第27話 お仕事は契約から(前編)

 もうすぐ八の鐘が鳴るという時刻。洋燈らんぷの灯りに照らされた影の濃い部屋の中で、私は跪き深い礼をとっていた。正面には大きな執務机があり、そこに一人、周囲に三人の人物が立っている。

 私も相応の覚悟をしてここにきている。だからそれほど取り乱してはいない。指先が氷のように冷たいというだけで震えてはいないし、顔面も蒼白止まりで土気色まではいっていない。ただ不思議なことに、この部屋に入った瞬間から背中を流れる冷や汗が一向に止まる気配がないという、ただそれだけだ。


 私の冷や汗の原因はこの場所と集まった顔触れにある。私は昼に桂夏に予告された通り、人事じんじ院長の執務室に呼び出され、四人の貴人に取り囲まれていた。正面にある大きな執務机の向こうには人事じんじ院長が、その隣には医薬いやく院長と副院長が、そして入り口付近には近衛このえ隊長が立ち私を見つめている。本来であればその内の一人でも、下女が王城に一生勤めても決して顔を合わせる機会はないという雲上人だ。それがこの部屋に四人も大集合している。どう考えても只事ではない。

 この顔触れをもう少し分かりやすくいい直すとこうなる。正面には人事院長の弦邑げんゆうが、横には医薬院長の白蓮はくれん様と副院長の桂夏けいかが、そして入口付近には近衛隊長のかいが、という具合である。

 この部屋に入ってからの話の流れで、私ははじめて海の本当の名が海星かいせいであり、王族の護衛を担う要職、近衛騎士のそれも一個隊を率いる隊長であると知った。頭の中で海に対してしでかしてしまったこれまでのあれやこれやが、走馬灯のように蘇っては私を苛む。しかし今となってはすでに後の祭り。私は申し訳なさで一杯になり、海の顔を見ることができなかった。

 

「さて澪君、ようやく君の話ができるね」


 私はごくり、と喉を鳴らした。しかし喉は鳴っただけで飲み込む唾などとうにない。口の中は砂漠のように乾き、握りしめた両手は氷のように冷たい。できることなら今すぐこの部屋を飛びだして、どこかに消えてしまいたかった。この世界に来て半年、自分には守らなければならないものなど何もないのだから。今あるささやかな全てをかなぐり捨てて、この場から逃げだしたとしても失うものなど何もない。

 しかし私に残された無駄な理性は、後先考えぬ遁走とんそうなどという、あまりにも無計画すぎることは許せぬ性分らしい。異世界のこととはいえ、自分の身に起こった出来事なのだから、最後まできちんと責任を取るべきだとか、そもそもこの場を逃げだしたところで他に行く場所などないのだからとか、そしてあれほど世話になった海や白蓮にさらに迷惑をかけるつもりかとか、痛い部分を突き刺しまくっては私を説得しようと試みる。

 結局、二進も三進もいかなくなった私は、深々と礼をしたまま、床の上でただ小さくなることしかできない。これから自分に下されるであろう宣告、おそらく何かしらの懲罰を伴うであろうそれを、俯いてじっと静かに待つだけだ。


 あぁ……私はつくづく、異世界生活に向いてないのだ。両手をあげて天を仰ぎ王城中に響き渡る大声でそう叫びたい。こういう時、本能のおもむくままにはちゃめちゃな行動をして、でもそれが不思議といい結果につながって、そして最後はハッピーエンドで丸く収まって、みたいな展開に出来る素養が私にはイチミリもないのだ。

 うぅ……だって、だってしかたない! 私、只のサラリーマンだったんだからね!! 平凡、安泰、定年勤務がモットーのサラリーマンですからね!! そんな私に異世界転生大活躍とか、何かの使命とか役目とか、そういうの色々求める方が間違ってる!!!

 私の望みは前の世界でも今の世界でもたった一つ。真面目に働いて堅実に貯金して、安心安泰の老後が過ごしたいというただそれだけ。それ以上の贅沢なんてイチミリだって望んでいない。しかしたったそれだけの、そんな当たり前のことが、私の人生では少しも叶う気配がしない。

 しかし、なぜわざわざこんな超豪華メンバーがここに集結? 私のしでかしたことって、まさかそこまでヤバイことだったのか……?

 

「──聞いているか、澪君?」


 弦邑の呼びかけに私は我に返った。


「ここにいる医薬院長殿が、ぜひ君を買い上げたいと所望しているのだが」

「はぁ……は? え……、か……か、かか買う?」


 私はぽかんと弦邑を見あげた。なんだかとっても衝撃的なキーワードが聞こえた気がするが気のせいだろうか。人は物ではないのだから、勝手に売り買いすることなんてできるはずはないのだが──。


げん、勿体ぶらずに値段を言え。下女の相場は決まっているだろう」

「そう慌てるな」


 白蓮様の八百屋で林檎でも買うようなぞんざいな物言いに、私は雷に打たれたような衝撃を受ける。あまりに驚きすぎて、話の流れが見えないことなどすっかりどこかに吹き飛んでしまう。弦邑はすでに寛げていた襟元を、さらに大胆に緩めるとわざとらしい溜息をついた。


「ふう、もう夜更けだというのに」

「まだ八の刻だ」

「八の刻でも十分遅いよ。白といい、君たちといい、私と違って世の中よほど仕事好きの人間が多いらしいね」

「仕方ない。昨夕、せっかく海星が調整した場は例の一件で流れてしまったしな。むしろ今宵、再調整がついたのは僥倖だろう」

「それは、まあね。しかしこんな時間に堅苦しいのは僕はごめんだよ」


 そういって弦邑は書類を机上に放り投げると、さっさと奥に置かれた応接セットにゆき長椅子にどかりと腰をおろした。そして私に向かって片手をひらひらと振る。


「澪君もそんなところで畏まっていないで、こちらにおいで。まったく、君も色々と不運だったねぇ。まだ病みあがりなのだろう? ほら、椅子に座りなさい」


 全くといっていいほど状況がわからず、私は完全に思考停止状態だ。しかしどんなにへんてこな状況であったとしても、下女に人事院長の要請に従わないという選択肢はない。私はのろのろと腰をあげると応接セットに向かった。その間にほかの三人はさっさと移動し、思いおもいの場所に腰をおろしている。

 人事院長室の応接セットは六人がけだ。向かい合うように長椅子が二脚置かれ、両端に一人がけが一脚づつある。弦邑の隣に海星が、手前の一人がけに桂夏が、弦邑の向かいの長椅子に白蓮様が腰掛けている。片隅で立ち尽くす私の俯けた視界の端に、長椅子の隣を軽く叩く白蓮様の指先が見えて、私は引き寄せられるようにそこに腰かけた。

 全員が席につくとすぐに茶が用意される。この状況で私に俯く以外の一体何ができるというのか。私は俯いて椅子にちょこんと腰掛け、膝の上で揃えた両手をじっと見つめた。他の四人はすぐに用意された茶器を手にとる。しばらくの間、広い執務室の中に四人が茶をすする音だけが響いた。ことり、と弦邑が音を立てて茶器を卓に置き、びくりと私の肩が震える。


「酒だな」

「ああ、酒だ」

「おや、酒ですか」

「いいですね」


 弦邑の呟きに白蓮様と副院長がすかさず賛同する。海も満更ではない呟きだ。弦邑は立ち上がると執務机の陰でなにやらごそごそとした後、酒瓶と盃の乗った盆を携えて戻ってきた。

あっという間に弦邑が酒の並々と注がれた盃を皆に配る。弦邑と白蓮様がそれを一息で飲み干すと、副院長と海も盃に口をつけた。弦邑と白蓮様は直ぐに二杯目を注いで盃を干す。副院長も海も黙って盃を傾けている。私だけが下を向きじっと座っていた。二杯目も一息に飲み干した弦邑が、ようやく三杯目を注いた盃を手にして椅子の背に寄りかかった。

 

「さて、値段の話だったか」

「幾らだ」

「うーん、だけどねぇ。白、君は澪君に下女の仕事させるというわけではないんだろう? だとしたら単純に下女の相場というわけにはいかないねえ」


 ちらりと視線をあげると、弦邑げんゆうが瞳を綺麗な三日月型にした悪い笑顔で盃を傾ける。


「女官、とも少し違うか。させる仕事に一番近いのは官吏かんり見習いか、それとも秘書官かな? そうなると相場の桁が二つほど違うんだよねぇ」

「ちっ、人事院の女衒ぜげん野郎が」

「お褒めに預かり光栄だね。人事院長冥利に尽きるというものだ。適材適所、適能適給こそは人事の真髄。相手がたとえ白でも手加減できないね。もっといい条件のところに都合してもいいんだよ?」

「お二方ともご容赦を。あまり値段を釣り上げては、澪が後々苦労しますので」

「おやおや、さすが騎士様はお優しい」


 弦邑と白蓮はわずかに肩をすくめると、ちびりと盃を傾けた。

 ──て、え? 待てっ待って! ちょっと待って!!

 私はようやく己が置かれた立場に思い至り愕然とした。全員が当然私が売り買いできる前提で話をしている。今まで一度も考えたことはなかったが、まさかこの世界は人が売り買いできる世界だったのか? というか、そもそも私は売り買い可能な相手、もしかして下女はそもそも奴隷に近い存在だったのだろうか? というか買うとか売るとかってまさかとは思うが、私が考えていない方の……そういう意味の……買うとか売るの隠語じゃないよね!? 

 というかそもそも私の懲罰の話は一体どこに行ってしまったのか。だってもなにも今夜は医薬院に不法侵入、不法滞在していた私の処罰に関する話し合いのために集まったのではなかったのか。だからわざわざこんな超豪華メンバーが、こんな時間にも関わらず大集合したのだろう。

 一人だけ完全に話の流れに取り残され、ぽかんとした私を見かねて、隣に座る桂夏が声をかけてくれる。


「澪君はどうしたいですか? 先生のところで働くか、それともこのまま下女として残るか」

「……え? 働く? ……よかった、あれ……でも私、このお話を断れるんですか?」


 恐るおそる尋ねると、桂夏は堪えきれないという風に吹きだした。


「ふふっ、もちろんですよ。勤め先は自分で選ぶものでしょう? ちなみに澪君は官吏になるための登用とうよう試験は受けていないので、先生の元で働く場合は、あくまでも先生が直接雇う個人的な侍従じじゅうということになりますが」

「侍従……? でも、先程は買うと……?」

「ん?……ああ、あれは──ああ、あははっ」


 桂夏がさも可笑しそうに笑い、私はそれをぽかんと見つめた。桂夏は見た目通りのとても柔らかく親しみやすい声をしている。その彼の笑い声の向こう側で、弦邑と白蓮様が何やらぼそぼそと話し合っている。海はというと彫像のように美しい姿勢で座ったまま、そっと私の様子を伺っていた。


「ふふふっ、そうか。さっきの買い上げるというのは、あれは比喩ですよ。まあ、あながち間違ってもいないんだけど。そうか、澪君はこの国に来てまだ日が浅いんでしたっけ?」

「半年ほどです……」

「そうか、じゃあ勘違いしてもしかたない」

「……勘違い?」

「いいですか、買い上げるというのは、澪君の違約金いやくきんを先生が肩代わりするということです」

「違約金?」

「王城に努める人は大きく分けて二通りいますよね」


 副院長は右手をピースにして掲げる。


「一つは官吏で、これは登用試験に合格した者がなれます。僕みたいに各院に所属して国の仕事をする」


 私はうんうんと頷く。


「もう一つは、澪君のような奉公ほうこうです。これは試験などはなく個別に雇われて、掃除や給仕などこの王城の運営そのものを手伝う仕事です」


 私はまたうんうんと頷く。


「官吏が王城で見初めた働きの良い奉公人を、個人的な侍従として雇うというのは時々ある話なんですよ」

「そう……だったのですか」


 私の肩から力が抜けた。どうやら奴隷とかそういうのではないらしい。言葉の雰囲気からしてもう一つの可能性というのもなさそうだ。しかし疑問はまだまだある。


「違約金というのは……」

「奉公人の雇用形態は何種類かあるのですが、大きくは短期と長期に分けられます。澪君は入城の際に三年の奉公で契約していますよね?」

「ええ、多分……」


 自分に関わるとても大事なことなのに私の返事は心もとない。確かに下女として入寮する際に、何か契約書のような用紙に署名をしたのは覚えている。しかしその頃の私は転生したばかりで非常に混乱していた。思いだそうとしても記憶は酷くあやふやで、何を食べ、どこで寝て、どうやって生きていたのかも分からない。私は泣きながら、ただ海に差し出される書類に名前を書いていただけだった。そっと海の方を見ると、彼は杯を傾けながら小さく頷いてくれた。


「それぞれ長所短所があるのですが、三年のような長期奉公になると優先的に寮に入れたりと色々優遇されます。貧しくて家に帰れないとか、何年後に結婚する予定だとか、色々な理由で選択する人がいます。ただし」


 桂夏はここがポイント、というように右手の人差し指を掲げた。


「雇う側も色々と優遇するわけですからお金がかかります。入城する際に支度金もでますし、三年は働くと思って衣食住を提供して仕事も教えます。なので契約の途中で仕事を辞める場合には、違約金という形でそれらの費用の一部を支払うことになります。まあ、勝手な離職を抑制する目的が大きいですけどね」

「なるほど」

「そして契約期間の途中で仕事を変える場合に、新しい主が前の仕事の違約金を肩代わりすることを、俗に買うとか買い上げるとか言うんですよ。特に澪君の場合は他に身寄りがないのでしょう? もし先生の元に勤めることになれば、先生は身元保証人にもなりますから。文字通り買われるというのにかなり近い状況になります。そういえば、今の身元保証は海星かいせい君がしているのでしたっけ? ええっと、君たちは……実は遠い親戚とか?」


桂夏が私と海星を見比べて首を傾げた。

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