第29話 お仕事は悪酔いにつき

 私は可能な限りゆっくりと瞬きした。そしてさり気なく視線を白蓮様の手元に移す。

 最初に思ったのは、なんて後ろ姿を裏切らない正面なのだろうということだ。そして次に思ったのは、白蓮様は青い瞳をしていたのだということだった。

 白蓮様の瞳は、深森に佇む湖の凪いだ水面みなものように澄んだ透明な水色をしていた。まるで大粒のアクアマリンのようだ。私は深呼吸して息を整える。一瞬、目に映ったのは切れ長の瞳、そこに影を落とす長い睫毛、すらりと通った鼻筋、弧を描く眉、桃色の大理石のような唇。それらが白磁のようにすべらかな肌の上に完璧な配置で収まっている。


 人間……だよね? 私は一瞬、自分が剣と魔法の跋扈ばっこする、もっとファンタージな別の世界に再転生してしまったのではないかと混乱する。そのぐらい非現実的な顔だった。時々、瞬きして瞳が動き、規則正しく胸が上下しているからやっぱり生きているのだと分かる。しかしもしそれがなければ天界の匠によって、極上の大理石から彫り出された、最上神の似姿だと言われても納得するだろう。もしくは神仙、精霊、神、あるいは魔王か──。

 どうりで行く先々でじろじろと見られていたはずだ。茶を淹れに来た侍女が頬を染めるのも当然だ。


「み、耳ですか?」


 至って平静な風を装って聞き返した私に、白蓮様は眉をひそめた。視線は白蓮の手元に逸らせているから、ぼんやりと視界の端に映る姿を見てそう思っただけだが。


「そう言っている。早くだしなさい」

「でも何で耳を? ……って、うわわっ!」


 白蓮様は何の前置きもなく、長い指で私のおとがいを掴むとぐいと横に向けた。驚いた私は反射的にその手を掴む。触れた手にはちゃんと体温があり脈があった。調薬で酷使されたのだろう指先の皮膚は厚くなり少しかさついている。まぎれもない生きた人間の手。働く人の手。そのことに私は盛大に安堵した。

 ああ、大丈夫だ。やっぱり白蓮様は、白蓮様だ──。

 私の場合、先に白蓮様の中身という現実を知っていたのが良かったのだろう。もちろん私も人外の美貌を目の当たりにして当然人並みの衝撃は受けた。しかし案外すぐに正気が戻ってくる。外観はどうであれ白蓮様の中身が変わったわけではないのだ。

 学者肌でワーカーホリックで気難し屋で着道楽で、そして筋金入りの商売人の医薬院長だ。相変わらずの白蓮様、いや白蓮である。並みの美人のように三日で飽きるとまではいかないだろうが、直視を避ければそのうちには慣れそうだ。そんなことを考えているうちに、白蓮は横を向かせた私の左耳を引っ張った。


「い、痛っ!」

「じっとしていろ、すぐに済む。桂あれを」

「はいはい、只今」


 桂夏はどこからか木製の四角い盆のようなものを持ってくると中央の卓の上に置いた。そして白蓮と私の頭を抑える係を交代する。白蓮は盆の上で何やらかちゃかちゃと道具を準備すると、くるりと私の方に向き直った。


「ひ、ひええぇっ! 白蓮様な、な、な、何を!!」


 振り向いた白蓮は右手に金属製の大きなペンチの様なものを持っていた。本能的な恐怖を感じた私は桂夏の手から逃れようともがく。しかし胸の前で抱えるように私の頭を押さえこんだ桂夏はさすが医者の手腕というしかない。痛くも苦しくもないのに、あ〜ら不思議、抑える腕はびくともしない。


「大丈夫ですよ〜、すぐに済みますからね〜」


 私の頭をがっしりと固定しながら、桂夏が満面の笑顔で心にもないことを言う。

 こ、怖い! 怖すぎるー!! 私は涙目で海を見た。しかし目が合うと海は酷く憐れなものを見るような顔をして、ふるりと小さく首を振る。お、おわた……。


「すぐに済む、決して頭を動かすなよ。もしずれたら──」

「ず、ずれたら?」


 ごくりと喉が鳴る。


「ものすごく気になる」

「ぶぶっ」


 いつの間にか白蓮の後ろから覗き込める位置に移動していた弦邑が吹きだした。


「気を散らせるな、弦」

「医薬院長手ずから札を取りつけるとは、なんと贅沢な。おや、こんな細工物いつの間に?」

「べたべた触るな、消毒済みだ」


 白蓮は強いアルコール臭のする何かでごしごしと私の耳を拭くと、金属製の大きなペンチを耳輪じりんに押し当てた。


「や、やめ──」


 やめてと言い切る前に、ぷちりと皮膚の裂ける嫌な感触がする。次の瞬間、左耳が感電したようにびりびりと痺れた。そして焼けた鉄を押し当てられたように熱くなる。白蓮はその痺れの中心あたりを再び強いアルコール臭のする何かでごしごしと拭いた。


「ふむ、悪くない」

「ああ、なかなかいいねえ」

「うんうん、よく似合っていますよ」

「……痛い」


 ぽろりと私の目尻から溜まっていた涙がこぼれる。恐るおそる左耳に手をやると、長さ三センチ、幅一、二センチほどの円筒形をした金属製の何かが、耳輪の軟骨に食い込んでいる。痛みの原因はこれだ。


「これは……」


 再び目尻から涙がこぼれる。熱は次第に鈍痛に変わり、脈に合わせてずきずきと痛む。傷の大きさだけでいえば小指の先ほどもないだろう。しかし日本という文明社会に暮らしていれば、紙で指先を擦り切る以上の怪我をすることなど滅多にない。私とっては十分大怪我だ。


ふだだ」


 白蓮は手早く道具を片付けると素っ気なくいった。


「……札?」

環札かんさつですよ。官吏が個人的に雇う侍従につける名札のようなものです。表面に雇主や澪君自身の情報が刻印されています。最初は少々痛いでしょうが、これがあれば面倒な手続きなく王城や医薬院の執務室に出入りできますよ」

「名札……」

「ちなみに、環札は特殊な構造になっていて専用の道具がないと取りつけも取りはずしもできません。飾りではなく公的な証書ですから、許可のない勝手なつけはずしは重罪です。本当に重い罪に問われますから、絶対に勝手にはずしては駄目ですよ?」

「えっ、では取りはずしは……」

「できません、一生」

「い、一生……?」


 私はじんじんと痺れる左耳に触れた。それでは……まるで家畜の耳につける固体識別のタグの様ではないか。私は急に悲しくなった。売り買いという言葉が急に胸に突き刺さる。それが顔にでていたのだろう。桂夏はぽんぽんと私の肩を叩くと優しい声をさらに優しくした。


「決して悪いことではないんですよ? 身元だけではなく過去の経歴証明にもなりますから。特に澪君のように身寄りのない場合はとても大切なものです」

「はい……」


 私は桂夏の環札に関する説明に上の空で耳を傾けた。後々、私はその環札が考えていたよりもずっと有難いものであると知ることになるのだが、それはまだしばらく先のことだ。この時の私は急な展開に一杯一杯で、先のことを考える余裕など少しもなかったのである。


 ふと気づくと、遠くで九の鐘が鳴っていた。この部屋に来てすでに二時間近く経過していたことになる。


「では、私はこの辺りで」


 と、海星が流れるような動作で立ち上がった。


「澪、見送りを」

「はい……」


 私は考えのまとまらないまま、白蓮に促されてぼんやりと海星の後に続く。海星は執務室の扉の前で立ち止まると、振り向いて軽く片手をあげた。


「ここまででよい」

「海、いえ海星様。本当に色々とありがとうございました。存じあげなかったとはいえ、近衛隊長様に大変な失礼を……」


 私は礼をとって深く頭を下げる。


「かまわない、名も前のように呼んでくれ。次の仕事が見つかってよかった。白蓮殿のところであれば安心して預けられる」


 海星は少し屈んで上げた私の顔を覗き込んだ。


「海様……」


 私は色々な気持ちがない交ぜになって言葉が続かない。


「澪、入城時の支度金はそのまま給与課に預けてある。何かあったらそれを使うといい」

「はい」

「元気を出せ。下女が殿上人てんじょうびとの侍従になるなど滅多にない幸運だ。白蓮殿に誠心誠意お仕えするんだぞ」


 私はこくこくと無言で頷く。海星はわずかに口元を緩めると私の耳元に口を近づけた。


「また、折を見て顔をだそう」


 彼は低い声で囁く。はっと見上げて目が合うと、海星はほんの一瞬、悪戯が見つかった子供のような笑顔を見せた。


「達者でな、澪」

「海星様もどうかお健やかに」


 海星は振り返らず人事院長の執務室を後にした。私がぼんやりと海星の行った先を見つめていると弦邑が笑い声をあげる。


「いいねえ、若いって素晴らしいなあ!」

「いいものを見せてもらいました。十は若返りますね」


 私が振り返ると、二人が盃を片手ににやにやしながらこちらを見ている。白蓮はくつろいだ姿勢で一人静かに盃を傾けていた。卓上にはいつの間にか酒壺が追加され簡単なつまみも並べられている。


「あのお堅い騎士様を籠絡ろうらくするとは、澪君もなかなかやる」


 弦邑が顎に指をあててさも感心した風に頷く。


「籠絡……? ご、誤解です!! 海様はとてもお優しい方だから心配して」

「君も隅に置けませんねぇ。ささ、澪君もおいでなさい。今夜は君の歓迎会ですよ」


 桂夏に促されて私は末席に控える。その後は酌も不要の無礼講ぶれいこうとなった。皆が酒盛りしてそれぞれに過ごす中、私は一人静かに茶を啜る。ようやく今日も一日が終わるのだ。たった一日のうちにあまりにも多くの出来事が起こり過ぎ、私の頭の中は未だとっ散らかったままだった。

 昨日の一件も、雪ちゃんのことも、懲罰のことも、白蓮の侍従になったことも、何もかもがまるで他人事にように思える。本当は一つ一つもっとちゃんと向き合ってじっくりと考えなければならないことだ。しかし今日はもう、それらを整理する気力もなかった。私は末席にちょこんと腰掛けて、相変わらずぼんやりと、先程の私と海星のやり取りを肴に盛り上がる弦邑と桂夏を眺める。


「気に入らぬ」


 唐突に白蓮が呟いたかと思うと、ぐいと前髪を摘まれた。つられて横を向くとすぐ近くに白蓮の顔があり、澄んだアクアマリンの半眼が私を見つめている。

 気に入らないって……ま、まさかさっきのやり取りじゃないよね? 弦邑様も桂夏様も悪ノリしすぎですっから!!


「気に入らぬ、この前髪」

「は? え、前髪……?」

「そうだ、前髪が特に気に入らぬ」

 

 よく見ると半眼で私を見つめる白蓮の視線はどこかずれている。どうやら摘んだ私の前髪を見ているらしい。

 こ、これは……酔っている? 白蓮は見た目も話し方も平時と全く変わらない。しかしそう思ってみると半眼なのが怪しく思える。語尾がほんのわずかだけど間延びしている気がしないでもない。


「明日、祭礼局さいれいきょくへ行け」

「へ?」

「祭礼局には貸しがある」

「は?」

「はははっ、祭礼局の輝晶きしょうのところにかい? いいのか、せっかく雇った侍従を、腹を空かせた虎の寝ぐらに放りこむようなことをして」


 酔った弦邑が腹を抱えて笑いながら、不穏極まりないことをいう。


「大丈夫ですよ、輝晶様は仕事はちゃんとなさる方ですから」


 こちらも酔った桂夏が、慰めにもならない慰めをいう。というわけで翌朝、盛大に二日酔いした桂夏に見送られて、私は訳もわからず祭礼局に向かうことになった。そして祭礼局という魔窟で、輝晶きしょうというトンデモナイ人物に振り回されることになったのだが、とてもここには書ききれないので、その件はまたの機会に詳しく報告したいと思う。

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