第28話 お仕事は契約から(後編)
「少々事情がありまして」
「そう、少々ね。まあ色々あるよね」
桂夏は目を細めただけで、それ以上は問わなかった。
「あの……白蓮様はなぜ私を?」
「え、なぜ? だって君、僕の不在中に三日間も先生の秘書官役を勤められたのでしょう?」
「秘書官役? う……うーん、秘書官とか大袈裟なものでは決して……。私は只のサラリーマンで……って、まぁ、ええっと、あれを秘書の仕事というのなら、まあ、そう呼べなくもない、でしょうか……」
「それは結構すごいことなんですよ。先生の要求水準は厳しいから、一対一で丸一日勤められる人なんてそうはいない。はじめて会って丸三日は画期的です!」
この時、話しながら桂夏はきらりと丸眼鏡の奥の瞳を光らせたのだが、余裕のない私は全く気付かなかった。もし仮に気付いていたとしても、他の選択肢があったとは思えないのだが、しかし彼が私をべた褒めする事情ぐらいは察するべきだったのだ。
「実際、僕が何かの足しになればと思って置いてきた甥は、澪君と同じくらいの年齢だけど、半日足らずで逃げ帰っちゃったみたいだし」
「ああ、だから他に侍従の方がいなかったんですね」
「しかも厳しい上に、先生は選り好みというかこだわりというかが多いから……。仕事も十分補佐できて、側に仕えさせてもいいと思うだなんて、そんな人材がいたいたとは! しかもこんな身近に! それに澪君、君先生の側にいて、その……大丈夫だったんだよね?」
「大丈夫? あの、何がでしょうか?」
「うーん、何といったらいいか……、目の遣り場? 日常生活? 猥褻物陳列?」
「……はぁ?」
私が首を傾げていると、桂夏は急いで話題を変えた。
「ほらほら、医薬院は忙しいけどその分やりがいはあるよ。やる気があれば薬学とか応急処置とか色々学べることもあるし。僕としてはぜひ君に先生の元で働いて欲しいと思っているんだけど」
なんだかいやに褒められる。そういう時ほどろくなことがないというのは長いサラリーマン人生で身に沁みている。しかし状況はどうであれ褒められるというのは嬉しいものだ。私がわずかに気を緩ませると、桂夏が急に腕を組んで難しい顔をした。
「それに先生の元で働くのは、澪君にとっても色々利点があると思うけどね」
急に真面目な顔になった桂夏に私は瞳を瞬かせる。
「澪君、先生の勘違いとはいえ三日間も下女の仕事を無断欠勤しちゃったんだよね?」
ぐさり、とその言葉が私の心臓を貫いて、一気に辛い現実を思いださせた。
「無断欠勤の懲罰は意外と厳しいよ。それに意図せずとはいえ、正体を偽って院長室に忍び込んだことになるわけだし。捕まった
桂夏は溜息をついて語尾を濁すと眼鏡を直す。
ゔあぁぁぁ、私は心の中で頭を抱える。
やっぱり私がしでかしたこと、相当まずいですよね?
だからこんな超豪華メンバーがここに集結しているんですよね?
この世界、疑わしきは罰するですよね?
桂夏様の反応を見る限り、それは相当にやばいものですよね?
ご、ご、ご、ごう、拷問とか、拷問とか、拷問とか……!?
「でも先生の口添えがあれば何とかなると思うよ。どうする? 先生の元で働くかい? もし気が進まなければ──」
「は、働きます! ぜひ仕えさせてください!! 一生白蓮様についていきます!!!」
反射的に私は叫んでいた。
「ふふふ、いい返事です澪君。僕がしかと聞き届けました」
「へ?」
「話はまとまったようだな」
はっ、と気付くとすでに話し合いの終わった弦邑と白蓮様が、寛いだ姿勢で盃を傾けながらこちらを見ていた。しまったと思った時にはもう遅い。
「ええ、澪君は先生の元で働くそうですよ。一生仕えるつもりだと、とても元気に応えてくれました」
桂夏が少しも腹黒いことなど考えていませんよ、というほんわかした笑顔で間髪を入れずに私が了承したことを伝える。桂夏の上機嫌な笑顔を見て、私は返答を誘導されていたのだと気がついた。間諜やら拷問やらというのは全くの嘘ではないが、かなり話を盛られていたのだろう。
もちろん多少の懲罰はあるだろう。しかし無断欠勤する奉公人は時々はいるはずだ。一々厳しい処罰をしていては仕事が成り立たない。そうやって少し冷静になって考えれば、白蓮が自分の勘違いで窮地に陥った相手を、たとえ下女とはいえ何もせずに見捨てるとはないとわかったはずだった。
しかし時すでに遅しである。彼等の間であれよあれよという間に話がまとまっていっていく。桂夏は私の肩を掴むと、お得意のほんわかした笑顔を浮かべた顔を近づけた。
「君のような逸材は非常に非常に貴重です。絶対に逃すものですか。ぜひ僕と一緒に頑張りましょうね」
途中でやや本音がダダ漏れだが、にこりと屈託のない笑顔で締めくくられると、まんざらでもない気がしてくるから不思議だ。そっと伏し目がちに、最初と全く同じ姿勢で盃を傾ける海星の方を見ると、海星は目線をあわせないまま、しかし小さく頷き返してくれた。私は少しだけ勇気づけられる。
きっと、これで良かった……のだろう。
もう下女寮に戻れない以上、ほか行くところもない。
無断欠勤、無断勤務の件は気になるが、私だって進んで懲罰を受けたいわけではない。避けられるものならばできる限り避けて通りたい。
「勤務形態だけど──」
早速、桂夏が契約内容について説明しはじめる。どんな不平等条約を結ばされるのかと内心気がきではなかったが、意外にも白蓮様の個人的な侍従としての労働条件はとても良心的なものだった。給金にせよ、休暇にせよ、衣食住の福利厚生にせよ、下女の私には勿体無いほどの好待遇である。
本当にこんな好条件でいいのかと桂夏に聞くと、白蓮様の個人的な侍従は皆同様の条件で働いているという。ただし、と私には桂夏が心の中で付け足したであろう幻の説明が聞こえた。給金はいいけど激務で使う暇はなく、休暇はあるけどワーカーホリックな主人に付き合って休めるかどうかはわからない。そして衣食住、特に衣に関しては主人に絶対服従だと。
かなり酷い、が結局これは前の世界での生活と同じではないだろうか。つまりは古今東西どこにでもいる、至極ありふれたサラリーマン・ライフスタイルの再来だ。衣食住の衣が絶対服従なのだけは謎だが、それも制服と割り切れば分からなくもない。まあ今の所、下女のお仕着せしか着れる服のない私にはありがたい話でしかないのだが。
「さあ、これが最後の書類です」
私はもう何枚目か分からない書類にサインする。ふう、と情報過多で飽和状態になった頭を整理しようと息をつくと、不意に横から話しかけられた。
「耳を出しなさい」
「み、耳?」
驚いて振り向くと、すぐ横に白蓮が座っていた。ふんわりと酒と香油の匂いが鼻先を掠める。そしてこの時、はじめてというかようやくというか、私はこれまで白蓮を正面から見たことがなかったということに思い至ったのである。
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