、男は一瞬、人とは認識できなかった。

 死神。

 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。


 美しい女の死神だった。

 闇よりも暗い射干玉の髪を結いもせずに垂れさせ、生気の感じられない冷たい目を足元の躯に向けている。

 中性的に整った麗しい顔は、しかし青白く血の気がなかった。

 並の男ほどにすらりと高い背丈の肢体に纏う着物と裁着袴は、元の色が分からないほどに黒ずんでいる。

 片手に提げ持った刀の刃を鮮血が伝う。


 男たちが持つ脇差でもなく、衛士が持つようなサーベルの拵えでもない。

 戦乱の時代の古い拵えの打刀。今時、こんなものを腰に差して歩くものはいない。

 それが一層、女を亡霊じみて見せていた。


「おいおい、何してくれてんだ」


 自失から戻った男が声を荒げる。

 他の男たちも女に気付いて、取り囲んだ。


 女は男たちを意にも介さず、男が髪を掴む少女に目を向けた。


「…な」


 ぼそりと女が声を漏らす。


「あ? 聞こえねぇよ」


 顔を上げた女の目を見た瞬間、男は全身の毛が逆立つのを感じた。

 何人も殺しているからこそわかった。

 血の匂いが濃い。

 抵抗できないものを嬲り殺すだけで身につくものではない。ぎりぎりの死線を抜けてきたものの、濃密な死の気配。


 男は咄嗟に少女の首に刃を当てていた。


「失せろ。この女が死ぬぞ」


 女の顔は寸毫も動かない。


「ここを生き延びたところで苦界に沈むだけだ。楽に死なせてやれ」


 女の言葉に空気が凍りつく。

 ハッタリなどではない、本当にどうでもいいという投げやりさだった。


「だったら、手前ぇは何しに出て来たんだっ」

「聞こえなかったのか。女を引きずるな、と言ったんだ」

「…イカれてやがる」


 男はようやく目の前の女に言葉が通じないことを理解した。

 そこに微かな迷いが生まれた。

 だから、髪を掴んだ少女が腰に抱きついて来るのを防げなかった。


「子供たちと逃げてっ」

「てめ…」


 男は怒りに任せて少女の首を裂こうとして、しかしそれは果たせなかった。

 少女が抱きついた瞬間には踏み込んでいた女が、男を真っ向から唐竹割にしていた。


 頭蓋は人体で最も硬い上に曲線を描いているため、剣術においては避けるべき攻撃箇所だ。

 それを恐ろしく滑らかに、胸郭まで両断していた。

 目の前で凄惨な光景を見せられ、大量の血を浴びた少女が卒倒する。


 男たちも度肝を抜かれて固まる。

 殺しに慣れていようとも、人間が縦に両断されるところなど見たことはなかった。

 そして、それは致命的な隙でもあった。


 刃を翻した女は、手近な男の脇差を持った腕を無造作に切り落とす。

 更には流れるように次の男の懐に飛び込みながら、腹部を切り裂いて背後に抜ける。


 残された男は、呆然と女の顔を見た。

 その美しい顔には何の感情も浮かんでおらず、ややかったるそうですらあった。


 技術として昇華された殺人の剣を男は初めて見た。

 喧嘩や殺しは度胸だと思っていた男の考えは、根底から覆されていた。

 殺人者としての次元が違う。


「ま、待ってく…」


 最早、戦意もなく命乞いをしようとした男は、それを果たすことはできなかった。

 女の剣は男の認識できない速さで走り、男の喉を深く切り裂いていた。


 自らの血に溺れ、もがくように倒れる男など意にも介さず、女は踵を返す。

 腹から溢れる臓物を必死でかき集める男の頸椎を踏み砕き、切り落とされた腕を抱えてのたうつ男の首を無造作に刎ねた。


 境内に沈黙が落ちる。

 気を失った少女を守るように集まった子供が女を見る目は恐怖に染まっていた。


 女はそれを見ようともせず、袖で血糊を拭った刃を鞘に納める。

 そして、そのまま境内を去ろうとした。


「ちょっと、待ちなっ」


 呼び止めたのは、女が最初に切った男のそばでへたり込んでいた女衒だった。

 ゆらりと幽鬼のように女が振り返る。


 今更のように女衒は気づいた。

 女の着物が黒ずんでいるのは、洗ってもとれないほどに血が染み込んでいるからだ。

 引き攣りそうになる喉をぐっと堪えた。

 人間を前にしている気がしなかった。男たちに感じたのとは違うこの恐怖は、幼い頃に野生の熊と鉢合わせた時と同種のものだった。

 熊の腹具合で見逃されたように、人には図れない尺度で生死が決められる恐怖。


「助けてもらったのには感謝するが、あの子が死んだ方がましってのはどんな了見だい」


 腰が抜けそうなほどに恐ろしくても、その言葉は聞き逃せなかった。

 相手が男であったなら鼻で笑えても、女がそれを言うのは我慢ならなかった。


「お前は女衒だろう。お前がそれを言うのか」

「そうさ。私は女衒さ。良いことをしているなんて言うつもりはないさね。だけど、身を売らなきゃ生きていけない子がこの世にはごまんといるのさ」

「救ってやってでもいるつもりなのか。死ぬより苦しめているだけではないのか」

「体を売るなら死んだ方がましってのかい」


 この女は強いから、そんなことを言えるのかと女衒は憤っていた。

 しかし、女の顔にあったのは微かな戸惑いだった。


「私には分からない…分かるはずもない…ただ、あの人ならそう言う気がして…」


 弱々しく漏らす女の素顔を、女衒は初めて見た気がした。

 よく見るとまだ少女といくつも変わらない、十代の娘のようだった。


 不気味に思えた風体も、隈が浮かび、髪は毛羽立ち、着物はよれて、身なりに気を使う余裕がないだけだと分かる。

 凶悪な野盗をたった一人で五人も切り倒した剣士にはとても見えない、むしろ迷子の幼な子のようにすら見えた。


「あんた、大丈夫かい」


 思わず女衒が問うても、女はぶつぶつと漏らしながら、悄然と立つ尽くしていた。

 女衒は女に近づく。

 この女をなぜ言葉の通じない獣のように恐れていたのか分からなかった。


 俯いた女の頬を両の掌で挟んで、無理矢理顔を上げさせる。

 濁った瞳はどこも見てはいなかった。

 こんな目をした子供を女衒は何度も見てきた。現実に耐えきれずに、心が擦り切れる寸前の目だった。


「あんた、行く所はあるのかい」

「行く所…そうだ、私は行かないと…あの人が待っている」


 一つだけ女衒が見てきた子供と違うのは、この女が動き続けていることだ。この目をした子供は皆、何もかも諦めて動く気力を無くしていた。

 そして、それが余計に哀れだった。この女は諦めることも、止まることも知らない。


 女はふらりと背中を見せて去ろうとする。

 その腕を掴んで、女衒は慌てて女を引き留めた。


「私と来なよ。あんただったら用心棒として欲しがるやつはいくらでもいるさ」

「…早く探さないと…一緒にいるって…約束…」


 腕を掴まれているのにも構わず、女は歩き始めた。

 女衒は自分とさして変わらぬ細腕の女に、まったく抵抗できずに引きずられそうになる。

 力が強いというよりは巌のようにと感じた。

 実際には女衒と大して体格の変わらない女がそんなに重いはずがない。まるで足が地に根を張っているかのように体軸がぶれないからであった。


 引き留めることはできないと感じた女衒は、手を離して近くに落としていた行李から握り飯を包んだ竹皮を取り出し、女の前に回り込む。


「誰を探しているのか知らないけど、あんたが倒れちゃ仕方ないだろ。ちゃんと食べな」


 押し付けられた包みを受け取り、ぼんやりと視線を落とした。

 その目に微かな正気が戻る。


「かたじけない」


 女は僅かに頭を下げて、生真面目そうな声で礼を言う。

 包みを懐に納めて、女は再び歩み始めた。

 その背中に、女衒は大声をかける。


「私の姉が新浜の町で置屋の女将をしているっ。何かあったら玉美屋を訪ねなっ」


 その声が女に届いたかどうかは、女衒には分からなかった。


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