第31話 閑話:察しのいい男(医薬院副院長 桂夏視点)

「おはよう、ござ──」


 医薬院長いやくいんちょうの執務室に入った僕は、目に飛び込んできた光景に驚いて足を止めたどれくらい異常だったかというと、公休日の朝まだ早い時間、医薬院長の白蓮先生が執務室で居眠りをする侍従に上掛けをかけていたのである。それだけでも青天の霹靂、天変地異の前触れだが、それもただかけていたのではない。口元にほんのりとだが慈愛溢れる微笑を浮かべて、羽が舞い落ちるようにそっと優しくかけていた。

 うっかり先生の微笑を目の当たりにした僕は、目を閉じてしばし呼吸を整える。相変わらず無駄に破壊力のある美貌だ。一緒に仕事をして長い僕だから、先生の美貌にはかなりの耐性がついているはずなのだが、それでも未だに不意打は堪える。


「──先生、ただいま戻りました。あの、これは誰でしょうか? 風河ふうが君の衣装を着ているようですが……」


 僕は忍び足で見知らぬ侍従が眠る長椅子に近づきながら、小声で先生に尋ねる。


「大義だったな、桂夏けいか


 僕の気配に気づくと先生は一瞬で微笑を消し去った。しかし静かな声には優しい労わりの気配が残っている。僕はそっと長椅子を覗き込み、健やかな寝息を立ててすやすやと眠る相手を手早く観察した。見たところ年は十五くらい。髪は天虹国では珍しい漆黒で肌は淡い象牙色。背は高くも低くもない。体型は全体的にほっそりとして華奢だ。

 顔立ちはというと、結構というかかなり可愛い。目を覚ませば人目を惹くだろうと思わせる寝顔だ。ただし、いい意味でも悪い意味でも特徴がなかった。普通は容姿を見ればある程度の国柄や家柄の想像がつくものだ。しかし彼女の外観からはそういう手がかりが一切得られない。よく観察しようともう一歩近づき、僕はさらに混乱した。


 この子、先生と同じ香りがする……?

 うーん……、これってどう解釈したらいいのかな。


 僕は腕を組んで脳みそをフル回転させる。先生と同じ香りがする、それはつまり先生と同じ香油を使っているということで。同じ香油を使うようになる状況など、この執務室の奥にある湯殿を使ったとしか考えられない。そして湯殿を使うような状況など、そうそうあるはずもなく。あるとすれば、それはそういう──。


 つまりは、うーん……そういうこと?

 いや……。いやいやいや、待って僕!!


 僕はちらりと横目で先生を見て、一瞬脳裏に浮かんだ邪な考えを振り払う。先生は筋金入りの人嫌いだ。自分が仕えてこの方、つまりは見習いの頃からの気が置けない仲である自分が知る限りでも、先生は他人に触れることも触れられることも異常に忌避している。一番身近にいる僕ですら、先生に本当の意味での恋人がいたことがあったのかどうか分からないほどだ。それから推察するに──。


 何らかの事情で風呂は貸したけど、同衾どうきんはしていない? きっとその辺りが正解だ。うーん、でもそれって……一体どんな状況? 僕の疑問は余計に深まった。


「会談はどうだった?」

「例年と変わりなく、無事に務めて参りました」

「そうか、大義だったな。明日は一日休むといい」

「ありがとうございます」


 僕は今朝早く、医薬院長である白蓮先生の名代みょうだいとして参加していた、市井の薬種組合やくしゅくみあいと年に一度行われる会合から戻ってきたところだ。

 内容はというと、会合とは名ばかりの懇親会である。例年、郊外にある温泉宿を貸し切って、二泊三日の泊りがけで盛大に行われる。宿に到着した初日の最初の一刻だけ会議があるが、その後は飲んで騒いで温泉に浸かっての大宴会だ。先生は毎年、何かと理由をつけてはこの役を僕に押し付ける。


 まあ、僕はこういうのそんなに嫌いじゃないからいいんだけど。知り合いも結構いるし。


 僕の方はこの役回りがそれほど嫌ではなかった。というのも僕の実家は王都で一二を争う薬種問屋なのだ。お陰で会合に参加すると知り合いにわんさか出会う。中には滅多に会う機会のない親戚なんかもいたりして、不義理を解消するいい機会になったりする。

 ところで、そんな家業を持つ僕がなぜ医薬院で働いているか気になるだろうか? 仕事で会う人にも度々尋ねられる質問だ。というのも伝統的に商業が盛んなこの国では、家業でも領地経営でも実力主義が基本。当然、僕の実家もその例にもれない。我が家の場合は当主の交代時期に、年齢の適した四親等以内の親族から実力によって指名される決まりだ。だから次男の僕にも十分に後継者資格がある。それは官吏になった今でも変わらないからだ。


 しかし僕の性格は商家の家風には馴染まなかった。どう売るかを考えるよりも、それを使って何ができるかを探求する方が好きなのだ。僕自身は早々にそういう自分の性格を悟っていたし、上には立派な兄もいる。それで僕は官吏見習いになれる十三の年になるとさっさと登用試験を受験し、そしてすんなり合格し、あっさり家名を捨てて、憧れだった医薬院で働きだしたのである。

 ちなみに家名を捨てるというのは比喩ではない。天虹国は官吏も実力主義が徹底されており、王城内では出自の尊卑に関係なく家名は名乗らない決まりだ。まあ、あくまでも登城している間のことだけだけだし、蓬藍ほうらん様のように自然に分かってしまうことも多いのだけど。


 だから白蓮先生とは登用試験に合格し、最初に寮で同室になった時からの付き合いだ。故に実は先生と僕はそれほど歳が違わない。僕が十三で先生が十五の時に出会ったから実質は二歳の差しかない。

 しかし出会った当時から、先生は先生としかいいようのない貫禄があった。実際に医術に関する知識も技術も探究心も飛び抜けていた。以来、僕は先生の医術に対する真摯な姿勢や、研究や知識への飽くなき探究心を尊敬している。

 結局、僕達はなんだかんだで同じ院に配属され、なんだかんだで一緒に仕事をするようになり、そしてなんだかんだで院長と副院長という関係になった。つまりはかなりの腐れ縁だ。だからこそ僕には先ほど目の当たりにした光景がいかにありえないものかがよく分かる。


 立ち話の流れで、会合の報告をしていると、僕たちの気配に気づいたのだろう。長椅子の眠りの君が飛び起きた。そして僕が引き止める間もなく、彼女は「ごめんなさい!」と大声で叫んで逃げていく。声を聞いた感じやっぱり少女のようだ。僕は片手を伸ばした体勢のまま半分閉まりかけた扉を見つめた。


 ああ、行ってしまった……。

 せっかく素晴らしい人材がいたと思ったのに。


 先生が見せてくれた、彼女が書いたという議事の控えや各種報告書、書類整理の状況、そして何より先生の彼女に対する様子を見る限り、彼女はこの医薬院に是非とも必要な人材だ。僕はぱたりと音を立てて閉まった扉から視線を戻して先生に尋ねる。


「ところで先生、澪君が僕の甥じゃないって、最初から気づいていましたね?」

「さて」

「名前をご存知だったじゃありませんか。名前を聞けば、さすがに僕の甥じゃないとわかりますよね?」

「そう……かもしれぬな」


 ふふふ、と先生が笑った。僕は急いで視線を逸らしあさっての方向を見て深呼吸する。


 ふう、今回は間に合った。


「いつからご存知だったんですか?」

「はて、あれは先の朝議の時か」

「では、ほとんど最初から知っていたじゃないですか」

「はははっ」


 非常に珍しいことに、先生が声を立てて笑う。


「どこの子かすぐに調べましょう。ぜひ医薬院に欲しい人材です」

「うむ。だがあれは官吏見習いなどではなかろうな。侍女か、いや下女かもしれぬ……」


 先生は顎の下に指を当てて軽く眉を寄せる。


「え、下女? まさか。だってあの議事の控えは澪君が書いたんですよね? そんな下女なんてことあるわけが……」

「桂夏、手を見たか?」

「え? 手?」

「あの子の手だ。面白い手をしていた。労働などしたことのないような華奢で皮膚の薄い手なのに肌だけが荒れている。あれは子供の頃から労働をしていた手ではない。何か事情があって最近、急に働くようになった手だ」

「ということは……元は家事労働をする必要がない出自だと? うーん、そうか。そういう可能性も無くはないですね」


 今度は僕が顎の下に指を当て眉を寄せる。黒髪黒目の組合せは東方出身に多い特徴だ。それと先生の手の話とを考え合わせると一つの可能性が見えてくる。先の戦で家を失った良家の子女ではないかということだ。あくまでも推測、可能性の話だ。しかしそう考えれば下女でありながら、あれほどの文官仕事ができるというのも納得できない話ではない。

 実はそういう話はままある。僕の実家は商家だから、商売の失敗や災害、戦火などで零落した家に頼まれて子女を雇うことがあるのだ。彼ら彼女たちは根性さえ続くなら、手厚く教育の基礎が施されているからいい商人になる素地がある。


「桂夏、戻って早々手間だが、休暇に入る前に人事院に行って澪のことを問い合わせてきてくれぬか?」

「畏まりました。でも澪君が官吏見習いでないとなると、医薬院では雇えませんね……」


 僕は肩を落とす。


「そうがっかりするな。私の個人的な侍従として買い上げれば問題なかろう。少々手間だが、札をつけさせれば院にも自由に出入りできるし仕事もさせられる」

「え……でも、よろしいのですか? 個人的な侍従を増やすとなると色々と、その面倒が……」

「桂夏はあの逸材、逃してもいいと思うのか?」

「いいえ、まさか! 喉から手が出るほど欲しいですよ! 医薬院が常に人手不足なのは先生も重々ご存知でしょう? 澪君を雇えれば、何も出来ない見習いを教育する手間と時間が大幅に省けます」


 それに先生とも上手くやれるなんて奇跡的……という続きを僕はぐっと飲み込む。医薬院は先生が院長に就任してから急激に役務を拡大している。そのため常に人員がぎりぎりの状態だ。今回のように各局の繁忙期と僕の出張、さらに普段先生の身の回りの世話を一手に引き受けている筆頭侍従に急用、今回の場合は親族の不幸などがあれば、あっという間に先生の補佐が手薄になってしまう。

 そのため急遽手配できる人材の中から、せめて何かの足しになればと思って甥の風河ふうがを置いてきたのだが、彼は半日足らずで尻尾を巻いて逃げ帰ってしまったらしい。風河にもいい薬になればと思ったが、予想以上の劇薬になったようだ。しかし思わぬ副産物を手に入れた。いや、手に入れようとしているか。

 

「ふむ、であろうな。まあようもそろそろいい年だ。屋敷と城を週に何度も往復させるのは酷だろう。丁度、一人侍従を増やしてもよいと思っていたところだ」


 葉というのは城外にある先生の屋敷の管理を含め、その他諸々一切合切を取り仕切る筆頭侍従である。灰色の髪を丁寧に撫で付けた物腰の柔らかい壮年の紳士なのだが、僕が十三の時に出会って以来、少しも見た目が変わらない。今も昔も壮年の紳士のままだ。しかしさすがの葉にも寄る年波があるらしい。


「そうですか、では遠慮なく」


 走り出そうとした僕の腕を、先生が掴んで引き止める。


「人事院に行くなら、ついでに届けて欲しい書類がある」


 僕は二、三歩たたらを踏みながら部屋の中を見回した。執務机の上にはすでに書類が乱雑に積み上げられているが、院長室は僕が危惧していたほどには部屋は荒れていないというかむしろ普段の惨状からすれば驚くほど綺麗に片付いている。おそらくは澪君とやらがまめに片付けていたのだろう。それだけでも実に得難い貴重な人材だ。


「……分かりました。先に少し書類を整理してから行きましょう」


 ふう、と僕は息をついた。


 それから一時ほど後、ようやく書類整理に目処をつけて人事院に向かった僕は、人事院長の執務室の扉の前で、何やら急ぎ足の近衛隊長の海星君と鉢合わせしたのだった。

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