くちなし
動けなくなった彼に、コップ一杯の氷に水を入れて渡したの。そしたら彼、怒ってコップを投げてきたの。
どうやら、熱いお茶のほうを飲みたかったみたい。彼はいつも氷を一杯にしたコップを持って出て行くから、てっきり好きなのかと思ってたけど、違ったのね。
彼の足が動いていた時、彼は家の1階に作った自分の部屋にこもって、水道は2階にあるからわざわざ階段を登ったり降りたりしていた。2階なら休める部屋もあるのに、彼は必要な時以外は部屋にこもっていた。
彼が動けなくなって数日だけ、私は毎日彼にご飯を届けたわ。階段を往復するのは少なくても6回。それ以上の時は、もうクタクタで、どうして彼がこんな面倒なことをするのか、わからなかった。
暗い部屋に居るのは体に悪いと、子どもたちが気を利かせて、明るい2階の部屋に移してくれた。1階の彼の部屋は太陽の光も届かない場所で、まるで地下のようだった。小さな電球の光と、古いテレビ、生活に必要なものだけを詰め込んだような場所は、とても息がしやすいとは思えなかった。
私の負担は減ったけれど、そのぶん、彼の鋭く尖った声に突き刺さるのが怖かった。
でも、あなたは明るい場所に移って1週間も経たないうちに、あっさりいなくなってしまった。動けなくなった足を捨て、自由の効かなくなった体から抜けて、どこか見えないところへいってしまった。
まるで深海魚のようね、と誰かが言った。
暗い海の底から、明るい陽の光にあてられて耐えられなくなったの?それとも、あなたが息をするには、ほんの少しの高さがいけなかったのかしら。
あなたは何も言わないで、いってしまったものだから、驚くことや悲しむことよりも、ぽっかりと気が抜けて、いつまでも落ち着かなかった。
あなたの言葉は音になりきれず、何を伝えたいのかわからなくて、あなたと出会った時のことを思い出す。
私の声が遠く聞こえなくなったあなたは、私には声が聞こえるからと何か話していたけれど、あなたはあなたの声が聞こえないから、結局は何を伝えたかったのか、私はわかろうとしなかった。
あなたと一緒にいた時間は、苦労もあるし辛いこともたくさんあるけれど、それでも幸せだった
あなたは綺麗な顔をしていた。
今にも喋りそうなくらい、その胸に大きく息を吸って笑い出しそう。
けれどあなたはもう、くちはあっても、何も話さないのね。
こんなにもあなたはここにいて、確かにここにいて、その輪郭がはっきりしているのに。
あなたの心が、どこにもない。
ああ、やっと、とうとう、あなたがもうどこにもいないのだと、わかってしまった。
さいごくらい、お礼の一つも口にすればいいのに。
あなたはなにも、言わなかった。
名前のない話 東雲 @shinononame
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