幻魔剣記エルネスト伝Ⅰ(亡国の翼)

里見拓

第1話

 エルネストには一つ、誰も知らないクセが有った。

 それは、大人になった後に考えれば十分な理由付けが出来るのだが、この日十歳の誕生日を迎えた彼には自分がなぜそうするのかがわかっていなかった。

 心の中で自分のことを言う時の一人称はオレなのに、人前で喋る時はボクになる。

 もしかしたら誰かにボクと言うように教えられたのかとも考えたが、父親にも、教育係の守役にも、そんなことを言われた記憶はない。


 最初の教育官はブラントと言う白髪の老人であった。もう二十年も前に妻に先立たれ、今は孫娘の花嫁姿を見るのだけが楽しみだと言う老人は、エルネストをひ孫のように慈しみ、毎日一冊ずつ絵本を読んでくれた。

 絵本の内容は様々であったが、悲しい場面でエルネストが涙ぐめば彼は穏やかな口調で慰めてくれたし、恐ろしい場面で怯えれば力強い言葉で勇気を与えてくれた。エルネストは彼が好きだったし、ずっと一緒に居て欲しいとも思ったが、教育官は一人の人間がいつまでも続けるものではないらしい。

 七歳になり、エルネストが簡単な読み書きを覚えた頃、ブラント老に代わってレナトと言う名の若い武官がやってくるようになった。彼はブラント老のように優しい言葉をかけてはくれなかったが、エルネストは彼のことが嫌いではなかった。エルネストに話す時、彼はまっすぐにエルネストを見つめ、歯切れの良い短い言葉で意思を伝える。そこには嘘や隠し事の匂いが無い。

 レナトは絵本を読んではくれなかったが、剣術と格闘術を教えてくれた。時に厳しく激しい訓練もやったが、彼は常にエルネストが怪我をしないように細心の注意を払ってくれていた。

(あの時も、レナトのおかげで怪我をしなくて済んだんだよな……)

 エルネストは二年前の夏を思い出していた。

 ブラント老に代わってレナトが来るようになってから丁度一年くらいの頃である。

 レナトはいつも朝食と昼食の間にやってくる。朝食を食べてから彼が屋敷に来るまでの時間がエルネストが最も自由に過ごせる時間で、この時間に庭の散策をすることがエルネストの最大の楽しみと言って良かった。

 いや、十に満たない少年にとってそれは散策と言うより冒険と言うべきだったかも知れない。何しろ庭は凄まじく広く、川が流れ、林があり、昆虫や小動物で溢れていたのだ。が、広大な敷地とは言え、無限に広がっているわけではない。子供の足でも十五分も歩けば塀に突き当たる。敷地を囲む煉瓦塀は赤茶色で、三メートルほどの高さが有った。いつしかエルネストはこの塀の向こう側に行ってみたいと切望するようになっていたが、どう頑張っても子供が乗り越えられる高さではない。

(この塀の向こう側には、きっと素敵な事がいっぱい有るんだ)

 何の根拠もなく、エルネストはそう信じた。

 エルネストにとって最初で最後のチャンスが訪れたのは、睡眠を脅かすほどの豪風が吹き荒れた日の翌日であった。

 朝食後にエルネストが庭に出た時には雨も風もすっかり止んで、雲一つない青空が広がっていた。

 台風一過の青空の下、いつもの如く庭を探検していると、塀の近くの松の大木が倒れているのが見えた。

 エルネストの小さな胸は大きく波打った。嵐で倒れた松の木が、塀に斜めにもたれ掛かっていたからである。

(行ける、塀の向こうに行ける!)

 エルネストは斜めになった松の木を夢中で上り始めた。

 途中で何度か足を滑らせ落ちそうになったが、五分ほどでなんとか登りきった。

 塀の上に立ち、前方に視線を投げれば、息を呑むようなパノラマが広がっていた。

 左から伸びる山並みは鮮やかな新緑を纏い、右には碧く輝く湖面が見える。遥か遠方を望めば、上部を白く染めた山々が悠然とそびえ立っている。

(凄い、凄い! 世界はこんなに広いんだ!)

 エルネストはしばし放心したように立ち尽くした。

 が、我に戻り下を見て、事がそう容易ではないことを悟った。

 塀の外側は内側より地面が低くなっていて、下まで四メートルほどの高さが有る。

 四メートルと言えば大人でも躊躇する高さである。八歳のエルネストが恐怖を感じないわけがない。

 少しでも降りやすい場所を探して、エルネストは塀の上を移動した。

 塀の幅はエルネストの肩幅よりも狭く、少しでもバランスを崩せばあっというまに転落する。だが、恐怖よりももっと大きな希望がエルネストを動かしていた。

(なんとかして降りられそうな場所を探さなきゃ……) 

 エルネストが慎重に十歩ほど進んだ時、丁度折悪く屋敷に向かって歩いてくるレナトが見えた。

 まずい、と思ったが、塀の上では身を隠す術はない。

 塀の上にエルネストの姿を発見したレナトは猛然と走ってやってきた。

「エルネスト様! そんなところで何をしているのです!」

 エルネストは答えなかった。

 何をしているのかって、そんなの一目瞭然ではないか。

 エルネストが飛び降りることを躊躇している様を見て取って、レナトは気の毒そうに声を掛けた。

「今のあなたにはまだ無理ですよ。さあ、内側にお戻りください」

「無理なんかじゃない!」

 エルネストは叫んだ。未だかつてこんな大声を出したことはなかった。

「そうですか、では跳んでごらんなさい。大怪我をしても良いのなら」

 エルネストはぎゅっと唇を噛んだ。

(ここで跳べなかったら、オレは一生このままだ)

 エルネストは恐怖を振り払って跳躍した。

「あっ! なんてことを!」

 レナトは血相を変えてエルネストが落ちてくる場所に走った。

 空中でバランスを崩し、ほとんど顔面から落ちそうだったエルネストを、レナトの分厚い胸が受け止めた。

 エルネストを受け止めた衝撃でレナトは尻もちを付き、そのまま二度ほど地面を転がった。

「あいたた、まったく、なんて無茶をしなさる」

 レナトが苦痛に顔を歪める。

 さすがに少し気の毒になった。

「大丈夫かいレナト?」

「私は大丈夫、鍛えてますから。エルネスト様お怪我は?」

「ボクも大丈夫だよ。君に鍛えてもらってるから」

「それは何より。これはご褒美です」

 レナトはそう言ってエルネストの頭をゲンコツで軽く叩いた。

「このことを父上に言うの?」

 エルネストが不安気に尋ねると、レナトは笑顔で首を横に振った。

「お父上には内緒にしておきましょう。ただし、もう二度とこんな無茶はしないと約束してください」

「わかった。約束するよ」

 エルネストの答えに満足するように頷いて、レナトが立ち上がった。

「さあ、屋敷に戻りましょう」

「ねぇレナト……」

「なんですか?」

「ボクは、一生この家から出られないのかい?」

「それは……」

 レナトが来るようになって約一年、口ごもる彼をエルネストは初めて見た。

「……お父上がお決めになることです」

 レナトがそう言って目を反らす。相手の顔から視線を外して喋る彼を見るのも初めてだった。

 この時エルネストは、自分は一生この屋敷で飼い殺しにされるのだと思った。

 


(レナトはどうしてるだろう……もうここには来てくれないのかな?)

 半年程前レナトに代わって来るようになった三人目の教育官を、エルネストはあまり好きではなかった。裕福な身なりの割には痩せた神経質そうな顔。目は周囲を警戒するかのように忙しなく動き、挙動に落ち着きがない。喋り方もどこか気取っていて、そのくせ語尾を濁すことが多い。ステッセン伯爵と名乗った四十男は、確かに学識豊かではあったが、いざと言う時には頼りになりそうもなかった。 

(それにあいつは、オレの教育官なんてやりたくないんだ)

 これはただの勘であったが、恐らく外れていない。

 エルネストにとって異母兄にあたる二人の王子のいずれかの教育官なら喜んでするだろう。それは自分の将来にプラスになる可能性が高い。だが、王が気まぐれで手を付けた下級女官の子供など、教育したところで何の得にもならない。

 この頃になると、エルネストも自分がこの国でどういう存在なのかをわかっていた。自分は王の子である。だが王妃の子ではない。母親は下賤の者である。王の子だから皆丁寧な言葉で喋るが、内心見下している者も多いだろう。ステッセン伯爵はその代表選手のようなものだ。が、それでも手を抜かずに教育官としての職務を全うしていることだけは評価してあげても良いとエルネストは思っていた。この国の成り立ち、歴史、農業や工業に関する知識、そして周辺の地理と国を取り巻く外交環境。エルネストが彼から学び取ったものは決して少なくない。

 政治や軍事に関することを教えるにはまだ少し早い、そう思いつつも、王の指示なのだろう、

「エルネスト様にはまだわからないと思いますが」

 そう前置きをして彼は講義を始める。

 そして講義の終わりには、

「虫取りや剣士ごっこの合間に、気が向いたらこれを読んでみてください」

 と小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべて書物を置いていく。

(バカにしやがって!)

 エルネストは心の中で悪態をつく。

 大人びてはいても、エルネストもまだ九歳、自分の感情をコントロールしきれるはずもない。

 エルネストは彼が与えてくれた書物を片っ端から読み漁った。

 虫取りも剣士遊びも、もう眼中になかった。 

 あの気取りすました伯爵野郎を見返してやるのだ。

 ステッセンが来るようになってから丁度ひと月、エルネストは準備万端整え、一枚の手書きの地図を彼の前に差し出した。

「これは……ご自分でお描きになられたのですか?」

 驚くステッセンの顔を見てエルネストは胸のすく思いがした。

「そうさ、ボクが描いた」

 カルバ湖を中心としたこの地方の地図。青で囲んであるのは母国ロマリア、赤がサロメニア、黄色がリトベニア、巷で言われるカルバ三国である。

 地図の脇の余白に書かれている作戦内容に目を通して、ステッセンが更に大きく目を見開いた。

「この作戦もご自分で考えられたのですか?」

「そうだよ。悪くない作戦だろ?」

 エルネストが得意げに言うと、ステッセンは軽く唸った。

 カルバ三国は元々一つの国であったが、百二十年前に世継ぎ争いのこじれから分裂した。三国を合わせればそれなりの国力になるが、一つ一つは小国と言って良い。どの国も他の二つを攻め滅ぼしてカルバ湖周辺を制圧したいと考えているが、三国が戦争を始めれば周辺諸国がそれに乗じて攻めてくる可能性が高い。それがわかっているからお互いけん制しあって中々手が出せない。そんな状況であることをエルネストはステッセンから学んだ。

 サロメニアの西方に位置する大国ガルシャは更に西にある強国プライセンと常に緊張状態にあり、いつ戦が始まってもおかしくない。また母国ロマリアの後方は山岳地帯で大軍が通るのは不可能。そしてリトベニアの後方にはモズリー河が流れていて雨季になれば濁流が荒れ狂い、到底軍船が渡河出来るような状況ではなくなる。

 つまり、雨季にサロメニアの西方で大国同士が戦になれば、一時的にカルバ三国は周囲から孤立するのである。この時にサロメニアかリトベニアと手を組み、一国を攻め滅ぼす。そしてその後にもう一国を攻めて三国を統一するというのがエルネストの作戦であった。

「お見事です……」

 いつも薄笑いを浮かべながら見え見えのお世辞を口にするステッセンが、今日は神妙な顔つきでエルネストの作戦を褒めた。雨季に西方で戦が起こるという偶然に頼っている点や、残る二国のうちどちらとどうやって手を組むかを考えていない点で、戦略というには程遠い幼い作戦ではあるが、着眼点は素晴らしい。

「素晴らしい作戦だと思いますが、しかし……」

「しかし、なんだい? 異論が有るなら言ってよ」

「異論はありません。ですが、このような事は二度としないでください」

「どういう意味だい?」

「それはつまり……自分の才をひけらかす人間はいつか痛い目を見ます。エルネスト様、特にあなたの場合は……」

 ステッセンの目の奥に微かな憐みの色を見て、エルネストは自分がいかに愚かな行為をしたか悟った。

 自分は優秀であってはならないのだ。少なくとも二人の兄より無能でなければならない。でなければ長生き出来ないと、ステッセンの目が雄弁に語りかけていた。

 その日からエルネストは書物を読み漁るのをやめた。剣術の稽古もやめた。

(なんてつまらない人生なんだろう……)

 庭に出ても、もう以前のような楽しさはどこにもない。

 夏草の中にカマキリを見つけても、小川の底に小さなカニを発見しても、全く心が動かない。未来に一欠けらの希望も無くなった時、人は全てのものに興味を失くすのだということを知った。

 剣も読書も虫取りもやめたエルネストは、ただぼんやりと空を眺めて過ごすようになった。

 頭上で猛禽類が輪を描くように旋回している時は、殺してやりたい程羨ましかった。

(翼が欲しい……自由に空を飛びたい……)

 無論、どんなに願っても決して叶うことのない夢である。

 国王の別荘という豪奢な牢獄で、自分の力を試すことさえ許されず、朽ち果てていくのが定めなのだ。

(でも、今日は一つだけ楽しみがあるぞ)

 今日は自分の十歳の誕生日である。

 誕生日には毎年父王がプレゼントを持ってきてくれる。

 日々の生活から楽しみを奪われたエルネストにとってそれは久しぶりのワクワクであった。

「エルネスト様、陛下が参られました」

 炊事係の女官が庭で寝転がって空を見ていたエルネストを呼びに来た。

 慌てて飛び起きて門に向かおうとするエルネストを女官が止める。

「エルネスト様、服が汚れていますよ、お着替えになりませんと」

「必要ないよ。父上はそんなの気にしない」

「ええ、存じております。しかし今日は王妃様と王子様も来ておられますから」

「なんだって!?」

 エルネストの身体は硬直したように固まった。

 王妃がこんなところに、一体何をしに来るのか?

 色々と思案をした結果、一つだけ思い当たるフシが有った。

 自分が将来どんな大人に成長するのか、それを見定めるのに十歳と言う年齢は丁度良いのではないか?

 その答えに行きついた時、尾てい骨のあたりから脳天に向かって恐怖が走り抜けた。心臓が大きく波打って、膝が小刻みに震えだす。

(落ち着け、震えちゃダメだ、怖がっている事を絶対に気付かれちゃいけない)

 エルネストは大きく深呼吸をした後、女官に向き直った。

「マリー、去年父上に貰ったジャケットを持ってきてくれ。シャツはフリルの付いたものを」

「かしこまりました。あれならば間違いありません。優雅で上品ですし、何より陛下からの贈り物ですから、王妃様もきっとご満足なされます」

 朗らかに微笑む女官を見て、エルネストは心の中で舌打ちをする。

(そんなんじゃない。もっと切実なんだ!)

 王妃の目的がなんであれ、二人の兄がどういう人物であれ、自分は自分なりに戦略をたてて臨まなければならない。まず、やんちゃはダメだ。大人しく従順な子供でなければならない。賢いのもダメだ。馬鹿で愚かな子供でなければならない。俊敏なのも良くない。グズでノロマが良い。

 女官が持ってきてくれた服に着替え、門の前で出迎える。

 六頭立ての豪華な馬車から、王、王妃、二人の王子の順で外に出てきた。

 父王セルゲイは彫りの深い精悍な顔に逞しい口髭を貯え、堂々たる体躯を革鎧に包んでいる。

(父上はいつも通りだ)

 王の肘に腕を絡ませて歩く王妃カテリーナは目に鮮やかな青いドレス。コルセットで締め付けたウェストは折れそうなほどに細い。確か今年で三十四歳になるはずだが、二十歳の乙女と言っても通用するくらい若々しく美しい。遥か遠方の国サラディンの第二王女で、輿入れした時はまだ十三歳だったと言う。

 屋敷に来る女官たちの噂話を総合すれば、王妃は美貌もさることながら、中々の知恵者で、時に宰相を押しのけて王に助言を与える事もあると言う。その知恵者の目を、これから欺かなければならないのだ。

 萎縮してしまいそうな気持ちを奮い立たせるために、二人の兄に視線を移す。

(戦だってなんだってそうだ、守ってるばかりじゃ心が潰れてしまう)

 戦の経験は無いが、エルネストは気持ちが守勢一辺倒になってしまうと精神が徐々に削られていく事を知っていた。王妃が自分を見定めようと言うのなら、こっちは王子の品定めをしてやろう。そんな気持ちで二人の兄を観察する。

 長子パーヴェルが十五歳で次男ユーリが十三歳。背の高い方がパーヴェルで低い方がユーリと見て間違いなさそうだ。兄弟仲はまずまず上手く行っているようで、二人は小声で会話をしながら歩いてくる。

「おお、エルネスト、出迎えてくれたのか。いい子だ」

 王がその分厚い掌をエルネストの頭に乗せる。

 王妃は身を屈め、目の高さをエルネストに合わせた。

「あなたがエルネストね、陛下から話は聞いているわ。お母上はあなたを産んですぐに亡くなったそうね。可哀想な子……」

 王妃は目を潤ませ、エルネストの手を優しく握った。

「ボク、母上のことはよく知らないのです……」

 エルネストは下を向いてボソボソと喋った。

 母ナタリアは産後の肥立ちが悪く、エルネストを産んですぐに他界した。口さがない女官たちは王妃が裏で手を回して殺したのではないかと噂していたが、彼女達にかかれば老衰で死んだ百歳の老婆も恋愛関係のもつれで毒殺された事になってしまうことをエルネストは知っている。

「ねぇエルネスト、あなたさえ良ければ私を母と思ってもいいのよ?」

「で、でもボク……」

 再び下を向いてボソりと喋る。

 これは王妃が来たと聞いた瞬間に決めたことであった。なるべく視線を合わせない。そして口ごもるように低い声で喋る。絶対にハキハキとは答えない。

「あら、ごめんなさいね、いきなり言われても困るわよね。時間を掛けてじっくり話しましょう」

 王妃はエルネストの手を握ったまま優し気に微笑んだ。

 その天使のような微笑みにエルネストは凍り付く。

 冗談ではない。こっちはなるべく会話をしたくないのだ。より多くの会話をすればそれだけボロが出る可能性が高くなる。

「パーヴェル、ユーリ、こっちにいらっしゃい」

 王妃が二人の王子を呼んだ。

「あなた達の弟よ、挨拶なさい」

「パーヴェルだ、よろしくなエルネスト」

 差し出された右手を恐る恐る握る。

「ボク、エルネストです……」

「ははは、そんなに怖がるなよ、兄弟じゃないか。おいユーリ、おまえも挨拶しろよ」

 パーヴェルに言われてユーリも手を差し出した。

 言葉はない。ユーリの目は若干の敵意が籠っているように見えた。

 無言でエルネストを睨むユーリを見て、王妃は眉をひそめた。

「仕方のない子ね……エルネスト、気を悪くしないでね。ユーリは少し緊張してるの。打ち解ければ仲良くなれるわ」

 王妃は相変わらず優し気で、そんな王妃を王は満足そうに見ている。自分が浮気をして出来た子供を妻が快く迎え入れようとしているのだから悪い気はしないだろう。

「さあ、挨拶はそれくらいでよかろう。昼食にしよう、腹が減ってたまらん」

 王がそう言って腹をポンポンと叩くと、

「まあ、陛下ったら、子供みたいですわ」

 王妃が可笑しそうに笑う。

「今日は天気も良いですし、庭に料理を運ばせましょう」

「おお、それは名案だ」

 王妃の提案に王が賛同して、庭で豪華な食事会が始まった。

 皆から少し離れた場所で遠慮がちに卵料理を食べているエルネストに王妃が近寄ってくる。

 エルネストの全身に緊張が走る。

「そんなところで一人で食べてないで、こっちにいらっしゃい。お肉が焼けているわ。柔らかくてとっても美味しいから食べてごらんなさい」

「はい……」

 仕方なく皆の座っているテーブルに行くと、鉄板の上に乗せられたステーキが女官たちの手で切り分けられていた。

(見られている……)

 女官たちの視線は気にならない。恐ろしいのは王妃の目だ。自分がどのように食べるか、口に入れるところから、咀嚼し飲み込む瞬間まで、一つも見逃すまいとして鷹のような目で見ているに違いない。

 脇の下から冷たい汗が滲み出す。もっとも厄介なのは、見られていることに気付いていることを気取られてはいけない点である。

 切り分けられた肉にフォークを突き刺し、ソースをたっぷりと付けて口に運んだ。一つ目の肉がまだ口に残っているうちに二つ目を頬張り、さらに三つ目の肉にフォークを突き刺す。

「あんまり一辺に食べてはダメよエルネスト。そんなに頬張ったら噛みにくいでしょう?」

「はい、王妃様」

 喋った拍子に食べかけの肉が口から零れ落ちた。

「口の中にお肉が有るのに喋るのもダメ、零れてしまうわ」

 王妃が苦笑しながら女官に命じて地面に落ちた肉を片付けさせる。

「あらあら、お口の周りが大変なことになっているわね」

 王妃は女官にナプキンを持ってこさせ、エルネストの口の周りにべっとり付いたソースを丁寧にふき取った。

「ごめんなさい、王妃様……」

 エルネストは下を向いて小さな声で謝った。

「いいのよエルネスト、あなたには今まで母親が居なかったのだから、仕方がないわ。これからは私が色々と教えてあげますからね」

「うん、王妃様ありがとう」

 脇の下に冷汗を滲ませながらも、エルネストはにこりと微笑んでみせた。

 食事が大体終わり、皆がデザートに手を伸ばし始めた頃、庭に大きな荷車が二台運び込まれた。

「今日はあなたのお誕生日と聞いていたから、プレゼントを用意したわ。どれでも好きなものを選んで」

 王妃は相変わらず優し気な笑みを浮かべながらエルネストを荷車の前に連れてきた。

 一台目の荷車には子供用に長さと重さが調節された剣、槍、弓矢などの武具が山積みされており、二台目には大量の書物が並べられていた。

「槍はあなたにはまだ少し早いわね。そうそう、確かレナトから剣を習っていたのよね、これなんかどうかしら?」

 王妃は一本の宝剣を手に取り、エルネストに差し出した。

「ボク、剣術の稽古は好きじゃないの、だって痛いから……」

 申し訳なさそうに俯くエルネスト。

 王妃はエルネストの前にしゃがみ込み、俯いたエルネストを下から見上げた。

「そんなに困った顔をしなくてもいいわ。痛いのは誰だって嫌いですもの。剣を振り回して戦うのは兵隊さんのお仕事、あなたは王家の一員なのだから、剣術はほどほどで良いのですよ」

 王妃は宝剣を荷車に戻すと、今度は書物に手を伸ばした。

「じゃあご本はどうかしら? とっても面白い物語がいっぱい有るのよ。もう字は読めるのでしょう?」

「ボク、ご本も嫌い。だって読んでると眠くなってくるんだもの」

 エルネストの答えを聞いて、王妃は声を出して笑った。

「ほほほ、そうね、実は私も本を読んでいると眠くなってしまうの」

「王妃様も? 本当?」

「本当よ。私たち気が合うのかしら?」

 王妃の透き通るような青い瞳に見つめられ、エルネストは俯いたまま頬を赤らめた。

「でも困ったわね。何をプレゼントしたらあなたに喜んでもらえるのかしら?」

「王妃様、さっきのケーキをもう一つ食べても良い?」

「まあ、剣や本よりケーキがいいの?」

「だって、あんなに美味しいケーキ食べたことが無かったんだもの」

「いいわよ、好きなだけお食べなさい。遠慮することなんてないのよ」

「わぁ~、王妃様ありがとう」

 エルネストはデザートのケーキにむしゃぶりついた。

 実はスイーツはあまり好物ではなかったが、この際そんな事を言っている場合ではない。

 夢中でケーキを食べるエルネストに今度はパーヴェルが近づいてくる。

「ちょっと待てエルネスト」

 パーヴェルはケーキを持ったエルネストの右手を押さえた。

「母上、ちょっと」

 エルネストの手を掴んだまま王妃を呼ぶ。

「どうしましたパーヴェル?」

「エルネストの奴、袖にクリームべっとり付けちゃってるよ」

「まあ大変、誰か、エルネストに替えの上着を持ってきて」

 エルネストの着替えが終わると、パーヴェルはユーリとエルネストを連れて庭の散策に乗り出した。エルネストにとっては勝手知ったる我が家の庭であったが、無論それを二人の兄に言うほど野暮ではない。

 仲睦まじく庭を歩く三人を遠目に見ながら、王は満足そうに髭を撫でた。

 目を細めて息子たちを見守る王に、王妃がそっと寄り添う。

「どうやら打ち解けたみたいですわね」

「うむ。今日のそなたの気遣い、心から礼を言う」

「いやですわ。私は王妃として当然の事をしただけです。ところで陛下、エルネストのことですが、私に一つ提案が有ります」

「何なりと申せ」

「時期を見てこの屋敷から出し、公務に就かせてみては如何でしょう?」

「良いのか?」

 王は驚いた顔で王妃の目を覗き込んだ。

「母親の身分が低いとは言え、陛下のお子です。ゆくゆくは、それなりの爵位をお与えになってもよろしいかと」

「おお、王妃よ、そなたはなんと心の広い女性なのだ。ワシは良き妻を持った」

 王は王妃の腰に手を回し、抱き寄せた。そのまま唇を王妃の顔に近付ける。

 王妃は迫りくる武骨な唇に掌を押し当て、そのまま軽く押し返した。

「ただし、王位継承権を与える事だけは認めるわけにいきません。わかっていただけますか?」

「勿論だ。この国を継ぐのはパーヴェルかユーリだ、当然ではないか」

「それを聞いて安堵しました。陛下は英明です」

 今度は王妃の方から積極的に唇を重ねた。

 数回の軽い接吻の後、王は部屋着に着替えるために一旦屋敷に入った。

 王が去った後、王妃の背後に目つきの鋭い痩せた男が近寄る。

「陛下もいい気なものですな。文字通りご自分で撒かれた種だと言うのに」

「ニコル、盗み聞きしておったのか、無礼なヤツめ」

 王妃が軽く男を睨む。が、言葉ほど怒っている様子はない。

「盗み聞きしていたわけではありません。聞こえてしまっただけです」

「まあ良い。その人一倍優れた目と耳は、おまえが特別な仕事を遂行するのに役立つであろう」

「はい。して、その特別な仕事のことですが、いかが致しましょう?」

「ひとまず中止、いや、延期して良い」

「延期、ですか?」

 ニコルは訝し気な顔で王妃に確認した。

「脆弱にして愚鈍、野心も無ければ覇気もない。あれならば問題なかろう。おまえが手を汚す必要もあるまい」

「本当によろしいので?」

「ニコル、勘違いするな。私はあの子が憎いわけではない。将来我が息子達の害になりさえしなければそれで良い。おまえとて、無垢な子供を手に掛けるのは不本意であろう」

「はい、正直に言えば、できればやりたくない仕事ではあります。しかしながら……」

「なんだ? はっきり申せ」

「お命を奪う必要は無いとしても、爵位まで与えるのは如何なものかと。爵位を与えると言うことは領地を与えると言うことで、領地を与えると言う事は家臣を持つことを許すということです」

「構わぬ。爵位が有ろうが多少の領地を持とうが、人望の無い者に人は付いて行かぬ。あの様子では家臣の心を掴むことなど到底できぬ」 

「なるほど、確かにそうですな」

「子供は数年で化けることも有るゆえ、時々は様子を見に来なければなるまいが、ひとまずこのままで良い。あとは、パーヴェルとユーリが争わなければ良いが…………まったく、母親というものは気苦労が絶えぬものだな」

 王妃がニコルに向かって苦笑いを浮かべると

「ご心労、お察しします」

 ニコルも苦笑で応えた。


 庭の片隅で中々に物騒な会話がなされていることも知らず、三人の兄弟は庭を流れる小川で水遊びを始めていた。

「よし、この辺りにダムを作って水を堰き止めてみようぜ。ユーリ、エルネスト、木の枝と葉っぱを出来るだけ集めてこい」

 パーヴェルの命令で、ユーリとエルネストは枯れ枝や木の葉を集め始めた。

 ユーリはやや大きめの枯れ枝を、エルネストは小枝と葉っぱを一生懸命に集めていく。

 腕一杯に木の葉を抱えながら岸辺を歩くエルネストが、足元の石に躓いて前のめりに転倒した。

 大きな水音と共に派手な水しぶきがあがる。

「何やってんだよエルネスト!」

 パーヴェルが慌ててエルネストに駆け寄る。

 幸いなことに水深は膝上くらいで、エルネストはすぐに立ち上がったが、全身濡れ鼠であった。

「あーあー、服がビショビショじゃないか、さっき着替えたばっかりだって言うのに」

 パーヴェルは呆れながらも、ズブ濡れのエルネストを抱えて岸まで移動した。

「ごめんなさい、パーヴェルお兄様」

「別に謝らなくてもいいよ。でもこのままじゃ風邪をひいちまう。もう一回着替えてこい」

 パーヴェルはそこまで言うと、同じく呆れ顔で見ていたユーリに視線を向けた。

「ユーリ、おまえ付いてってやれ。こいつ一人じゃ危なっかしくてしょうがない」

「え? なんで俺が?」

「嫌なのか?」

 不満顔のユーリをパーヴェルが睨む。

「いや、別に、嫌ってわけじゃないけど……」

 ユーリは不満顔のまま頷いた。

 この瞬間、二人の間に微かに不穏な空気が流れたのをエルネストは見逃さなかった。どうやら兄弟仲はそれほど良好というわけでもなさそうだ。

 屋敷に向かって俯きながら歩くエルネストの横にユーリが並んだ。

「エルネスト、兄上の前であんまりヘマをやらかすなよ。今日は機嫌が良いみたいだから大丈夫だと思うけど、機嫌が悪い時の兄上は別人だからな」

「そうなの?」

「これを見ろ」

 ユーリは左耳の上あたりの髪の毛を捲ってみせた。銀貨より一回り大きいくらいのタンコブが出来ている。

「虫の居所が悪い時は弟だって平気で殴るぞ。おまえも気を付けろよ」

「う、うん、気を付ける」

 屋敷の前まで来ると、ずぶ濡れのエルネストに気付いた女官が慌てて着替えを持ってきた。

「ユーリお兄様、先に戻ってて。ボクもう大丈夫だから」

「わかった、あんまり遅くなるなよ。それから、もし兄上に酷い事されたら俺に言え。俺もおまえの兄だからな」

「うん、ありがとうユーリお兄様」

 ユーリがパーヴェルの元に戻り、女官が持ってきた新しい服に着替えると、エルネストも小川に向かって歩き出した。が、途中でふと気が変わり、回り道をする。自分の居ないところであの兄弟がどんな会話をするのか聞いてみたくなったのだ。かなり大きく迂回して、気付かれないように二人の背後にある植込みの陰に隠れる。

 最初に口を開いたのはユーリだった。

「兄上、本当にあんな奴を弟として認めるのかい?」

「仕方がないだろ、母上がそう言うんだから」

「でもあいつの母親は平民らしいよ。俺はあんな奴弟にするのは嫌だな」

 ユーリが口を尖らせて不平を言う。

(なんだ、さっきと言ってる事が違うじゃないか)

 今度はエルネストが呆れる番であった。

「心配するな、母上だってあいつを俺たちと同じように扱おうなんて思ってやしないさ。父上の手前、体裁を繕ってるだけだよ」

「それならいいけど……」

 尚も不満そうなユーリの肩に、パーヴェルが片手を置いた。

「いいかユーリ、あいつは俺たちを怖がってる。怖がってる奴を睨みつけたりしたってますます怯えるだけだ。逆に優しくしてやりゃ尻尾振って付いてくる。子分が一人出来たと思えばいいのさ」

「なるほど、それもそうだね」

 ようやく納得したユーリが小さく頷く。

 エルネストはその後も五分程二人の会話を聞いてから、もう一度大きく回り込んで屋敷の方角から小川に向かった。二人の兄の品定めは大体終わっていた。

 長子パーヴェルは陽気で社交的、頭もそれなりに働くし、リーダーシップも有る。ただ、やや傲慢な面が有り、目下の者を見下すところが有る。また、かなりのお天気屋で、ひとたび癇癪を起こせば家族にも暴力を振るう凶暴性を秘めている。名君になる可能性も無いではないが、どちらかと言えば暴君になる危険性の方が高い。

 次男ユーリは裏表が有り、表面では兄パーヴェルに従っているが、裏側には兄に対する不満と対抗心が詰まっている。そのくせ、面と向かって反抗するだけの勇気と度胸は無い。また、目下の人間には尊大で兄貴風を吹かせたがるところが有る。こちらはお世辞にも名君の資質が有るとは言い難い。

 一応兄二人を分析してみたものの、これは所詮お遊びに過ぎない。それに比べると、エルネストを見定めようとする王妃と、王妃の目を欺こうとするエルネストは、まさに真剣勝負と言って良い。

(ここまで来ればあと一息だ、絶対にやり遂げてやる)

 残る関門は夕食の時だけである。夕食が済めば恐らく王妃は息子たちを連れて宮殿に帰っていくだろう。


 最後の難関を、エルネストはなんとか凌ぎきった。何度も冷汗を流し、薄氷を踏む思いで、王妃の前で愚鈍な子供を演じきった。王妃が二人の息子を連れて馬車に乗り込んだ時は心底ホッとした。

「済まぬなエルネスト、今日は城に戻る。また近いうちに来るから良い子にしているのだぞ」

 最後に父王がエルネストの頭を撫でて馬車に乗り込んだ。普段ならこの屋敷に来た時は一泊していく父であったが、今日は王妃を気遣ったのだろう。

 遠ざかる馬車を門の前で見送ったエルネストは、馬車が視界から消えるとその場で座り込みそうになった。足腰に力が入らないのだ。

(ダメだ、こんな所でへたり込んだら女官達に怪しまれる)

 エルネストは最後の力を振り絞り、屋内に戻った。が、そこまでが限界であった。二階の寝室に行く階段を上るだけの気力が出ず、居間に置かれた革製のソファに倒れ込む。

(疲れた……今日はもう何もしたくない……)

 ぐったりとソファに横たわるエルネストを目ざとく見つけた女官二人がやってくる。

 今夜の宿直当番のマリーとジョアンナだ。

「エルネスト様、そんなところで寝たらお風邪を引きますよ」

 マリーがエルネストの肩を軽く揺する。

(やめろ、疲れてるんだ。もう放っておいてくれ)

 エルネストはそのまま狸寝入りを続けた。 

「相当お疲れのようね。しばらく寝かせてさしあげましょう」

 年長のジョアンナはそう言うと毛布を持ってきてエルネストの身体に掛けた。

「それにしても、エルネスト様ったら、普段甘いものはあまりお食べにならないのに、今日は物凄い勢いでケーキを食べてたわね」

 マリーが首を傾げると

「馬鹿ね、王妃様に甘えたかったに決まってるじゃない。あの宝石みたいに綺麗な目で見つめられたら、どんな子供だってイチコロよ」

 ジョアンナがわけ知り顔で答える。

「そうかー、甘えたかったのかぁ、エルネスト様カワイイ~」

 マリーはエルネストの寝顔を見ながら笑みを浮かべた。

(何がカワイイ~だ、人の苦労も知らないで…………いや、ちょっと待て。マズイぞ!)

 エルネストは慌てて飛び起きた。

 本当は甘いものが好きではない。そんな噂が王妃の耳に入ったら、立ち上がるのさえ億劫になるまで神経をすり減らして必死に演技した今日の苦労が水の泡になってしまう。 

「マリー、実を言うと、本当はボクは甘いものが好きなんだよ」

「えーっ、そうだったのですか? なぜ今までお嫌いなフリを?」

「だって、男の子が甘いものが好きだなんて、恰好悪いだろ?」

 エルネストの答えを聞いた瞬間、二人の女官は顔を見合わせてクスクス笑いを始めた。恐らく彼女達の頭の中では”カワイイ~”が連呼されているに違いない。そう考えただけでゲンナリする。疲れが更に倍増したような気分になった。

 小一時間ほどソファで休んだ後、寝室に戻りベッドに潜り込む。

 これだけ疲れていればすぐに眠れるだろう、そう思っていたのに、今度は神経が昂ってきて中々眠れない。

 本当に上手くやりおおせただろうか? 王妃の目を欺く事が出来ただろうか? 欺かれたフリをして、本当はこちらの企てを見抜いていたのではないだろうか? 考え出すと不安が止まらなくなる。きりきりと締め付けられるように、臓腑が痛みだす。

 しばらくは寝付けない夜が続くだろう。そう諦めて書物を引っ張り出し、読み始めた途端に眠気に襲われた。

(ご本を読んでいると眠くなってくるんだもの、か……)

 エルネストは書物を元の場所に戻し、ベッドに仰向けになった。

 別に本でなくても良いのだ。王妃の事から何か別の事に意識を切り替えることが出来れば良い。気付いてみれば、それは案外と簡単な事であった。


 何事もなく冬を越し、柔らかな陽光が芽吹き始めた草木を優しく包む頃になると、さすがにもう王妃の事で不安に苛まれることはなくなった。あれから半年以上が経っているが、エルネストの生活に大きな変化はない。上手く行ったのだ。知恵者と評判の王妃を上手く欺いたのだ。勿論、正面から立ち向かっては、王妃は今のエルネストが勝てる相手ではない。ただ、エルネストの方には大きなアドバンテージが有った。まだ十歳の子供であるという事、これが必殺の武器となり、王妃との勝負に勝つことが出来たのだ。誰だって十歳の童子が相手では油断する。

(だが、オレの未来に希望が生まれたワケじゃない)

 辛うじて危機を脱したというだけで、エルネストの前に立ち塞がる絶望的に高い壁が取り払われたわけではない。現状維持が出来ただけの話だ。 

 いつもの如く空を見上げながら、縦横無尽に飛び回る鳥達を羨望の眼差しで見つめていると、ジョアンナが呼びに来た。

「ステッセン伯爵がお見えになりました」

「もう来たのかい?」

 急いで立ち上がり、勉強部屋へと向かう。

 まだ朝食が終わって半刻ほどである。いつもより一刻は早い。

 エルネストが部屋に入るとすぐにステッセンも入って来た。

「今日は随分早いね」

 エルネストの言葉にも答えず、ステッセンは足早に近寄って来る。エルネストの斜め横に立ち、他に人が居ないことを確認するようにキョロキョロと周囲を見回す。落ち着きがないのはいつもの事だが、今日は少しばかり度が過ぎている。

「誰も居やしないよ」

 エルネストが苦笑交じりに言うと、誰も居ないとわかっているのにステッセンは声を低くして喋り始めた。

「どうやらエルネスト様のお考えになった作戦が現実のものになりそうですぞ」

「え? どういうことだい?」

「ガルシャとプライセンの間で大規模な戦が起こることがほぼ確実になりました。開戦時期は、恐らく来月下旬」

「来月下旬って、雨季が始まってるじゃないか!」

「まさしく。カルバ三国は他からの干渉を受けない閉ざされた地域になります」

 さすがのエルネストも軽い興奮状態に陥った。

「戦はどれくらい続く?」

「しかとは申せませんが、大国同士の総力戦ですから、短くてもひと月、長引けば一年以上掛かるかも知れません」

 ステッセンの顔にもはっきりと興奮の二文字が浮かんでいる。

「陛下もこの好機は逃がさないと仰せです」

「それで、父上はどっちと手を組むつもりなんだい?」

「サロメニアです。これもほぼ間違いありません」

「サロメニア?」

 エルネストの頭の中で大きな疑問符が飛び交う。我がロマリアが手を組むとしたらリトベニア、エルネストはそう考えていたからだ。

「どうしてサロメニアなんだい?」

「実は、昨夜遅く、サロメニアから密使が来たのです。ガルシャとプライセンが開戦したら共にリトベニアに攻め込んで欲しいと。こちらから共闘を持ち掛ければ、何がしかの代償を支払わなければなりません。それが向こうから共闘を申し入れてきたのですから、渡りに舟です」

「なるほど、それはそうだね」

 一応頷きながらも、エルネストの胸に生じた疑問は消えない。消えないどころか、ますます大きく膨らんでいく。

(妙だ……)

 エルネストが、手を組むならリトベニアと考えていたのには勿論理由がある。カルバ三国の中では、ロマリアとサロメニアの力が拮抗していて、リトべニアだけ若干だが国力が落ちる。共闘相手を吟味する上で、このことは極めて重要だ。どことどこが手を組み、どこが滅ぶことになるにせよ、勝ち残った二国間で決勝戦が行われることは避けられないからだ。ロマリアとしては、最終的に行われる決勝戦の事を考えれば、初戦の共闘相手は力が拮抗しているサロメニアより力の劣るリトベニアの方が望ましい。そして、それはサロメニアの立場に立っても全く同じことが言えるのだ。

(なのにどうして、サロメニアはウチに共闘を持ちかけてきた?)

 わからない。いくら考えても理由が見えてこない。無論、エルネストにはまだわからない大人の事情が有るのかも知れないが、もしそうでないとしたら、嫌な予感しかしない。


 花薫る春が過ぎ、鉛色の雲が空を覆う季節がやってきた。夜中と正午前後は晴れることもあるが、朝食後と夕食の前はかなり高い確率で豪雨に見舞われる。

 雨季に入って十日程が過ぎた頃、ガルシャとプライセンの戦が始まったことをステッセンから聞いた。いよいよ始まるのだ、カルバ三国による生き残りを掛けた戦いが。

 その日、いつもより少し遅れてやってきたステッセンは、明らかに興奮した顔をしていた。

「何か動きが有ったんだね?」

 エルネストが訊くと、ステッセンは例によって忙しなく目を動かし周囲を確認した。

「昨日早朝出陣した我が軍は、昨夜半、ワジル峠にてサロメニア軍と合流、日の出と共にリトベニア王都を急襲しているはずです。早ければ今日の午後には王都陥落の戦勝報告が来るでしょう」

「負ける可能性は?」

「有り得ません。ロマリア・サロメニア連合軍の兵力はおよそ一万七千、リトベニアの王都守備は周辺の兵力を掻き集めてもせいぜい六千というところです。負ける道理が有りません」

「籠城している敵を攻め落とすには三倍以上の兵力が必要、そう教えてくれたのは君だよ?」

「普通ならそうです。しかし今回は言わば奇襲で、その上リトベニアは我が国とサロメニアが共闘したことを知りません。備えの無い城を落とすのは野戦よりも簡単です」

「そう、じゃあ安心して報告を待てばいいんだね。ステッセン、今日は講義はやめにしよう。何を言われても頭に入らないよ」

「そうですな。今日は私も、講義を行っても上の空でしょうからな」 

 珍しく意見が合った。

 それでも午前中は昨日の講義の復習を少しだけやった。

 昼食が済み、午後に入ると、雲の切れ間から太陽が覗き始めた。

 そろそろ報告が来ても良い頃合いだが、今のところその気配はない。

 マリーが煎れてくれたハーブティーを飲みながら雑談をしていると、

「開門! かいもーん!」

 と叫び声が聞こえた。

「来ましたな」

 ステッセンに言われるまでもなく、エルネストは立ち上がり玄関に向かって走り出していた。ステッセンがその後ろに続き、女官たちも興奮気味に付いてくる。皆、今日がどういう日かを知っているのだ。

 エルネストが門の前で見たものは、馬上で苦しそうに脇腹を押さえる兵士の姿であった。左肩に二本、背中には三本の矢が突き刺さり、右の脇腹には浅くない切り傷。鎧のおかげで致命傷には至っていないが、決して軽い怪我ではない。どう見ても戦勝報告をしに来た伝達兵ではない。

 兵士は馬を降りると、エルネストの前で片膝を突き、ケトルハットを脱いだ。

「レナト!」

 懐かしい顔が苦痛に歪んでいる。いや、苦痛だけではない。そこには言葉にできない悔しさがにじみ出ていた。

「何が有った!?」

「エルネスト様、我がロマリアは、敗れました」

「それじゃわからない。何があったか正確に話せ」

「我が軍は夜明けと共にリトベニア城を包囲、攻撃を開始しました。その直後、背後に居たサロメニア軍が突如我が軍を急襲、城内から出てきたリトベニア軍と背後のサロメニア軍の挟撃に会い、我が軍は壊滅しました」

「なんてことだ……」

 エルネストの嫌な予感が的中してしまった。サロメニアとリトベニアは最初から裏で手を組んでいたのだ。無論、善いとか悪いとか、卑劣だとか卑怯だとか、そういう問題ではない。謀略策略でロマリアが後れを取っただけの話だ。

「そうだ、父上は、陛下はどうなされた?」

「なんとか敵の囲みを突破し、城内に逃げ込みました」

「無事なんだな?」

 エルネストの確認に、レナトは唇を噛んだまま頷かない。

「城は既にサロメニア軍に包囲されています。陛下と共に逃げ込んだ兵は五百に足りず。落城は時間の問題かと」

 エルネストは自分の身体から音を立てて血の気が引いていくのを感じた。が、エルネストよりも更に蒼白になっている男が居る。痴呆のように口を開けたまま、ステッセンがその場で尻もちをついた。腰が抜けてしまったのだ。蝋のように白いステッセンの顔を見ているうちに、エルネストは少しだけ冷静さを取り戻した。人間とは不思議なものだ、自分よりもっと狼狽している人間を見ると、若干だが動揺が収まるのだ。

「レナト、城が落ちたら王はどうなる?」

「首を斬られるでしょう」

「では王の一族は?」

「直系男子は斬首、婦女子は命までは取られないでしょう」

 これはレナトに訊いたと言うより、確認作業であった。国が攻め滅ぼされ、王が首を斬られれば、王の血をひく男子はほぼ例外なく殺される。後々の憂いを断つためだ。情けを掛けて助命したために、その後成長した子供に報復された前例が有り、これが教訓になっているのだ。

 エルネストは決断した。自分が生き延びるにはこの国を脱出するしかない。そして、そのための時間的猶予は城が落ちるまでの僅かな間。迷ったり悩んだりしている暇はない。

「ステッセン、いつまで腰を抜かしている、早く立て。マリー、ジョアンナ、手を貸してやれ」

 そこまで言ってから今度はレナトに向き直る。

「レナト、怪我をしているところを済まないが、近くの商家から荷馬車を借りて来てくれ。出来るだけ多くの荷物が乗せられている馬車が良い」

 エルネストの言葉が終わらないうちにレナトは馬にまたがり、狂ったように駆けだした。

「エルネスト様、一体何を?」

 女官たちの手を借りてどうにか立ち上がったステッセン、顔の色は相変わらず真っ白だ。

「今から脱出する。おまえは女官たちを連れて山に逃げろ」

「し、しかし、エルネスト様の存在とこの場所はまだ敵に知られていません。迂闊に動かない方が良いのでは……」

「何を馬鹿な。そんなものは落城と同時に敵に知られる。ぐずぐずするな」

 父王セルゲイも、パーヴェルもユーリも、城が落ちれば命は無い。愛する夫と二人の息子が殺されて、エルネスト一人が生き延びる。王妃がそんなことを許すはずがない。尋問されるまでもなく自分から喋るだろう。

 エルネストは父から貰ったお気に入りの上着を脱いで、ステッセンに向かって放り投げた。

「この上着をおまえに与える。途中で農家の子供を一人借りて、いや、拉致して良い。その子供にこれを着せて背負って逃げろ。山を越えてウッドランド領に入ればひとまず安全だ。その前に敵に追いつかれたら、抵抗はするな。事情を話してその子供が俺ではないことを伝えろ。命までは取られないだろう」

 ステッセンはエルネストの顔を食い入るように見つめた。その目には、はっきりと驚愕の色が浮かんでいる。

「エルネスト様、あなたと言う人は……」

「それ以上言うな。早く行け」

 ステッセンの言いたいことはわかっている。今まさに国が滅びようとしているこの時に、どうしてあなたはそんなに生き生きしているのかと、そう言いたかったに違いない。

 エルネスト自身にも、体中に漲る歓喜にも似た高揚感がどこからきているのかわかっていない。

 ステッセンが女官たちを連れて逃げた後、レナトが戻ってくるまでの時間に何をするべきかは、考えるまでもなくわかっていた。まず自室に戻り、父から貰った武具を並べる。長短様々な五本の剣とおもちゃのような小さな弓。まずおもちゃの弓を片付ける。次にロマリア王家の家紋が入った宝剣を除外する。残った4本のうち、最も地味で装飾の少ない短剣を手に取り、それをシャツの内側に忍び込ませた。

 持っていく武器が決まったら、次は食糧だ。キッチンの中を手当たり次第に引っ掻き回す。肉、魚、野菜と言った生鮮類は携行食糧にはなり得ない。米や小麦粉もダメだ。加熱調理しなければ食べられない物を持って行ったって役に立たない。数分荒らし回った後、ようやく女官たちがおやつに食べるビスケットの缶を見つけたところで、自分を呼ぶレナトの声が聞こえた。ビスケットをズボンの両ポケットに目いっぱい詰め込んで外に出る。

 レナトは注文通り、積み荷の詰まった馬車に乗って戻って来た。

 荷台には白い幌が張られていて、幌の内側には大小様々な木箱が並んでいる。酒や岩塩、香辛料などが詰まった箱である。エルネストは手頃な大きさの木箱を開けて、中に入っていた袋詰めの黒胡椒を全て取り出し、馬車の外に放り投げた。空になった箱の中に入りしゃがんでみると、丁度良い具合にすっぽりと収まった。

「レナト、蓋をして外から釘で打ち付けてくれ」

「良いのですか?」

「心配要らない。いざとなったらこいつで内側から箱を壊して外に出る」

 エルネストは懐にしまい込んだ短剣を取り出し、レナトに見せた。

「わかりました。それで、どちらに逃げますか?」

「サロメニアだ」

「サロメニアですと!?」

 レナトは仰天して聞き返した。

「サロメニア本軍は今、我が城を包囲している。他にロマリア領内で残兵狩りを行っている部隊もあるだろう。サロメニアに入ってしまった方がむしろ安全だ」

「なるほど、言われてみれば確かに」

「サロメニアに入ったら、一目散に西に向かえ」

「西と言うことは、ガルシャですな」

「ガルシャ軍は今、プライセンとの国境付近に兵力を集中させている。サロメニアとの国境に守備兵を置くだけの余裕はない。ガルシャに入るのはそう難しくないだろう。ガルシャ領の奥深く入ってしまえば、サロメニア軍もおおっぴらには追ってこれない。おまえが安全だと判断したところで俺を出してくれ」

 レナトは大きく目を見開き、返事をするのも忘れてエルネストの顔をまじまじと見つめた。

「どうした、レナト?」

「なんということだ……私は、今の今まで、あなた様を見誤っていました。お許しください」

 レナトはその場で片膝を付き、国王に対してするのと同じように恭しく礼を取った。

「立てレナト。今は悠長にそんなことをしている場合じゃない。納戸を探せば金槌と釘くらいはあるだろう、急げ」

 エルネストに言われてレナトが立ち上がり、家屋に向かって走る。

 ほどなく金槌と釘を用意したレナトが戻って来た。

「では、中でお座りください」

 一旦しゃがみ込んだエルネストは、思い出したように立ち上がり、正面からレナトを見据えた。

「レナト、おまえに最後の指示を与える」

「なんなりと」

「途中で追いつかれたら戦う必要は無い。馬車を捨ててさっさと逃げろ」

「しかしそれでは……」

「負傷しているおまえが一人で戦ったところでどうにもならない。俺はこの箱が開けられないことに賭ける。いいな」

「わかりました」

 エルネストが再びしゃがみ込むと、レナトは蓋をして釘を打ち始めた。

「エルネスト様、中の具合はどうですか?」

 釘を打ち終わったレナトが確認する。

「悪くない。少しばかり窮屈で息苦しいだけさ」

 そう答えてから、エルネストは思わず苦笑を浮かべた。考えてみれば、今までだって窮屈で息苦しい檻の中に居たようなものだ。

「飛ばします。かなり激しく揺れると思いますが、辛抱してください」

「俺が乗っている事は忘れろ。荷物を運んでいると思え」

「承知」

 馬車は連日の雨でぬかるんだ道を猛スピードで走り始めた。

 順調に行けばサロメニアに入るまでに一刻半、サロメニアを抜けてガルシャ領に入るのは恐らく夜中になるだろう。

 レナトの言葉通り、馬車はもう少しで横転するのではないかと思うくらい激しく揺れた。エルネストの入った箱も、荷台の中を前後左右に動き回る。上下の揺れも激しく、エルネストの頭は何度も木箱の上辺に叩きつけられた。だが、どんな激しい揺れも、箱の上部に叩きつけられた頭部の痛みさえも、エルネストには心地良かった。もしかしたら数刻後には殺されているかも知れないと言うのに、どうしてこんなにも心が躍るのか。ロマリアを脱出すると決断した瞬間から始まった謎の高揚感は、今もまだ続いていた。 

 どれくらい走っただろうか、しばらく前から速度を落として走っていた馬車が静かに止まった。エルネストには正確な時間はわかりようもないが、既に日は暮れているはずである。ロマリアを出てサロメニアに入っている事だけは間違いない。

(追いつかれたか?)

 箱の中で膝を抱えたままエルネストは身を固くした。

「エルネスト様、近くの農家から馬を盗んできます。少しだけお待ちください」

 レナトの声だ。走り続けた馬が潰れる寸前で、馬を替えるために止めたのだ。

「レナト、今どのあたりだ?」

「私はサロメニアの地理に明るくありませんが、恐らくもう半ばは過ぎているでしょう。あと二刻も走ればガルシャに入れるかと」

「そうか、あと二刻か」

 その二刻が生死の分かれ目だ。

 しばらく待つと、再び馬車が走り始める。

 エルネストはポケットから潰れたビスケットを取り出し食べ始めた。

 四つ目のビスケットを口に含んだ時、短い嘶きと共に馬車が急停車した。

 続いて起きる剣戟の音。

 剣音はすぐに収まり、何者かが荷台に乗ってくる気配がした。

「ちっ、誰も居ねえ!」

 荷台に上がって来た者が乱暴に箱を蹴り飛ばす。

 エルネストの入った箱も激しく蹴られた。

「どうします隊長? 一応箱の中身を調べますか?」

「うーむ、面倒だが仕方あるまい」

 エルネストは心臓を鷲掴みにされたように固まった。

 と、その時、レナトの大声が聞こえてきた。

「はっはっは、かかったな、サロメニアの雑兵共、エルネスト様ならとっくに別方向から脱出している!」 

「クソッ、おとりの馬車か! はかられたわ!」

「今さら引き返したところで遅い! 貴様らごときに討ち取られるエルネスト様ではないわ」

「黙れ、この死にぞこないが!」

 剣が肉を切る嫌な音がして、その後大きな物が地面に倒れる音がした。

(馬鹿レナト! 逃げろって言ったじゃないか!)

 エルネストは心中で罵りながら感謝した。

「隊長、さきほど報告の有った山の方に逃げた子供が本命ではありませんか?」

「うむ、妾の子供は山岳地帯に逃げたに違いない。全速で引き返すぞ!」

 隊長と思しき男の号令で、数十人の足音が遠ざかる。 

 息苦しくなる静寂の中、エルネストはしばらく動かなかった。

 どのタイミングで外に出るかは生死を分け得る。

 少なくとも馬車が完全に敵の視界から外れるまでは待たなければならない。

 だが、そういつまでも待ってはいられない。できれば夜が明けるまでにガルシャに入りたい。

 エルネストはゆっくりと数を数えた。

 千を数えたところで懐から短剣を取り出し、箱を壊す作業に取り掛かる。

 四半刻ほどでようやく外に出ることが出来た。

 雲の隙間から顔を出した月明かりの中、血にまみれたレナトを発見したが、すでに呼吸は完全に止まっている。

(レナト、悪いけどおまえを埋めてあげる時間はないんだ)

 レナトの亡骸に手を合わせ、ほんの数秒祈りを捧げた後、エルネストは素早く馬車から離れた。

 馬車道から外れ、森の中に駆け込む。

 とにかく西に向かって進まなければならない。

 晴れていれば星の位置から方角を割り出すことは出来るが、雨季の夜空はそれを許さない。

 とりあえず馬車が進んできた方向と逆方向に走り出す。

 森の中はほとんど漆黒の闇で、走り辛いことこの上ないが、のんびり歩いているわけにはいかない。

 何度も躓き、時には派手に転びながら、それでもエルネストは全力で走り続けた。

 空腹も喉の渇きも全身を襲う疲労も、今は忘れなければならない。

 気が遠くなるほど長い時間走り続け、ようやく東の空が白み始めた頃、前方に小さな砦を発見した。ガルシャのものか、それともサロメニアのものか。規模としては大きくないが、破損個所がほとんど無いところを見ると現役の砦であることは間違いない。

 叢に身を潜めながら用心深く近づく。

 東の稜線から少しずつ顔を見せ始めた朝日が、砦の中央付近に立つ見張り台を照らし出す。

 見張り台に掲げられた旗に描かれているのは、青地に黄色の五連星。

(ガルシャだ、ガルシャに入ったんだ!)

 全身の力が抜け、エルネストはその場に座り込んだ。

 太陽は完全に上り、岩に、草木に、叢の虫たちに、朝の到来を告げる。

 仰向けに寝転がり、手足を大の字に広げると、朝露を吸った湿風が顔の上を流れた。

(なんて素晴らしい朝なんだ……)

 それは神秘的なまでに美しい朝であった。

 西の空には巨大な雲が山のようにそびえている。その灰色の山塊を東から上った朝日が照らし、東の峰を黄金色に染める。黄金色に染まった雲の斜面を、一羽の大鷲が悠然と横切っていく。その力強く逞しい翼を見つめながら、エルネストはもう羨ましいとは思わなかった。

(俺は、自由だ……これから、俺の本当の生が始まるんだ)

 エルネストは無意識のうちに笑みを浮かべていた。

 この先どんな苦難に出会おうと、どんな修羅場が待っていようと、その時自分は持てる力を全て出し切って良いのだ。もう弱いふりをする必要もないし、愚かな子供を演じる必要もない。自分を偽ることなく全力勝負ができる。それだけで、ゾクゾクするほど心が躍動する。

 これからとてつもなく楽しい未来が待っている。そう確信してエルネストは立ち上がった。


            -了-

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幻魔剣記エルネスト伝Ⅰ(亡国の翼) 里見拓 @m-satomitaku

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