未来

 わたしは2ヶ月にいっぺん、「障害年金」というものをいただいている。

 まあ詳しくはググっていただくとして、障害年金というのは簡単にいうと「病気や障害で働けない人がもらえる年金」である。

 それで、1ヶ月あたりおよそ7万円程度のお金をいただく。つまり2ヶ月まとめて14万ほどだ。これが生きていく最低ライン、ということなのだろう。


 そこから、秋田県で暮らすにはぜったいに必要である自動車のサブスク代を月2万円(まあわたしは運転免許を取れないことが想定されるので、そのぶん家族の運転であちらこちら連れていってもらっている)と、自分のお小遣いを出している。

 とにかく障害年金というもののおかげで、本を買ったり、ニンテンドースイッチオンラインに加入したり、猫氏の医療費を出すことができる。


 たぶん読んでいる人は、「国からもらってる金でゲームとか本とかの娯楽を買うな、生活費に使って寝ていろ」と思うだろう。わたしだってそりゃそうだろうなと思う。

 でもお年寄りが年金の入ったタイミングで大きな買い物をするのを咎める人はいない。要するにわたしは日本という国において、「お年寄りと同じく働けない人間」という扱いなのである。


 病人にだってやりたいゲームや読みたい本があるのだ。だれでも風邪をひいてやることがなくなり、仕方なく漫画を読みまくったとかゲームをずっとやっていたとかそういう経験はあると思うのだ。

 病人にだってそれなりの欲望はある。欲しいものだってある。それを手に入れるのはそんなに悪いことだろうか。


 なんでこんなことを書いているのかというと、そもそも障害年金で買い物するときの、悪いことをしている、という気持ちがつらいからである。


 障害年金をもらえるようになるまで、わたしは月5000円の小遣いをやりくりして漫画やライトノベルを買っていた。だから大判ラノベには挑戦できなかったし、面白そうな作品を見つけても仕方なくスルーすることもあった。


 欲しいものが自由に、いやメンタル的に自由というほど自由ではないが、人並みに買えるようになった嬉しさを、どう説明したらいいだろう。

 ただ家からお小遣いをもらっていた生活から、家のために使ってもらえるお金が渡せるようになったのがどれだけ嬉しかったか、どう説明したらいいだろう。


 なんというか、「やっと穀潰しでなくなった」というのが、障害年金をもらえたときに思ったことだった。わたしは高校にまともに通えなくなったころから、自分を「穀潰し」だと思っていたのだ。


 その「穀潰し」という言葉の激しさもわからず、わたしは自分を「穀潰し」と定義していた。学校に行きもせずかといって働きもせず、完全なるニートだ。それはわたしの想像する「穀潰し」以外のなにものでもない。家にいてもなにもしないのだから自宅警備員ですらない。


 創作活動ができなくなり、読書すらできなくなったときは、本当になんのために生きているのかわからなかった。死んだら楽になるのかな、とも思ったが死んだら死ぬだけだ、楽になったなんて思わないだろう。


 とりあえず死なないでいまここにいるから、障害年金をいただいて、また読めるようになった本を買うことができるようになった。たまにはゲームも買うし、錆喰いビスコがアニメ化されたときはいままで買うことなど考えたこともなかったアニメのDVDを買った。


 国からもらったお金で欲しいものを買うのは心苦しい。悪いことをしている、という気分になる。でも医者は働くなというのだ、大半は貯金に回すにしてもいくらか欲しいものを買ったっていいはずだ。


 わたしだってできることなら初任給で家族とおいしいものを食べるとか、ボーナスででっかい買い物をするとか、そういうことをしたかった。


 人並みの人生を送りたかった、とずっと思っている。結婚し、子供を育て、大人相応の責任を負いたかった。

 だから人間の子供ほどではないが、家族として一緒に暮らしている猫に関する諸々の責任を背負わせてもらえているのはありがたいことなのだと思う。まあ獣医さんまでは運転してもらわないと行けないのだが。


 わたしは「人生エンジョイ勢」である。毎日それなりに楽しく過ごして、その代わり結婚もせず子供も持たず、社会的に大きなな責任をもつことはない。

 だからフェイスブックで同級生の「人生ガチ勢」の投稿を見るたびに、子供がいるって大変そうだなあ、とか、仕事が大変そうだなあ、とか、まるで「観る将」がプロ棋士の対局を見るように見ている。


 でもなりたくて人生エンジョイ勢になったわけではないのだということははっきりと言っておく。

 病気になるよりずっと前、幼いころは、他の子供がそうであったように結婚に憧れてみたりもしたのだ。

 中学1年生のころは市内にある近隣最大の進学校に憧れもしたのだ。そこから大学に行ってなにかすごい人になるのにも憧れたのだ。なにかすごい人、というのがそもそもバカっぽいのだが。


 たぶんわたしは死んで床のシミになるのだろう。父も母も猫もおそらくわたしより早く死ぬ。わたしには看取ってくれる人がいない。

 それでももう少し幸せになりたい、と、そう願うのはいけないことなのだろうか。なんとか、人らしく生きていきたい。(おわり)

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病気に人生を壊された話 金澤流都 @kanezya

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