笑う怪物

増田朋美

笑う怪物

最近は暑いも寒いもよくわからない日が続いているというが、今日は特に寒い日であった。そんなわけでみんな厚い上着を着て、道を歩いているのであった。本来ではこれが通常なのかもしれないが、それにしても寒い日であった。

杉ちゃんたちは今日も製鉄所と呼ばれている福祉施設で、着物を縫ったり、ピアノを弾いたりしていたのであるが、突然製鉄所の固定電話が鳴った。

「はい、もしもし。」

施設の管理人をしているジョチさん事、曾我正輝さんが電話に出た。

「あのそちらに竹沢清が、行っていると思うんですけど。」

中年の女性の声であった。

「はい、こちらにおりますが?」

ジョチさんが言うと、

「あの、母なんですけど、ちょっと清を出してもらえませんか?」

というのでジョチさんは、

「少しお待ち下さい。」

と言って、一回受話器を置き、庭を掃除していた竹沢清さんに、お母様から電話が入ってますと伝えた。竹沢清さんは、すぐ話し始めた。水穂さんがピアノを弾くのを辞めて、清さんを心配そうに見ている。

「すみませんが、家に大事な用ができまして、帰ってもよろしいですか?」

清さんは、ジョチさんに言った。

「どうしたんですか?」

ジョチさんが聞くと、

「はい。姉の様子がちょっとおかしいのです。」

と、清さんは答える。

「お姉さんは確か、精神関係で大変なことがあったな。」

悪びれずになんでも話してしまう杉ちゃんが言った。

「どうなさったんですか?」

ジョチさんがまた聞くと、

「はい。姉がまたパニックを起こしたらしいのです。ちょっと病院へ連れて行って、注射打ってもらってきますので、今日はこれで帰らせてください。父や母では、とても姉のことを見てられないので。」

そう言って、清さんはカバンを持ち、急いで車に乗り込んで、帰ってしまった。事実上お姉さんと彼を離したほうが良いのではないかと思ったので、清さんに製鉄所へ来ることを勧めたのであるが、何度も電話をして呼び出されるようでは、全く効果が出ていない様子だ。

「これはまずいですね。そんな状態では清さんも悩んでしまいますし。彼は、お姉さんの世話ばかりするようになってしまいますね。本当は、お姉さんをここへ連れてくればよかったのかもしれないですけど、それができなかったから彼に来てもらったんですが、これでは彼も可哀想です。彼自身に彼の人生を作らせないといけませんよね。」

ジョチさんは考え込むように言った。

「でも他にお姉さんの世話をしてくれる団体や、組織がないことも確かですよね。老人福祉施設はよくあるんですけど、若い人で支援が必要な人には、何も与えられないのが、日本ですからね。」

水穂さんがそう言うと、

「そうですね。いわゆる篤志家と名乗る人に頼るしか無いのは問題です。この先彼はずっとお姉さんのそばについて、彼自身のことは考えられない人生を強いられるとなると。またつらいと思います。」

ジョチさんは、二人の話をまとめるように言った。

「なんとかしてあげなくちゃ。彼のような人を、なんとかしてあげるのも、この施設の役目なんじゃないですか。単に、ここは居場所を提供するだけの、施設では無いでしょう。」

「確かに水穂さんの言うとおりです。彼にもなにか社会参加させてやりたいですね。現在、竹沢清さんは無職で、生活は親御さんの年金で暮らしているようですね。お姉さんの多恵子さんは、重度の精神疾患で働くことができない。だからいつも弟である清さんが自宅に居るのですが、ご両親では高齢のため、多恵子さんを抑えることができない。事実多恵子さんに殴られて怪我をされた事もあるようです。そういうわけで、多恵子さんがパニックになる度、清さんが自宅に呼び戻されるというのが、現状になっています。」

ジョチさんはまず彼女の現状を言った。

「一度、多恵子さんを介護施設に入れたらどうかという話もあったそうですが、多恵子さんがそれを嫌がったために、自宅で過ごさせているそうです。」

「正確には、多恵子さんが大暴れしてそれを怖くなった親御さんがしかたなく家で過ごさせているというのが、正しいな。そして親御さんはもう世話ができないので、清さんに頼り切っている。これでどうだ?」

杉ちゃんがすぐに口を挟んだ。

「まあ、そうなのかもしれませんが、多恵子さんを怪物扱いしてはいけませんよ。彼女だって、立派な人間なんです。ただ仕方なく体調を崩してしまっただけです。」

「でもだいたいの人は、彼女を怪物だと思ってしまうことだろう!」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「本当は、彼女をこっちへ連れてきてさ。ちょっと、弟さんの負担を減らさせたほうが良いんじゃないのかな?」

杉ちゃんは話を続けた。

「そうですね。それもよろしいかと思います。幸いこちらにも空きはありますし、多恵子さんを家の中に閉じ込めるのではなくて、外の空気になれさせることが大事です。そういう意味でも連れてきたほうが良いかもしれません。」

ジョチさんはそう言ってタブレットでなにかうち始めた。多分、竹沢清さんと連絡をとっているのだろう。

しかし、帰ってきた答えは、それは無理と言うものであった。なんでも姉は以前、支援施設へ通っていたようであるが、そこで指導員さんに酷いことを言われてしまったようである。なので施設へ行くとなると、また暴れだすかもしれないので、話せないということだった。

「そういうことなら。」

と、杉ちゃんが言う。

「こんな時だからこそ、人を使おう!」

杉ちゃんはジョチさんのタブレットを借りて、なにかうち始めた。最近は、文字の読み書きのできない杉ちゃんでも、電報を打つような感じで、カタカナ文を打てるようになっている。ラインとかフェイスブックとか、すぐに連絡ができるのだから、良い世の中だ。すぐに杉ちゃんの電報のお陰で、製鉄所の電話が鳴った。

「はいはい、もしもし。」

「こんにちは。榊原市子です。なんでも外へ連れ出してほしいという女性が一人いると、杉ちゃんから連絡をもらってお電話しました。すっと外へ出られない女性がいるそうですね。」

「ええ。そうなんですよ。あの竹沢清さんのお姉さんで竹沢多恵子さんです。精神障害で、ずっと外へ出られない状態だったそうで、弟の竹沢清さんも、大変なようです。ここへ連れてきたいのですが、力持ちの市子さんに手伝ってもらえたらと思いましてね。どうでしょう。よろしければ、お願いできませんでしょうか?」

ジョチさんが言うと、

「わかりました。あたしで役に立つのなら。なんでもやります。あたしは、力持ちだけが取り柄ですから。」

市子さんはとても明るく言った。

「じゃあ、市子さんに来ていただいて、みんなで竹沢さんの家に行きましょう。悪質な引き出し屋だと言う感じをさせなければ、入らせてくれると思いますよ。少なくとも親御さんは、福祉関係といえば、入らせてくれると思います。」

ジョチさんがそう言ったので、杉ちゃんとジョチさんは、小薗さんの車に乗った。途中のコンビニで市子さんを車に乗せて、三人で竹沢さんの家に言った。水穂さんは、なにかあるといけないといい、製鉄所へ残った。

カーナビを頼りにやってきた竹沢さんの家は一見すると、普通の家であった。アパートに住んでいるわけではない。一戸建ての家に、住んでいるのは悪いことばかりとは言わないけれど、ちょっと不利なところもあるような気がする。

「こんにちは、あの、福祉施設製鉄所を管理している曾我と申します。あの、清さんが利用している施設の管理人です。清さんが突然お帰りに鳴ったので心配になってこさせてもらいました。清さんは今どちらにおられますか?」

と、ジョチさんはインターフォンを押して言った。

「はい。清は、病院に行きました。」

と、年を取った女性の声がする。

「はあ、つまり、多恵子さんはパニックになって、清さんが病院に連れて行ったのか?」

杉ちゃんが言うと、返答はなかった。

「な。そうなんだろ?隠して無いで、本当の事言えよ。お前さんたちではもう対処できないんだろ?もしかして、多恵子さんに殴られて、骨折でもしたのか?それで多恵子さんのいうがままにしてしまっているんじゃだめなんだよ。それで全部の事を清さんに頼り切っているようでは、それではまずいぜ。それよりも、誰かに相談してさ。多恵子さんを更生させられるような場所へ行かせること。そして、清さんが自分の人生を歩けるように、なんとかしてやるのが親の努めだぜ。そうだろ?」

杉ちゃんの言い方は、正しくでかい声で隣近所にも聞こえてしまうような言い方だった。隣の人が、何があったんだと思って聞きに来てしまうとまずいと思ったのか、ドタドタっと玄関まで走ってくる音がして、ガチャンと玄関のドアが開いた。

「おう、サッサと入らせてくれ。寒くてしょうがないんだ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「すぐ入ってください。」

と、お母さんは急いでそう言って、杉ちゃんたちを部屋まで入らせた。とりあえず杉ちゃんたちは、居間に通されて、お茶を出された。

「そこまでの気力はあるんだね。」

杉ちゃんはお茶をがぶ飲みして、

「ねえ。お前さんたち、いつまでこの生活続けるつもりなの?多恵子さんが、まあ確かに大変なのはわかるけど、でもこのままではおまえさんたちは一生不幸なままで居ることになっちまうよ。それでは嫌だろう?お前さんだって、やりたいこともあるだろう?それなら、彼女を、どこかに預けてさ、自分の人生を送る。それができたらいいなって思ったことはないか?」

と、でかい声で言った。

「でも、一度、そうしようと思っていましたが、多恵子はこの家に居たいんだと怒鳴りつけて、主人に殴りかかりました。その時は、清がイてくれたから良かったようなもので。私たちは何もできませんでした。だから、そうするしかなかったと思います。」

お母さんは申し訳無さそうに言った。

「そもそも、一体どういうことで、多恵子さんは家に閉じこもるようになったのでしょうか?」

ジョチさんがそうきくと、

「わかりません。多恵子は何も話してくれませんでした。お母さんたちには関係ないことだといいましたが、私はちょっと様子がおかしいと思いまして、多恵子を精神科に連れていきました。その後からです。多恵子は、飲まされた薬が合わなかったんでしょうか。それはわかりませんが、暴力的になっていった。薬のせいなのか本人のせいなのかそれはわかりません。だけど、そうやって、主人にも殴りかかるように鳴ってしまいましたし、もう治ることは無いかなと思いまして。」

と、お母さんは言った。

「それはいつ頃のことですか?」

ジョチさんが聞くと、

「はい。多恵子が大学を卒業して、就職したばかりの頃だから、ちょうど10年前ですね。」

お母さんはそういった。

「10年。よく耐えていられたな。まあ最も、10年続いちゃえば、なれちゃうっていうか、そういう所あるよな。」

と、杉ちゃんがいった。

「そうかも知れませんね。でも、まず初めに多恵子さんが薬を飲まなかったとか、そういう事も考えられるかもしれません。精神疾患の方は、病識がなく、自分が病気にかかっていることがわかっていない方も多いので。もし、処方された通りきちんと飲んでいれば、多恵子さんは助かった可能性もあったかもしれないのです。そこはご両親がしっかり管理するべきだったと思うんですが、違いますか?」

ジョチさんがそう言うと、お母さんは、涙をこぼして泣き出してしまった。

「やっぱり私が悪かったんですね、、、。」

「そこを責めちゃいかんよ。お母さんはそうするしかできなかったんだからそれを責めても仕方ない。それより事実はただあるだけのこと。そこからどうするかにいいも悪いも何も無いんだ。まずそれからどうするかを考えなくちゃ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「はい。わかりました。それではそうしましょう。これから、まず多恵子さんにこの人たちなら真剣に自分の事をわかってくれるというように信頼をもたせましょう。何年かかるかわかりませんが、そうするしかありません。そして、医療機関に搬送する手段を用意して、彼女を医療機関に搬送するようにさせましょう。」

ジョチさんが管理人らしく、しっかりと言った。

「でも、そんな事できるんでしょうか。以前、わたしたちが同じことをしようにもあの子は大暴れしてできなかったんですよ。だから、もう無理なのではないかと。」

お母さんはそう言っているが、

「いえ、家族ではなくて、他人であればまた違うかもしれません。同じ要件であっても、家族ではなくて他人から伝えてもらえばよりはっきり伝わったケースはたくさんあります。」

ジョチさんがそういった。すると、市子さんが、

「その役目、私にやらせてもらえないでしょうか?」

と言った。

「でも、抑えると言うことが必要になるかもしれません。そういう役は男性のほうが適していると思いますが。」

とジョチさんが言うと、

「だって、杉ちゃんも理事長さんも足が悪くてどっちにもできませんよ。それに私はこう見えても女子相撲をずっとやってるんですから、力持ちだけは自信がありますよ。まあ、番付は前頭だけどね。」

市子さんはカラカラと笑った。

「多分きっと、その多恵子さんという女性は、お友達が必要なんです。自分の言葉を本当にわかってくれるお友達ができたら、彼女はまた変われるのではないかと思います。あたし、多恵子さんが帰ってきたら、ちゃんと自己紹介して、彼女に話しかけます。そして時々、こちらへ会いに来て、彼女に信頼してもらうようにしますから。そうして、理事長さんたちに引き合わせて、医療機関に結びつけるようにしましょう。そういう作戦はいかがですか?」

「そうですか。多分あの子は意志が強い子だから、無理だと思いますけど、とりあえずやってみてください。」

お母さんはそういった。

それから数分後。

「ほら姉ちゃん。もうこんな事しないでよ。ちょっとしたことで変にパニックになったり、そんな事しないでね。」

清さんの声がして、清さんと多恵子さんが帰ってきたことがわかった。皆多恵子さんの顔を見たが、たしかに怪物というのがピッタリと思われるほど太っていて、なんだか市子さんと変わらないくらいの体格をしていた。これでは、お父さんが骨折したというのも十分ありえる。

「こんにちは多恵子さん。」

市子さんが多恵子さんに声をかけた。

「私、榊原市子と言います。職業は、女子相撲の相撲取り。番付は前頭筆頭。でも悩んでいることがあって。私は、太っているから、なかなかかわいい格好もできないのよ。もし多恵子さんもそういうことで悩んでいるんだったら、ぜひ答えを聞かせていただきたいわ。」

「そうなんですか。私は、洋服はジャージさえあれば。」

多恵子さんは聞いた。

「そうかも知れないけど、でもかわいくなりたいと思わない?私は、いくら相撲取りであっても、可愛くなりたい気持ちは持っているわ。だって、男性の相撲取りでも今はすごくおしゃれなのが居るもんね。例えば、霧島って覚えてる?すごいきれいな力士だったわ。もう引退しちゃったけど、偶に本場所で物言いやってるから、見てみてよ。」

「そうなのね。私は、そういうスポーツとかそういうのは全く興味が無いんです。」

と多恵子さんが言うと、

「そうかも知れないけど、実際にね、相撲を取ると楽しいわよ。相手を嫌なやつだと思って、投げ飛ばしたりしたときはもう感動よ。それに、相撲ってただのスポーツじゃなくて、神様に捧げる行事でもあるから、あたしはそこが好きなのよね。」

市子さんはにこやかに言った。

「神様?私は、そんな事信じるものでもないわ。」

多恵子さんが言う。

「そうかしらね。あたしは違うと思うな。神様とか、仏様とかかならずいるわよ。人間にできることなんて、ほんの少しのことしかできないって多恵子さんもよく知ってるんじゃないの?だってさ、多恵子さんだって、何もできなかったんでしょ?自分でしたいことがあったはずなのに、それだって実現できなかった。それは、よく知ってることでしょうが。その対策としてはただ祈るしか無いのよね。そうでしょう?」

市子さんはなにか信心深い話を始めた。

「そうかしら、いくらそうなっても、何も通用しないし、それに宗教なんて、とんでもないお布施を取るとか、そういう悪質なことばっかりするでしょう?」

多恵子さんが言うと、

「まあそうかも知れないですけどね。あたしは、人間が偉くなりたいと思ってしまったから、そうなっちゃうんだと思うわよ。そうじゃなくて、自分でなんとかしようとしないことが大事なんじゃないかな。それよりも、大事なことはね。ただ事実はあるだけということよ。それに人間が甲乙善悪つけて、なんとかしようとするからだめなのよ。そうじゃなくて、人間にできることはそれがどうやって解決できるかを考えることだけでしょ。実行だってできないかもしれないのよ。だから、どうしたらできるかを考えることしか、わたしたちにはできないのよ。」

市子さんはにこやかに笑ってそういう事を言った。

「でも、あたしは、自分ではどうしたらいいか分からなかったわ。それをみんなして私が解決方法を思いつかないから、だめなんだと言って私を叱った。だから私はだんだん自分のことがだめだと思うようになった。それと同時に怒りも湧いてきたの。なんで、みんな答えを知っているのに、教えてくれないんだろうってね。」

多恵子さんは小さな声でそういう事を言った。

「じゃあ、もう一つできることを教えてあげるわよ。それはね、誰かに相談するってことなの。幸い、今の時代はいろんなものがあるわ。SNSだってそうだし、他にも色々あるじゃないの。顔を見なくたって相談することができるって良い世の中よね。それは、嬉しいことでもあると思うわ。ここに居る身近な人が全部答えを知っているとは限らないわよ。だから、答えを求めることは、なんにも悪事なんかじゃないのよ。」

市子さんは、多恵子さんに言った。

「本当?」

多恵子さんがそう言うと、

「ええ。私はそう思ってるわ。なにかあったらいつでも、連絡してきて。これ私のライン。よろしく頼むわ。」

と市子さんは、そっとラインのIDを書いた紙を渡した。

「ありがとう。」

多恵子さんはにこやかに笑った。それと同時に清さんが言った。

「はあ、、、姉ちゃんが笑った。わらう怪物だ。」


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