第33話 閑話:逃げ出した男(葵屋 風河視点)
「よいか
「分かっています、父上。この度は大変ご迷惑をおかけいたしました」
隣に座る父の
「せっかく
「……反省しております」
「もう十四になるというのに、未だ堪え性の足りぬ未熟者め。多少の無理を言われたくらいでなんだ。機転を利かせ、機転を。真面目なのは悪いことではないが、四角四面で融通の利かぬ奴など商売人としては少しも面白味がないわ。そんな石頭のままでは先が思いやられる。これでは到底、後継候補になぞ残れるはずもない。一から勉強のしなおしだ」
「すみません……」
風河と父の桂秋は王城の西門にある商談室の一室で、
桂夏に紹介された仕事というのは、彼が副院長を務める医薬院で、桂夏が不在のたった一日だけ、桂夏の上司で医薬院長を務める白蓮様の侍従見習いをするというものだ。それでなくても人手不足のところに、偶然が重なって特に人手が薄くなってしまい、いよいよ手が回りきらなくなったらしい。
そもそもが急ごしらえの役割だ。最初から大した仕事は求められていない。茶を淹れたり荷物を持ったり書類を届けたりと、とにかく頼まれた手伝いをすればいいからと言われて、元々医薬院に興味のあった風河はこの話を引き受けた。
だから風河も望んで逃げ出したわけではなかった。それどころか医薬院やその院長の仕事を間近で見られるまたとない貴重な機会だ。内心では何でも吸収してやろうと意気込んで、喜び勇んで出仕したのである。医薬院長の白蓮様が非常に厳しくて恐ろしい、そして驚くような美貌の持ち主だという噂は、薬種界隈ではもはや冗談の種になる程有名な話だ。だから風河だって相応の覚悟をして仕事を引き受けたのである。
しかし現実はそう甘くなかった。風河には自分がそれなりに甘やかされて育った自覚はある。しかしそれを差し引いても白蓮様の元で働くのは厳しいものだった。
そもそも多忙過ぎる白蓮様には、侍従見習いになぞいちいち指示をだしている暇がない。だから風河は自分で考えて動かなければならなかったのだが、もうそこからつまずいてしまった。普段ならばもう少しは上手く立ち回れたかもしれない。しかし勝手のよく分からない不慣れな場所で、出仕して早々に粗相をしては申し訳ないなどと色々考えてしまって、風河は余計に身動きできなくなってしまったのである。
白蓮は白蓮で指示をだす暇がないどころか、おちおち自席に座っている時間もない。早朝から会議や回診などの用事がこれでもかと詰め込まれ、王城中を縦横無尽に駆け回る忙しさだ。風河では半日の予定を把握するのも覚束なかった。
実際に働いてみるまで、風河は何となく院長というのは院内で一番偉いのだし、一日中豪華な椅子に踏ん反り返って座り、あれこれと指示をだしているのだろうと思っていた。しかし現実は全く違う。院長は院内の誰よりも忙しく働き、難しい案件をこなし、厳しい判断を求められる仕事だった。
会議に同席させてもらっても、風河には内容がちんぷんかんぷんだ。もちろん実家が薬種問屋だから薬種に関する専門用語は分かる。しかしそもそも現場が処理できるような案件は院長のところまで回ってこない。白蓮が対応するのはもっと大上段の内容だ。院間の折衝、資金調達の調整、案件の根回し、新しい
それだけでももう目が回りそうなのに、さらには必死に後をついて回る途中で頼まれてもいない資料を求められ、言葉少ななよく分からない指示をされ、上手くできないと叱られるというのを繰り返す。最後にはようやくこちらを向いた白蓮に、邪魔だから執務室に戻っているようにと戦力外通告をされ、風河の張り詰めていた糸はぷちんと切れた。執務室に戻る途中で道を逸れ、そのまま遁走して気がつくと家の玄関の前にいたのである。あとは桂秋の小言の通りだ。
風河にこのような例外的な仕事の話が回ってきたのは家業が影響している。風河の実家は王都で一二を争う薬種問屋の大店なのだ。もちろん王城の医薬院とは代々取引があり、医薬院は最も商いの大きい大得意先でもある。
しかし家業の薬種問屋と医薬院は、ただ一方的な買う買われるという関係ではなかった。他国ではそういうところもあると聞くが、少なくとも天虹国では違う。医薬院の方も大陸全土に購買網を持つ薬種問屋なくしては仕事が成り立たないため、両者は持ちつ持たれつの関係だ。それは長い歴史をかけて先祖代々が築いてきた資産でもある。
実際、父桂秋の弟で叔父の桂夏は医薬院の副院長を勤めている。それ自体は縁故採用などではなく、純粋に登用試験を受けて桂夏が出世した結果だが、やはり身内が副院長を務めているというのは強い。その例が今回の仕事で、こういう外には出回らないような頼まれ事に優先的に声がかかったりする。
もちろん桂夏の手腕でもある。風河には叔父の桂夏はどこかぼんやりして風采の上がらない人物のように思えるのだが、実際は相当な切れ者らしい。父の桂秋によると彼は商売に興味がないというだけで、頭の良さは一族随一だそうだ。もし真剣に後継を争っていたら、自分は絶対に当主にはなれなかっただろうと桂秋は事あるごとに話す。
だから今回の風河の失態が、直接家業の商売に影響するような心配はなかった。双方の商売関係は利害が複雑に絡み合った堅固なもので、父の桂秋も白蓮様とは個人的なやり取りもする仲だ。桂夏からも改めて心配はいらないと言われている。謝罪の日程が五日後になったのは単なる仕事の都合だった。毎年春先は新ものの薬草が出回る時期で双方年一番の繁忙期なのだ。むしろそんな中にも関わらず、わざわざ謝罪のために時間を融通してもらえたのだから、むしろ関係は非常に良好といえた。
なのに桂秋の小言は止まらない。もちろん自分の失態だからしかたない。恥ずかしいけれどちゃんと謝罪もする。しかし風河からすれば、あんな仕事に対応しろと言う方が無茶な要求だと思った。きっと試されていたのだろうと今ならば分かる。はじめからできない仕事をさせられていたのだ。
風河にも自分がまだまだ半人前の未熟者なことは分かっている。しかし家庭教師たちの反応や試験の結果を見る限りでは、年の近い親戚の子供たちと比較して風河はかなり優秀な方だった。そんな自分がこなせなかったのだから、そもそもはじめからできるはずのない仕事だったのだ。
風河はそう考えて自分を納得させていた。だから桂秋の小言にも身が入らない。風河が止まることの知らない桂秋の小言を聞き流していると、扉の向こうの廊下の先から急かしい足音が聞こえてきた。
「──だ、後で使いを頼む」
「かしこまりました」
遠くからでもよく通るこの声は医薬院長の白蓮だろう。それが誰か若い相手と話しながら移動してくる。声の様子からして話し相手は自分と同年代のようだと風河は気がついた。そう思うと何だか気になってしまい自然と耳を澄ませる。
「先ほどの会議、議事録の清書を頼めるか?」
「承知しました。夕方の打合せ前に
「ふむ」
「
「それは少し様子を見よう。向こうでも何か策を立ててくるかもしれぬ」
「はい」
「そういえば、先ほど会議中に誰か訪ねて来ただろう?」
「
「外政局の副局長が? ああ、外遊受け入れの件か。全くこの多忙な時期に厄介な……」
「一応、私の方からも繁忙期だとお話は。ですがかなり粘られまして。最後は時間が空くまで待つとおっしゃるので、それでしたら午後からの
「はははっ、我陵にな。それで外政局は何と?」
「そこまでするほどではないと大変恐縮されて、慌ててお帰りになりました。折を見てまたお越しになると
「しかたがない、突然来られるよりは準備してこちらから会いに行った方がまだましだろう。後で手紙を届けてくれ」
「承知しました。外遊の件でしたら桂夏様にも同席なさいますよね? 予定表を見比べて候補日を探しておきます。ところで
「うむ、本当はな。是が非にも直接足を運んで調べたいところだ。その方が原因もより早く詳細に特定できるだろう。しかし残念ながらその日はすでに
「
「ああ、それだ。別に私でなくても構わぬ内容だ。しかしこの繁忙期だ、他に人手がおらぬ」
「他に……そういえば、医薬院
「学府長が? ああ、どうせこの時期はいつも研究材料の融通の話だろう。そうか……なるほどな。あやつに代役を頼めばいいか。知識は十分過ぎるほど持っているはずだし、たまには研究以外の仕事もした方がよかろう。軍兵員の猛者どもの間で揉まれれば、浮世離れした頭も多少は地に足がつく。澪、其方も中々悪知恵が働くな」
「いえいえ、お褒めいただくほどでは」
「では、土木院へも使いを頼む。おや、もう昼時か──」
二人が商談室の前に辿り着いた時、四の刻半を知らせる鐘が鳴りはじめた。白蓮に謝罪の時間は融通してもらえたが、繁忙期真っ只中のため昼時しか空いていなかった。
自分とさほど年の変わらない相手と白蓮の会話の内容に驚愕していたからだ。二人は早足で歩きながら何気なく話していたが、風河にはまるで外国の言葉を聞いているようにちんぷんかんぷんだった。それは半日で白蓮の元を逃げ出した時と同じだ。しかし同年代と思しき侍従は少しもためらうことなく、てきぱきと確認を済ませて手際よく頼まれ事を捌いていく。ただ指示を待っていただけの自分と比較して風河はその差に愕然とした。
「おや、桂夏はまだか?」
「そうでした! さっき伝令が駆け込んできまして。事故渋滞で馬車が足止めをされているそうで戻りが少し遅れると」
「そうか、さて葵屋とは──」
そこで白蓮が小さく舌打ちした。
「どうかなさいましたか?」
「せっかく葵屋に会うのだ、ついでに先ほどの仕入れの話もすればよかった」
「仕入れの話……ああ、台帳ですね? そういうこともあろうかと、ええっと……あった、あった。はい、ここに」
「中々気がきく、では行くか──」
白蓮が扉に手をかけると、侍従が慌てて引き止めた。
「白蓮様、少々お待ちをっ!」
「まだ何かあったか?」
「この後のことです、葵屋さんとの商談後の予定」
「後? 次は
「そうなんですけれど、商談後すぐですよね?」
「ああ、だが今回はちゃんと移動時間を確保してある。二度は遅刻せぬ」
「それはいいんです。でもそれだと白蓮様が
「昼餉? ああ、別に──」
「駄目ですっ! ちゃんと召し上がっていただかないと。今日は夜まで会議の予定が目白押しなんですよ。まさか忘れてないですよね、九の刻開始という人事院との鬼会議を」
「あー……」
「どうせ会議が終わった後は
「まあ……そう……なるかもしれぬな」
「絶対にそうなります。このままでは昼も夜も食事抜きになってしまいますよ。夕餉が酒と肴だけなんて体によくありません!」
「しかし……」
「
「は? 沈雨に? なぜ西門の警備長に」
「借りたんです、この商談室の隣の部屋を。医薬院の食堂のおばちゃんにも頼んであります」
「隣の部屋? 食堂のおばちゃん?」
「白蓮様の昼餉ですよ。お借りした隣の部屋に届けてくれるように頼んであります。すぐに食べられるものなの軽食ですが、商談が終わったら召し上がってください。私は一度、執務室に戻って用事を済ませてから直接財歳院に向かいます。財歳門のところで待合わせましょう」
「…………」
「いいですか、絶対ですよ? 相談したら沈雨さんも食堂のおばちゃんも喜んで協力してくれました。白蓮様はもっとお体に気をつけた方がいいというのが我々の総意です。桂夏様も葉周様も度々仰ってます。この繁忙期に倒れられて一番困るのは白蓮様なんですからね。いいですか、院長なのですから医者の不養生になっては示しがつきませんよ」
「……相分かった」
「必ずですからね!」
侍従は何度も念を押しながら立ち去った。一人扉の前に残った白蓮はしばらく無言で立っていたが、ふっと小さく笑うとそれから扉を押し開けた。
後日、この日の出来事が風河を大いに奮起させることになったのは言うまでもない。
<終>
・・・・・・・・
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
私、転生してもサラリーマンなんですが!?『天虹国お仕事日誌 : 身代わり編』 石田彗 @ishda-viu
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