第3話 ままならないことばかりだけれど
うんち事件以外でも、私が心配する以上に、娘は案外平気な顔をしていることが多かった。
指を切った時とか、転んで泣いてしまった時とか、食べたものを吐いてしまった時とか。
新米母親の私は、いちいちオロオロあたふたしてしまっていたのだけれど、ちょっと時間が経てばすぐにケロッとした顔をしているのだから、いつも肩透かしを食らう。
でもやっぱり心配なものは心配……と、娘が転倒した時のために背中に背負うことのできるクッションを買ったり、とにかく部屋の中から角を排除したりと、慌しかった。
この苦労は、この努力は、娘には一切伝わることもなく、成長して大人になってしまう。思春期にはきっと反抗期が来るし、私のことなんてたぶん、二の次三の次、いや四の次になるのだろう。
でも私は、娘が自由に羽ばたけるように、今は頑張りたいのだ。
育児は大変だ。つらい。ノイローゼになる。
出生率の低下。歯止めの効かない少子高齢化。
挙げるとキリがないほど、世間には「育児って本当、大変だ!!」みたいな言葉が飛び交っている。子供を持つと損をする。子供がいれば貧しくなる。
そんな共通認識が、日本中に広がっていく。
もちろん、変えられることがあるのなら変わって欲しいと思う。
でも、国に頼るよりもまず、私が自分で子育てをしてよかったって思いたい。
子供を産んでから、体重が低下して元の体型に戻らなくなった。
バストは萎んで垂れ下がり、お気に入りだった服はサイズが合わなくなった。
ストレスで前髪が抜け落ち、髪はパサパサになった。
「孫に全然会えていない」という義父の言葉に、「またかあ」と呆れることもあった。
自分の時間がなくなって、朝早く起きなければならなくなった。
読書はできない。趣味のピアノや執筆も、思うようにはいかない。
ベビーカーは嵩張るし荷物は重い。エレベーターがない商業施設で途方に暮れた。
夜な夜な作ったミルクを、熱湯のまま床にぶちまけてしまったこともある。
子連れで仕事に復帰すると、仕事してるのか育児してるのか分からなくなる。
身軽に仕事ができる他のメンバーを、羨ましいと思う。
いつでもトイレに行けるみんなを、羨ましいと思う。
いつでも友達と遊びにいけて、離乳食を作らなくてもいい夫を、羨ましいと思う。
挙げるとキリがない。
すべて、ままならないことばかりだ。
でも、と私は娘が生まれてからの1年間を振り返る。
娘のおかげで、持てる時間を余すことなく使う大切さを学んだ。
娘のおかげで、夫婦喧嘩した時もすぐに空気が和やかになった。
娘の笑った声や顔が、たまらなく可愛くて癒される。
娘と一緒に出掛けていると、「可愛いね」って声をかけてくれる人がいて。
電車に乗る時、ベビーカーを持ち上げてくれる親切な人がいて。
職場では娘の面倒を一緒に見てくれる先輩たちがいて。
両親や義両親が、娘の姿を見るのを待ち焦がれてくれて。
私は、途方もない数の幸せを娘から与えてもらっているんだ。
だから私は、娘がうんちを食べて罪悪感にまみれても、あたふたしながら対処法を探すことになっても、損をしただなんて思いたくない。いや、思わない。
手のひらからこぼれ落ちそうなほど娘から受け取った幸せのカケラを、この文章を読んでくれた人たちにも届けたいと思う。
幸い娘は、うんちを食べた後もずっと機嫌が良いままだった。
食欲も排泄もいつも通りだ。
私が案じていたことは、すべて杞憂に終わった。
私は、いつものごとく部屋の中を徘徊し、本棚の本や、空のペットボトルなんかを散らかしていく娘を見つめて問う。
「ねえ、うんち、おいしかった?」
【終わり】
自分のうんちをたべた娘 葉方萌生 @moeri_185515
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます