第30話 お仕事は現実主義がモットー

 翌日、まだ日も昇らぬ薄闇の早朝。私は一人、東門の近くの茂みに佇んでいた。手には小さな風呂敷包みが一つ。懐には白蓮から渡された支度金の一部を納めた財布と、丁寧に折りたたんだ書類が数枚。衣装は結局叶わぬままだったが、かつて雪と城下町を散策しようと計画していた時に揃えた町娘の古着である。人事院での話し合いの後、準備のためにもう一晩下女寮で過ごすことになり、戻った際に着替えてきた。

 王城の東門ひがしもんは不夜城だ。一般の出入りに使用されるこの門は、城外に住む勤人達のお陰で昼夜問わず人の行き来がある。今も丁度、昼番と遅番の下働きたちが出退勤する時間帯で、早朝にも関わらず東に門にはすでに昼間のような活気があった。その様子を茂みの陰から眺めて、私は風呂敷包みを握り直す。


 これから何をしようとしているのか、自分でもよくわかっていた。よくわかったうえで、それでもしようとしているのだからしかたない。私はこれから散々迷惑をかけた人々に、さらにその恩を仇で返すような、不義理このうえないことをしようとしているのである。

 だから、白蓮から借りた衣装は丁寧に畳んで下女寮の寝台の上に置いてきたし、その隣には書置きと給与課の通帳と支度金の残りも置いてきた。白蓮が私を買い上げた時の金額が最終的にいくらになったのかはわからない。しかし当面の生活に必要な最低の金額を差し引いて、私が返せるものは全てあそこに残してきた。

 なぜなら私は今からこの王城をでて行き、そしてもう二度とここへは戻らないつもりだからだ。王城をでるのに一番の問題は城門の通行証だったが、それも白蓮に環札をつけられたことで必要なくなった。環札これがあれば王城への出入りは自由だそうだから、もっともらしい顔をしてこの混雑に紛れればそれほど苦労せずに外にでられるだろう。


 不義理もここに極まれりの厚顔無恥な蛮行。いつも私のことを気にかけ助けてくれた海星の、何処の馬の骨とも問わないまま仕事の腕を買って私を雇ってくれた白蓮の、そして迷惑をかけてきたその他全ての人達の信頼を、一方的に裏切る途轍もなく身勝手な所業だ。こんなことをすれば、後でいくら私が戻りたいと泣きついたって、彼らの方が顔も見たくないだろう。

 それに、あの事件から幾日も経たずに私が姿を眩ませれば、何か重大な関与をしていたのではないかと疑われもするはずだ。どの程度の捜査がされるかはわからないが、ますますこの王城に戻るのは難しい。


 ここを出てからどうするのかは、まだ何も決めていない。考えているのは、ただどこか誰も知らない遠い町に行って、静かに暮らしたいということだけだ。そこでただの一人の人間として、まるではじめからこの世界に生まれてきた人間のようにして、普通に生きて暮らして一生を終えたいとそう思っている。

 今の状況に何か不満があるわけでは決してない。むしろ何もかもが私には過ぎたものばかりで、思い返しても感謝しか思い浮かばない。できることならばあの日、慌ただしく白蓮の仕事をこなすあわいにふと思ったように、一日でも長くここで、改めて私を雇ってくれた白蓮の元で、変わらず働くことができたなら、どんなに幸だろうかと今だって心の底から思っている。

 白蓮の元で働いて、たとえどんなに忙しくて、書類が山積みになって、その書類に埋もれながら無理難題を求められようとも、それでもやっぱり白蓮の元で働いた日々は、とても充実していてとても楽しかった。働くということが自分にとって、こんな風に幸せや充足を感じさせてくれるものだとは、私はこれまでだって前の世界でずっと働いてきたはずなのに、この不自由な世界に来て、そして白蓮の元で働いて、はじめて知ったことだった。

 しかし私はここにはいられない。本当はいたいけど、いてはいけないのだ。大切な人たちが増えて、そして彼等に近づけば近づくほど、私は彼らを面倒事に巻き込んで、そして不幸にしてしまうから──。


 私は活気にあふれる東門から目を離し、篝火とわずかに残った月光に照らされて、足元に落ちる淡い己の影を見つめた。

 桂夏から説明されたあの一件の顛末に、私は一つも納得していない。あの夜、私が彼らから聞いたことと何もかもが矛盾しているのだから当然だ。桂夏や白蓮や海星だって、きっとあの説明が全て真実だとは思っていないだろう。

 もし沈雨の勘が正しいならば、少なくとも西門の入場記録に、あるいは退場に必要な書類一式に、痕跡を残さずに細工できる程度の大きな力は働いている。確かな証拠もなく、そういうところを無闇に突くのは得策ではないと、彼らは知っているから何もいわないだけだ。

 しかし何かがおかしいとは勘づきならがらも、そういう彼らでもあの一件の本当の狙いが何だったのかはわからないだろう。なぜ一介の下女である私が命を狙われなければならなかったのか、なぜわざわざ馬車で城外に連れださなければならなかったのか、その本当の理由を知っているのはこの世界で唯一、私だけだ。私だけが自分が攫われ、あのような目にあわなければならなかった本当の理由を知っている。


 簡単だ、私が転生者だからだ。彼らの言葉でいうところの渡人わたりびとだから、私は命を狙われたのだ。だから雪を取りこんだ誰かは、わざわざ半年も彼女を私の近くに潜ませて、こんな手の込んだことを何度も何度も仕掛けようとしていた。

 それは私の存在が、彼らにとってそんな手間暇をかけてでも、どうして手に入れたい魅力的なものだったからではない。実際のところ、私に何か素晴らしいチート能力があって、長年彼らを悩ませる難問をささっと解決してあげられるわけでもないのだ。もし仮にそうであれば、決してあんな殺され方をするような目にあうはずがないのだ。


 だから反対なのだ。私は彼らにとって疎ましい存在なのである。この国の中枢に関わる人々にとって、私の存在は不都合なもの、むべき災事なのだ。あの激しく揺れる馬車の中で閃き考えていたことが、今も熾火おきびのようにじりじりと私を苛んでいる。だからこそ彼らはわざわざ私を遠くへ連れていき、秘密裏に処理するというようななまどろっこしいことをしたのだ。

 今回の件では私は運良く助かった。怪我も軽傷で傷痕もほとんどない。しかしここにいる限り私は命を狙われ続けるだろう。私が転生者であると気づいた誰かによって、私は彼らの望む結末に到るまで狙われ追われ続ける。それに──。


 ざわざわと小波さざなみを立て続ける胸に手を当てて、私はそっと目を閉じた。ここで半年も過ごしたはずなのに、それなりに楽しいこともあったはずなのに、良いことも悪いことも思いだすのは、白蓮に勘違いをされてからのここ数日のできごとばかりだ。瞼の裏に鮮やかによみがえるそれらがどこか滲んでいるのは、私が泣いているからだろうか。

 深呼吸をして手の甲でごしごしと目元を拭う。もし私がここに居続れば、私は私の近くにいる人達を不幸にしてしまう。色々な面倒事に巻きこんで迷惑をかけてしまう。それがこの世界に転生した私の宿命であり業なのだ。

 でも私は、私に関わる人々を不幸にはしたくない。これ以上迷惑をかけたり、面倒事に巻きこんだり、辛い目に合わせたりしたくない。雪みたいな目には、もう絶対に誰にもあってほしくない。

 本当は……、私は再び目元を擦った。私だってずっとここにいたい。心の底からそう願っている。だってだって、何もないと思っていたここには仕事もあって、住む場所もあって、いつの間にか何の見返りもないのに窮地を助けにきてくれるような知人も友人もいるのだから──。この世界での私の全ては今はここにある。ここにいたらそんな彼らに囲まれて、白蓮に雇われて、きっとものすごく忙しくて、大変で、それでいて充実した日々がはじまるのだろう。ここにはそういう素敵な予感しかしない。


 けれど、自分の存在が少しずつ蝕むようにそんな大切な彼らを不幸にしているのだという事実を突きつけられ、目の当たりにしながら生きていくのは、辛すぎて私には到底耐えられそうにない。

 だからこそ私は、今朝、ここを発たなければならないのだ。一日、一刻、一瞬、ここで過ごす時間が長引いた分だけ、別れが辛くなってしまう。だからこれからの全てがはじまる前の今この時、私はここを発つ。そうしてここから、またこの世界での私の新しい物語を作ってゆくのだ。異世界転生したって普通に生きて暮らして静かに死ねる、そういう一生が過ごせるのだということを証明してみせる。

  大丈夫、一度経験したことだ。勝手のわかった二度目は、水さえ汲めなかった一度目よりはずっとずっと容易にできる。だから大丈夫と私は自分に言い聞かせ顔をあげた。前を向き、荷物を持ち直し、煌々と明かりの灯る東門に向かって歩きだす。


「医薬院はこちらだが」


 その時、天上の楽の音が降ってきた。早朝の薄闇に溶けこむように静かな声だった。息をのみ、機械仕掛けの人形のようにぎこちなく振り返る。真後ろに白蓮がいた。わずかに朝日が昇りはじめた薄青い時の中、天界の匠が彫りだした神の似姿としか思えぬ美しい姿が、気紛れで降臨したかのようにふらりと立ち静かに私を見つめていた。

 衣装は昨夜、弦邑の執務室で別れた時のままだ。しかし肩には袖を通さずに羊毛の長衣をひっかけ、昼間は必ず結う髪も解いている。しばらく側で勤めていたからよくわかる。つい今さっきまで自室で寛いでいたというようなそんな姿だった。


「其方は重度の方向音痴らしいな、医薬院はあちらだ」


 もう一度静かな声でそういうと、白蓮は胸の前で組んだ腕から片方の指先だけをあげて前宮の奥の方を指差した。


「は……は、白蓮様……なぜ、ここに……」


 白蓮の名前を口にした途端、私は急に膝から力が抜けて、よろよろと近くの幹に縋りついた。そんな私を前にして、白蓮は怒っても笑っても泣いてもいない静かな顔で、長衣の裾をなびかせ相変わらず超然とそこに立っている。


「朝の散策だ」

「さん、さく……?」


 次第に角度をあげる朝光を浴びて、白蓮の肩を流れる銀髪が水面のようにきらめきを反射している。まるで写真加工のエフェクトのようだ。私は呆然と目前に降臨した神を見あげた。

 

「でも……」

「引越しの荷物はそれだけか? 病みあがりだろう、どれ私が持ってやろう」

「あっ」


 返事をする前に、さっと腕を伸ばした白蓮に提げていた風呂敷包みを取りあげられた。白蓮は重さを確かめるように二、三度包みを上下させると目を細める。


「白蓮様……」

「念のため、忘れ物がないか確認した方がよさそうだ。後で新しい下女頭に使いをだそう」

「なぜ……どうして、ここに……」


 私はずるずると幹を伝ってしゃがみこみながら、何とかそれだけを絞りだした。


「言ったであろう、朝の散策だ。日課でな」

「そんな……」


 私は膝に乗せた両腕に顔を埋めるくぐもった声をだす。


「明日の予定に返事をしなかった」

「予定……?」

「昨晩、弦の部屋でだ。祭礼局さいれいきょくに行けといっただろう、前髪が気にいらぬから」

「祭礼局……」

「普段は律儀な其方が、その時だけ返事をしなかった。それで日課の散歩にきた、それだけだ。下女が城門を行き来して一番怪しまれないのは、この時間帯だろうからな」


 正面に立つ白蓮がじっと私を見つめる。つむじがぴりぴり痛いから絶対にそうだ。


「帰るぞ、医薬院に」


 私は顔を埋めたまま頭を振った。


「……帰れない、行ってはいけないんです」

「何故だ」

「上手く、説明できないけど」


 私は鼻をすすった。


「けど?」

「頭のおかしい娘の妄想だって、笑ってく……ださい」

「いいから、理由をいいなさい」


 私は再び鼻をすする。


「わたしが……私が、近くにいると……皆んなに迷惑をかけてしまうから。うぅ……大切な人を皆んな、ふ、ふこうに……不幸にしてしまうからです!」


 言葉にすると悲しくて涙が止まらなくなった。


「は?」

「だから、行けないの……行っちゃいけないの。私と一緒にいると面倒事に巻きこんで、皆んなを……不幸にしちゃうから。だから、うぅ……い、色々な災難が起こって、ひっく……迷惑をかけて……」

「不幸? 災難? それが其方とどう関係する?」

「だから、いったじゃないですか、上手く説明できないって! 私にだってよくわからないし、どうしようもないんです!そういう星の元に生まれているとか、神様に決められているとか、そういう次元の話なんですから!!」

「……つまり、仕組みは不明だが、其方の近くにいると周りの者が不幸になると、そういうことか?」


 私は両腕に顔を埋めたままぶんぶんと頭を上下に振った。

 しばらく何の返答もなかった。

 いくら物好きの白蓮といえど、いい加減愛想を尽かして立ち去ったのだろう。

 そう思ってそっと顔をあげると、しかし白蓮はまだそこに立っていた。立って片手で顔を覆い、片手で腹を抑えていた。何をしているのかと見ていると、次第に肩が震えだす。


「ふっ……はは、あははっ」


 堪えきれぬという風に、白蓮は盛大に吹きだした。


「星だとか神だとか、そんな非論理的な話があるか。ふふっ、あはっ、傑作だ。最近聞いた中では随一の冗談だ。一体どこの誰にそんな法螺話を吹きこまれてきた? 人が必ず誰かを不幸にするだって? ふふっ、一体全体どんな因果関係があってそうなるんだ。不幸とは何を基準にして不幸なんだ? 親しい相手はどう定義する? 偶然隣にいた人間はどうなるんだ? 誰かが不幸になったおかげで幸運が巡ってきた奴は、どう考えると? ……ふう、まったく」


 白蓮は一息に話すと、さもおかしいという風に目元の涙を拭う。そして裾を払うと私の前に屈み込んだ。魔書面から視線が合い、私は彼の美貌の洗礼を受ける。酒を飲んでも、大笑いしても、ちょっと疲れていても、相変わらず美しい顔だ。

 整いすぎていて無表情でいると冷たく感じるが、大笑いの余韻で目元を笑ませた今は、まるでどこかの秘仏の彌勒菩薩像かのように仄かな慈愛を滲ませていた。そんな顔で、そんな目で、なんでもお見通しだという風に見つめるのは反則だし犯罪だ。涙を堪えろという方が無理なのだ。私の目からは瞬きするたび大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。


「そもそも、其方の話は前提が破錠している」

「……前提?」

「そうだ」


 白蓮は聞き分けのない子供に噛んで含めるように頷く。


「その面倒事に巻きこまれたお陰で、働き者の侍従を捕まえた幸運な上司がいるだろう、ここに」


 棚引く雲間から差しこむ朝日に照らされて、燦然と輝く銀の髪をなびかせた美神を、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった私がぽかんと見あげる。


「だから、其方の話は前提が破錠しているのだ。わかったか? それにだ、そもそも私には神だの星だの霊だのという、不確かなものを信ずるような奥ゆかしい趣味も暇もない。誰も見たことのない遥か昔の建国話や、存在したかも不確かな神々の話や、誰でも何かしらは当てはまる占いなど、知ったところで医術の発展には欠片も役立たぬからな」


 白蓮はまるで気紛れで地上に降臨した神仙のように神々しく麗しい姿で、神をも恐れぬことを平然とのたまう。神を信じるような奥ゆかしい趣味はない? 誰より何より自分が一番神っぽいのに何をいっているのだこの人は……。


「重要なことは、だ」


 私の目の前にしゃがんだ白蓮は、長い指先でぐちゃぐちゃになった私の頬を拭う。頬に触れた彼の指先は硬くかさついていて、そしてとても暖かかった。私は無意識に目を閉じて、その掌に頬をすり寄せた。


「私が其方の能力を認め、私の元で働いて欲しいと思った。その事実だけだろう」

「うぅ……は、い……」


 またぽろぽろと私の目から涙がこぼれる。白蓮はひとしきり私の涙を拭うと、乱れた前髪を払うように頭を撫でた。


「ほら、いい加減帰るぞ。朝議に遅刻する」


 裾を捌いて立ちあがり、私から取りあげた荷物を持ち直す。そしてもう片方の手を私向けて差しだした。つられた私は何も考えずにその手を取り、そのまま彼に引き起こされる。

 立ち上がって目を擦ると、朝日が眩しくて堪らない。見回せば空はどこまでも高く清く澄み、茂みの木々は鮮やかな新緑に萌え立っている。息を吸いこむと、草いきれと土と人々と朝餉と、そして春の薫りが胸いっぱいに広がる。世界がまるで薄いベールを剥いで生まれ変わったように鮮烈にくっきりと感じられ、ついさっきまで、私は一体何に悩んでいたのかわからなくなった。わかったのは──。


 嗚呼、私は生きている。

 嗚呼、天虹国このせかいで生きている。

 生きて、確かにこにいる。

 ここで暮らしている。

 ここが、私の生きる場所だ。


 それだけだ。


「何をぼんやりしている、置いていくぞ」

「はいっ、ただいま!」


 私は急いで膝について土を払うと、先をゆく白蓮の揺れる銀髪を追いかけて走りだした。

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