第32話 閑話:真夜の来訪者(医薬院長 白蓮視点)

「お話が、よく解りかねるのですが……」


 白蓮にしては非常に珍しいことに、本当に今話された内容の意図が掴めず眉をひそめた。それを向かいに座る人物がほろ酔いの上機嫌で面白そうに眺めている。

 彼が手にしている玉杯も、惜しげもなく注がれた最上等の酒も、彼が手ずから携えて白蓮の執務室まで持ってきたものだ。無理を通して、突然こんな深夜に時間を都合してもらった礼だといって勧められ、断る理由もなく白蓮も杯を手にした。しかし注がれた酒は一向に減る気配がない。

 渡された玉杯が目の玉が飛びでるような高価な品だったからというわけではない。仕事以外には全くといって良いほど接点のない行政院長ぎょうせいいんちょう蓬藍ほうらんが、こんな深夜に突然訪ねてきた理由がさっぱり分からないからだ。


 普通に考えれば、深夜に突然行政院長が訪ねてくるなどかなり際どい状況だ。蓬藍は常に腹に一物どころか、四物も五物もあるような相手だからなおさらだ。

 だから予想される様々なことに備えて、だ仕事が残っているからとごねる侍従を強引に説得し、奥の私室に追いやってもいる。念には念を入れ、不用意に戻ってこれぬよう扉に執務室側から鍵もかけた。

 あの子には今夜も医薬院で過ごしてもらうことになるだろう。その代わりといってはなんだが、風呂を自由に使って構わないことにしてあるから、外に出られなくてもしばらく暇は潰せるはずだ。


 しかし幸いなことに、蓬藍自身が前置きしたように、そして少々饒舌すぎるほど上機嫌な彼の様子からも察せられるように、今夜彼が話そうとしている内容は、確かに私的な範疇の話題であり、そしてどうやら気の滅入る題でもないようだった。そんな白蓮の類推を後押しするように、蓬藍は手ずから酒と肴を携えて、こんな深夜にも関わらずたった一人の共しか連れずに、白蓮の執務室までやってきている。

 しかし肝心の蓬藍の話が一向に要領を得ないのだ。普段はほとんど無駄話をしない彼が、今夜に限って酒の手土産など持参して楽しそうに世間話などするから、余計に白蓮の調子は狂っている。


 それでなくても白蓮は、己と似過ぎているところがある、この年若い行政院長に苦手意識を持っていた。感情に左右されず、論理性を重視し、効率を求めるという方針は、実に現実的だし諸手を挙げて共感できることだ。それはそのまま白蓮の信条でもある。だから決して嫌いというわけではない。

 しかし蓬藍のそれと白蓮のそれは、重なる部分も大いにあるが、完全に同じというわけではなかった。どこかに決定的に異なる部分があって、それが微妙なずれだから余計気になってしまい、それで何となく居心地が悪くて蓬藍に近づくのを敬遠してしまうのである。

 それはおそらく白蓮と蓬藍がそれぞれ背負っているものの違いによる差だった。白蓮が背負っているのは医薬院だけだが、蓬藍の方は望むと望まざるとに関わらず、この国全体の命運をその背中に背負っているからだ。


 蓬藍は行政院長だが、同時に王位継承権を返上して臣籍降下したこの国の第二王子でもある。それも現皇太子は同母兄という文句なしの血統だ。この国では有事の際に臣籍降下した王族が復権できる制度があるから、表向きは臣下に降っていても、実際にはほとんど王族といって差し支えない存在だった。

 現に幼少時から聡明で神童ともいわれていた蓬藍を、今でも密かに次の皇帝にと推す者は多いと聞く。しかしだからこそ蓬藍は、数歳しか年の違わぬ実の兄との間に不毛な諍いを起こし、国政を乱すことを忌避し、成人前に自ら王位継承権を返上し臣籍降下してしまったという。

 それはまた、執政面で兄を支えるための口実でもあった。実際、仲の良い二人が両輪で治める天虹国は、近隣諸国の中でも群を抜いて安定した情勢を維持している。国の安定は主要産業の商業の繁栄につながり、お陰で天虹国は大陸屈指の商業大国となった。


 約束通りの時間に白蓮の元を訪れた蓬藍は、至極無難に天候の話からはじめた。そして急に、一体どこから聞きつけたのか、万霊丹の増産の件に触れた。澄ました顔で白蓮が内心ひやりとしていると、それを察したのかどうか蓬藍は話題を先日の朝議での斎峰との一件から、白蓮の新しい侍従のことに移した。

 年か髪の色か性別か、何かが蓬藍の関心をひいたらしく、ひとしきり普段の様子について尋ねられる。しかしひたすら仕事をこなすだけの日々だ。特段話すこともない。白蓮の素っ気ない相槌に飽きたのか、話はそこからさらに夏煌祭の準備に移り、昨年の課題点など恐ろしく的確な分析を披露する。そして次第に蓬藍が最近凝っているという、天虹国の古い祭礼や占などの国文化に関する研究に話は移っていった。


 天虹国にも一応神はいて、信仰もあり、祭礼もある。しかし宗教についてそれほど熱心な国民性というわけではない。それらは形式化して生活に融合し、季節の変わり目や人生の節目などを彩る要素になっている。祭礼に至っては商魂の逞しさと祭好きの国民性が相まって、近隣諸国も巻き込んだ一大商機と化している。しかし国全体がそれを容認していた。それで皆んなが楽しくて、儲かって、つつがなく過ごせるのならば、何の問題もないではないかと、天虹国民とはそういう国民なのだ。


 酒が入っているからか、あるいは研究者の素養があって、そういう話がさほど嫌いではない白蓮の相槌が的確なのか、蓬藍は興に乗ってさも楽しそうに話を続ける。祭礼儀式の変遷から、摩訶不思議な占いから、話は幸運や瑞兆の話に至り、古の時代にはそれらは人の姿を象っていたと信じられていたとか、実際にそういう記録があるだとか、幸運は追いかけると逃げるだとか、星とか諚とか命運で決まっていることもあるだとか、いよいよ嘘か本当かわからないような眉唾な話になってきて、白蓮は困惑した。

 白蓮とて別におごっているわけではないが、天虹国の医薬院長といえば、間違いなく大陸でも屈指の頭脳の持ち主にはいるはずだ。しかしそれが半刻も唸って、相手の話の目的に少しも見当がつかないのだから、もういい加減白旗を振るしかない。それで冒頭の一言になったというわけである。


「そうですよね、解りづらいですよねえ。私も、どうもなんとお伝えするのがよいのやら、色々と考えていたのですがね」


 蓬藍は盃を傾けながら困ったように微笑む。入り口には唯一伴ってきた近衛騎士の海星が立たっている。彼はこちらの話を聞いているのかいないのか、無表情を崩さずにお手本のような姿勢で正面を向いていた。


「決して言質をとりたいわけでは。ただ単純におっしゃりたいことがよくわからないのです。単刀直入にお尋ねする無粋をお許しいただきたい」


 白蓮が思い切って手の内を晒し単刀直入に尋ねると、蓬藍はちょっと考えた顔をした後、軽く肩を竦めて笑みを深くした。


「大丈夫ですよ、話はちゃんと済みましたから」

「は?」


 白蓮は瞳を瞬かせた。


「……済んだ、とは?」

「文字通りです、私が聞きたいことも話したいことも十分に」

「しかし……でしたら余計、私に齟齬があってはいけませんから。念のためもう一度ご要望を──」

「ないんです」

「ない?」


 白蓮は再び瞳を瞬いた。たっぷり五回は彼の美しい銀色の睫毛がふさふさと音をたてただろう。


「ないとは──」

「ないものはないのです。私からの要望など何も」


 さも当然のように言われて、一瞬納得しかけた白蓮は、しかしすぐに正気を取り戻して軽く首を振った。


「いや、そんなはずは。蓬藍殿がわざわざ単身訪ねてこられたのだ。何か内密の相談があったのでしょう? 何か私に協力して欲しいことがあったから、だから突然お越しになったはずだ」

「ああ、そういう意味では協力していただきたいことはあります」

「そうでしょうとも」

「何もなさらないでいただきたいのです」

「は?」

「ですから、特別なことは何もしないでいただきたいんです。先ほどお伺いした通りの普段の生活を続けていただきたい。それが私の要望です」

「それは一体、どういう……」

「普段の白蓮殿のまま、できる限りそのままで過これからもごしていていただきたいのです」

「それは……普通ではいられないようなことが、起こるということですか?」

「もしかしたら、もしかしたらですよ? これから多少、身辺が騒々しくなることがあるかもしれませ」


 蓬藍はちらりと閉じられた私室に続く扉を見ると、懐から扇を取りだして弄びはじめた。扇は彼がいつも持ち歩いている小道具だ。何かの時にふと打ち鳴らして人を黙らせたりする。大した音がするわけでもないのに、それが意外と効果的だから面白い。

 しかしどれほど注意深く観察してもその扱いに法則性はない。心理的な側面と全く連動していない。まさに白蓮のように、裏を読みすぎる輩を牽制し混乱させるための煙幕なのだろうと。今のように──。


「何もするなとは、騒がしくなっても傍観せよと?」

「傍観、とは少し違うでしょうか。白蓮殿は監視と観察の違いは分かりますか?」


 そういう言葉遊びが好きなあたり、本当に自分によく似ていると白蓮は思う。言葉の定義にこだわるのは学者の性だ。だからこんな時に煩わしいと思いつつも、決して嫌いではないので反射的に思考を巡らせてしまう。そして今の問いで、蓬藍の言いたいことに何となく察しがついた気がした。あくまでも何となくだが。


「医者は患者の観察が仕事のようなもの。それで患者が快方に向かうようなら見守り続ければよし、悪化するようなら治療をすればよし。つまり、その騒動に対しても同じような対処が必要だと?」

「概ねそんなところです。しかし判断の基準は、何度もお伝えしているようにあくまでも白蓮殿のいつものままで構いません。むしろ普段通りに、貴殿の思うままに行動していただきたいのです」

「私の思うままに? しかしそれは存外難しい。今のお話を聞いた後ではなおさらです」

「それは、私も申し訳ないと思っているのですよ。それも含めて色々と悩んだのですが、でもやっぱり貴殿のような方には、直接お伝えした方が良いだろうと思いましてね」

「騒がしい、とおっしゃるのはどの程度でしょうか」

「さてさて、それは私にも」


 蓬藍が肩を竦めたのを見て白蓮は黙りこんだ。蓬藍の話はわかったようでやっぱり全然わからない。能力を試されているのか、あるいはおちょくられているのではないかと疑う。しかしそんなことのために、あの多忙な行政院長が貴重な時間を浪費するとは到底思えなかった。

 だとすれば、やっぱり蓬藍の話を素直に信じるべきなのだろうか。しかし信じたところで何になるだろう。そのままでいてくれとは一体どういうことなのか。何も変える必要がないならば、わざわざそんなことを頼む必要もないわけで、やっぱり目的も理由は釈然としないままである。


「私にもわからないのですけれど、けれどですよ。もしも何か貴殿の身辺で気になることが起こって、頭脳労働ではなく武闘派の力が必要だと思うようなことがあれば、どんな些細なことでも構いません。すぐ海星に一報を」

「蓬藍殿の護衛騎士にですか? さすがにそれは大袈裟が過ぎるのでは……」

「いいえ、それでいいのです。そうして欲しいのです。それが私のお願いといえばお願いですね。本当にどんな些細なことでも構いません。例えば、そう……あの新しい侍従でもいい」


 蓬藍が少しも酔っていない目を細めた。


「例えば、その侍従が誰かに絡まれているとか、何か面倒事に巻き込まれてたとか、行方が知れないだとか、ご自身以外のとこでも構わないのです」


 侍従の話になって、白蓮は無意識に私室につながる扉に目をやる。そして先程から、蓬藍はいやにあの子のことを話題にする。二人の間に他に共通の話題がないからかもしれないが、それにしてもあの蓬藍が二度まで触れるのは気になる。

 次第に白蓮の中で、蓬藍の曖昧過ぎる話に少しづつ輪郭が立ちはじめる。背に腹は変えられなかったとはいえ、あの子が自分の元で働くことになった経緯には少々強引で後ろめたい事情がある。


「ご安心を、あの子自身には何の瑕疵もないこと。勿論あなたにもです」


 白蓮の一瞬の表情の緊張を読み取ったのかどうか、蓬藍は笑みを深くすると半開の扇で口元を隠した。


「先ほどもお話したでしょう? これはまさに命運だとか星の元だとか、そういう我々下々の者にも、もちろん当人同士にもどうしようもないことです」


 しばし熟考の後、白蓮は慎重に口を開いた。


「お返した方がよいならば──」

「返すも何も、そもそも私のものではありませんし、あくまでも例えの上でのことです。それにそれは貴殿の意向に逆らうことでしょう?」


 蓬藍の高貴な紫の瞳が正面から白蓮を見る。


「……」

「貴方が働かせたいと思うなら、ぜひそのままに」

「……」

「先程も申し上げたでしょう? 貴方に関しても侍従に関しても、に関しても、何も気にせずそのまま、ただいつも通りに過ごしていただければと。ただし」


 蓬藍はそこで言葉を切って、ぱちりと子気味よく扇を閉じた。一瞬で場の空気が変わった気がした。


「何か少しでも異変を感じたら、すぐ海星に連絡を。彼が捕まらなければ私でも構わない。あとはこちらでよしなに。それだけは必ず頼みます」


 にっこりとお手本のような微笑みを浮かべた蓬藍に真っ直ぐに言われて、白蓮は絶句した。言われた意味を理解するのに、たっぷり瞬き二つ分はかかっただろう。


「……まさかとは思いますが、あの子は蓬藍殿の、その……ご落胤などては……」

「ふふっ」


 それまで彫像のように動かなかった海星が吹きだした。


「海星、そこで笑うのはあんまりだろう」

「失礼」

「白蓮殿も私の年をご存知でしょう?」

「ええ、なので十分ありうるかと」

「ふはっ」

「海星!」


 蓬藍が叫ぶと、海星は口元を押さえて姿勢を正す。しかしその肩は微妙に震えている。蓬藍も、その蓬藍にいつも影のように付き添っている海星も、白蓮が思っていたよりも意外と冗談の分かる質らしい。


「せっかく、真面目な話をしていたのに。まあ、そういうことですから。白蓮殿もどうか頼みます」

「……はぁ」


 それで、結局白蓮は相変わらずさっぱり要領を得ないまま蓬藍との邂逅を追えた。去り際、相変わらず上機嫌の蓬藍は、あれも少々心配性の堅物というだけで悪い男ではないのですよと、今でも彼に決して王族としての礼を欠かさない斎峰をさりげなく擁護して白蓮の執務室を去っていった。

 見送りから戻ってきた白蓮は長椅子の横で立ち止まり、盛大な溜息をつく。美しい翡翠色の玉杯が二つ、卓の上に残されていた。己の迂闊さに腹がたつ。口止め料か、迷惑料か、あるいはその両方か。己の杯に残った酒を飲み干しながら、白蓮は今蓬藍が話していったことについて一人、夜空に瞬く星々を眺めながらしばらく考えていた。

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