最終話 夜の月

 そのままで構わないだの、城の湯殿を使えばいいだのという諸々の申し出を断った私は、ヴァルトと連れ立って自宅へ戻り、急いで湯浴みをして身支度を整えた。

 その間、ヴァルトもお父様と二人きりで何やら話し込んでいる様子だった。


 コンコンコン


 応接室の扉を軽くノックする。


「お待たせしました」


「ルゥ!」


 ヴァルトが立ち上がって出迎えてくれる。

 数年ぶりに再会した恋人のようにきつく抱きしめられてドキドキと鼓動を跳ねさせながらも、腰を抱かれて隣に立った。


「それではデートに行ってくる」


「——ラグナ様、娘をくれぐれもよろしくお願いいたします」


「ああ、案ずるな」


 ヴァルトは深く頭を下げるお父様に軽く手を振ると、私を連れて屋敷を出た。


「どこに行くんですか?」


「さて、どこに行くかな。何しろデートというもの自体初めてだからな」


 向かい合って馬車の座席に座り、ヴァルトは楽しそうに笑う。

 こんなに見目もよく自信に満ちたヴァルトが、この歳になるまでデートもしたことがないとは驚きだ。


「そうだな……。折角だ、ルゥの好きな場所へ行ってみたい」


「えっ! 私、ご紹介できるような面白い場所なんて知りませんよ? よく行くのも雑貨店や手芸店など、ヴァルト様が行っても楽しめないようなお店ばかりかと……」


「ルゥの好きなものを見てみたいんだ。俺に合わせる必要はない」


 そう言われてしまえばそれ以上断るのもためらわれ、結局私は行きつけの可愛らしい雑貨店へとヴァルトを案内するのだった。




 実際に街へ出てみれば、春先という時期も相まって街のあちらこちらで春めいた色合いの新商品が売られている。


「あ! あそこのお店も見ていいですか?」


 自分にとっても初めてのデートだということも忘れ、つい買い物に夢中になってしまう。

 片時も離れずしっかりと私の腰を抱いているヴァルトは、しかし私の行動を制限することなく。女性しか入らないような可愛らしい店ばかり連れ回されたというのに、終始楽しそうな様子で買い物に付き合ってくれた。



 ヴァルトがおすすめだと言う店でディナーを終えて、ションボリとしてしまったヴァルトと共に店を出る。


 なんでも今朝のように私を膝に乗せて食事をしたかったらしく、ランチでそれが叶わなかったのは人目があったせいだろうと、ディナーではわざわざ個室のあるこの店に来たらしい。

 「初デートでそんなことできません」と断ると軽い押し問答になり、結局「ちゃんと婚約してからなら……」との言質を取られてしまった。


「ヴァルト様、ごちそうさまでした。……すっかり暗くなっちゃいましたね」


 そろそろ帰る頃合いだろうか。

 群青を深めていく空を見上げる。


「そうだな……」


 ヴァルトが肩を落としたまま相槌を打つ。

 そんなに落ち込まれると、私が我が儘を言って困らせたかのような罪悪感が……。


「あ! ヴァルト様、最後にもう一ヶ所だけ寄ってもいいですか?」


「ああ、勿論」


 ヴァルトを連れてきたのは、高台にある見晴らしのいい噴水広場。

 昼間であれば子ども達の多く遊び回るそこも、夜には人気もなく真っ暗で、静かに噴水の水の落ちる音だけをさせている。


「ほら、ここです!」


 広場の端にある腰までの高さの鉄柵から身を乗り出す。

 明るい時間には街が一望できてそれも綺麗なのだけれど、自分は夜の景色の方が好きだ。


 空の闇と街の影とが溶け合って、空と地の境界が曖昧になる。

 真っ暗な街には点々と店や民家の明かりが見え、高く月を掲げる夜空には無数の星々が瞬いて、手を伸ばせば触れられそうに見える。


「綺麗ですよね……。まるで、月明の翼竜様が舞う夜みたい……」


 うっとりと星空を眺めて呟く。

 ちょっとした悩みや悲しみはすべてこの景色が包み込んでくれる気がして、落ち込んだ時などはよくここを訪れていた。


「月明の?」


「はい……私、月明の翼竜様のお話が大好きなんです」


 この国の人間であれば誰でも知っているようなおとぎ話だ。

 子どもっぽい趣味だと思われてしまうだろうか。でも、ヴァルトなら馬鹿にすることはないだろうと思えた。


「なんだ、ならば話は早いな」


「?」


「イグスノーと約束したんだ。すべてを受け入れられることが条件だと。そうでなくとも隠すつもりはなかったが……よく見ていてくれ」


 そう言って私から離れたヴァルトは、あろうことか衣服をぽいぽいと脱ぎ捨てながら広場の中央へと進んでいく。


「えっ! ヴァルト様……っ!?」


こんな場所で何を!?

あっ、それ以上は! ダメっ、そんなところまで!? でも、見ていてくれって頼まれたから……!


 両手で顔を覆い、指の隙間からまじまじとヴァルトを見つめる。


 ヴァルトが上着を脱ぎ、中のシャツまでも脱ぎ捨てると、筋肉を隆起させた背中があらわになった。

 下衣に手がかかり、月明かりの下で引き締まった臀部が見えかけた——瞬間。


 ズゥンという地響きを伴って、自分の上に大きな影が落ちた。


「……?」


 視界が暗い。

 顔を覆っていた手を下ろし、前を——上を見上げる。


「…………」


 人間、驚きすぎると悲鳴さえ出なくなるものなのか。そんなことを考えて意識が現実逃避を試みる。


 ——月明の翼竜。


 目の前にあるのは、いつか絵本で見た白銀の巨躯。一点の曇りもない清らな白銀の鱗は、夜の闇に淡く発光して見える。

 私の頭の高さが、胸の位置くらいだろうか。四本の脚を地につけ、どっしりとした身体を広場に据わらせている。


 呆然と見上げていると、高い位置にあった首が真横へと下りてきた。幸い口は閉じられているので、すぐさま捕食される様子はなさそうだ。


 鼻先を寄せ、思いの外つぶらな紅玉の瞳を数度瞬き、竜は私を映す。

 その温かな瞳の紅に、どこか見覚えのある気がした。


「……ヴァルト、様?」


 平素であればそんな考えは浮かばなかっただろう。目の前の竜が、知己の人物だなどと。

 動転していたのだ。

 驚きの悲鳴も上げられず身体を硬直させたまま、頭の中だけが目まぐるしく回転し続けるほどには。


 そしてその突拍子もない問いかけに、竜は確かにグンと頷いた。


「クィロロロロロロロ……」


 喉奥を震わせ、天に向かって甲高く声を発する。

 両翼を広げバサリと宙に舞い上がると、私が見ていること確認するかのようにしばしその場で羽ばたいた後、向きを変えて一息に上昇を始めた。


 宵闇の空に、高く、高く昇っていく。


 その身体は白銀に輝いて、宵闇の中どんなに遠く離れても見失うことはない。

 そして遥か上空へと到達すると、くるりと一回転し、今度は右翼を中心に旋回しながら、螺旋を描くようにゆっくりと下降してくる。


 宵闇の空を、円を描いて舞う白銀の姿はまるで……。


「月みたい……」


 しかし竜は月にはならず段々と高度を下げて、最後には再びズゥンと大地を揺らし私の前に降り立った。


「ヴァルト様……?」


 その輝きに誘われるように手を伸ばして、一歩踏み出す。

 広げられた両翼が、抱きしめるようにそっと私を包んで閉じ込めた。


 おそるおそる腕を広げ、ぴたりと巨躯に抱きつく。


 温かい……。

 つるつるとした鱗に頬を寄せて目を閉じ、ゆっくりと力強い鼓動に耳を澄ませていると、ヒュンッと一瞬にして抱きしめていた体積が萎んだ。


「ルゥ、見ていてくれたか?」


「……はい」


 突然の変身にバランスを崩しかけた私を、しっかりと抱きとめてくれる力強い腕。

 頬に触れる厚い胸板、頭上から降る低音。


「俺は竜人。月明の翼竜と呼ばれた竜の末裔だ。……ルゥ、俺を知ってどう思う?」


「ふふっ。びっくりしました、……とっても。でも、すごく綺麗でしたよ」


 思考に感情が追いついてくると、あまりの驚きになぜだか笑いがこぼれた。

 驚いたけれどほとんど恐怖を感じなかったのは、憧れの翼竜に似ていたということ以上に、安心できるヴァルトの気配があったからだろう。


「ルゥ、愛している。愛らしい仕草も、心のままに変わる表情も、このやわらかな髪の一本まで。——側にいるためなら、何だってしてみせる」


ヴァルトは私を抱きしめたまま、髪を一房すくい上げて口付けを落とす。


「結婚してくれ、俺と」


「……ええ、喜んで」


 宵闇の中、月の光だけが二人を優しく照らす。


 抱き合うヴァルトの一糸纏わぬ姿に気付いた私が悲鳴を上げるのは、もう間もなくの話——。






「番は魂の半分だから、手に入らなければ心が死んで廃人になるか、狂人になるかわからないですって!?」


「可能性の話だ」


「あの大きさの竜が狂暴化したら一大事じゃないですか!」


「ルゥは俺を受け入れてくれたのだから、もう何も問題ない」


「そん——っ」


 そんな大事な話をなぜ黙っていたのか!!


 二人きりの馬車の中、続く反論は深い口付けに飲み込まれた。



   —— 完 ——

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運命のツガイに選ばれたので、お互いを知るところから始めます 南田 此仁 @nandakonohito

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