第10話 幸せな記憶
キョロキョロと辺りを見渡し、愛がいないのを確認しながら、渉は今日もげっそりとした顔で退社した。
恵比寿駅で落ち合ったるり子はそんな渉の顔を見て、心配そうに眉を下げた。
「渉さんどうしたのぉ?元気なくない?」
「まあ、色々あって……」
昨日、自宅に警察が来た。広香への付き纏いや接近の禁止が命じられ、厳重注意を受けたのだ。
近所の目もあるのに、ふざけた理由で警察をよこした広香が憎くてたまらない。
(何がストーカーだ!夫をそんなふうに言うバカな妻がどこにいるっていうんだ!)
渉が険しい顔のまま歩いていると、るり子が腕をからめて甘えた声で言った。
「もしかして離婚のことで悩んでるの?いいじゃん、あんな口うるさいだけの女。渉さんにはもっといい女がいるよぉ。ほら、私とか?」
そう言って、るり子に豊満な胸を押しつけられると、下半身が熱くなるのを感じた。
広香との離婚を受け入れ、自分に好意をもつるり子との再婚も一度は考えた。ただ、彼女は広香と違って家事もろくにできないし、金遣いも荒く、なかなか言うこともきかない。着ている服装はいつも露出が多く、たまに隣に連れて歩く分にはいいが、妻としては不合格だった。
だからこそ、愛のように誤解させてはいけない。
「たしかに俺はさ、るりちゃんのこといい女だと思ってるけど、結婚するよりは今の恋人関係の方がお互い幸せになれると思うんだよね。それに、るりちゃんは広香の会社の後輩だし、もし俺と再婚なんてしたらるりちゃんだって立場が……」
渉がそう言うと、るり子はぷっと吹き出した。
「るりちゃん……?」
「もしかして渉さん、私が結婚したがってるって思ってる?」
「え?いや、その……」
「もうやだぁ!そんなわけないじゃん!渉さんみたいな金ないくせに偉そうな男と結婚とか絶対無理だもん。私、先輩みたいな奴隷になりたくないし」
「え……?」
「ごめんね、勘違いさせちゃってー。私はただ先輩の旦那寝とって、先輩が苦しむの見たかっただけだから。渉さんのこと全然好きじゃないから安心して。てか、私彼氏いるし」
「……」
そうあっけらかんと言い放つるり子に、渉は驚きで何の言葉も出なかった。
こんな女とセックスしたばかりに、自分は広香に離婚を突きつけられ、屈辱的な思いをしたのか。こんな女を家に連れ込んでしまったばかりに……。
「まあ、もういいじゃん!愛だって紹介してあげたんだし、渉さんもセックスの相手に困らないでしょ?とりあえず今日は最後の晩餐会にしよーよ!ここの路地を抜けたとこに、いい店があるから……」
その時、誰かがタッタッと後ろから走ってくる音が聞こえた。るり子が路地の端によろうとした次の瞬間、フードを被った女がるり子に体当たりした。
「え……?」
さっきまでケラケラと笑っていたるり子の顔から笑顔が消え、ぐらりと前に倒れる。
「るりちゃん……?」
そのまま倒れたるり子の背中には大きな包丁が刺さっており、真っ赤な血がとめどなく流れた。
あっという間にるり子の周りには血の水溜りが出来る。渉はあまりにも非現実的な光景に混乱していた。
「嘘だろ……なんだよ、これ……!どうして……」
「やーっと二人きりになれたね」
ハッとして声の方を向くと、そこには不適な笑みを浮かべた愛が、こちらを見つめ立っていた。
「ずっと避けられてたから、寂しくて会いに来ちゃったよ」
「なんで、お前……ふざけんなよ……意味わかんないだろ、刺すって……いくらなんでも……」
「え?だってこの女は私たちの世界に必要ないもん。だったら殺すしかないでしょ」
そう言いながら、愛は倒れるるり子の顔をグリグリと足で踏みつけた。
その狂気的な行動に渉は腰を抜かし、その場で尻餅をついた。
愛は微笑みを浮かべたまま、一歩一歩近づく。
「渉さん。嬉しい?これで私たちを邪魔する人は誰もいなくなったんだよ」
「な、何言って……」
「私たちがハッピーライフを送るために、この女を殺してあげたの!ねえ、私こんなに渉さんのこと愛してるんだよ!誰かを殺しちゃうくらい、あなたのこと愛してるの!」
「……」
渉は恐怖で絶句した。ズボンがじっとりと濡れ、尻餅をついたところのコンクリートが黒に染まる。
「あっ、もしかしておもらししちゃったの?渉さん、赤ちゃんみたいだね。あ、そうそう。私たちの赤ちゃんね、死んじゃったんだ。渉さんのせいだよ」
「……」
「だからね、もう一回赤ちゃん作ろう?次もきっと男の子が産まれてくるから安心して」
「やめ、やめてっ……!」
「どうしたの?一緒に帰ろう?帰ってお家でセックスしようよ」
差し伸ばされた手を思い切り払いのけ、渉は力を振り絞り走り出した。
「待って!渉さん!!!待ってよ!!!!」
後ろを振り返ることもなく、渉はただただ夜道を走った。
(どうしてこんなことになったんだ……どうして……!)
後ろから、きゃー!という女性の悲鳴が聞こえた気がしたが、構わず走った。
しばらくして、目に入った歩道橋を一気に駆け上がり、荒い息をどうにか抑えながら、道路の方を見る。
愛はついてきていないようだった。路地とはいえ、人通りがまったくないわけではない。るり子を刺して血だらけになっていた愛は、今頃警察に通報され、捕まっているはずだ。
「ハァハァ……僕は悪くない。愛が勝手に勘違いして殺したんだ。僕は悪くない、僕は何も知らない……!」
呪文のように「僕は悪くない」と何度もつぶやくと、徐々に心が落ち着いてきた。
冷静になれば、自分は女に振り回されてきた人生だった。過保護な母親に進学先も就職先も決められ、人生で初めて自ら選んだ妻には見放され、酷い扱いを受けた。そして、再婚してもいいと思っていた不倫相手は家事もろくにできないクソ女で、便利だと思っていた女は狂ったメンヘラ女になってしまった。
どこで間違ったんだろうか。
やはり、広香に不倫がバレてしまったのが不幸の始まりだったのかもしれない。
もしもう一度人生をやり直せるなら、今度は妻が自分に逆らうことのないように厳しく調教するつもりだ。そうすれば、不倫ごときで騒ぐこともない。夫を支える理想的な妻になるはずだ。
バクバクとなっていた心臓も静まり、そろそろ駅の方に戻ろうかと階段のほうに足を向けると、どこかで見覚えのあるピンク色の手帳が目に入った。
「あれ……広香が持っていたのと同じ……?」
あの日、広香の前でビリビリに破いた手帳は、広香の妊娠が分かった時に安産を願う神社で購入したものだった。
妊娠期間中の思い出を書いたり、エコー写真を貼り付けて、産まれた子供にプレゼントするのが最近の流行りらしく、広香はいつもその手帳を持ち歩いていた。
「赤ちゃんが大きくなったら、これを見せてあげるの」
広香は手帳を腕に抱きながら、嬉しそうにそう言った。
しかし、その手帳には結局、自分への不満や愚痴、離婚を進めるためのメモが書かれていた。それを見た時、夫のありがたみがわからない最悪な女だと、こんな女が母親になれるわけがないと、頭に血が上った。
この手帳にも、どうせ愚痴や不満ばかりが綴られているのではないかと、興味本位で手帳を手に取ろうとしゃがむと、ふと表紙に書いてある名前が目についた。
「橋田……?」
中身を見ようとかがんだその瞬間、後ろからトンと背中を押された。
「え……?」
手をついて身体を支えようとしたが、もう遅かった。
「うわぁあああああ」
渉は長い階段を、頭からゴロゴロとあちらこちらをぶつけながら落ちていった。
全身が痛い。動きたくても痛みで少しも動けそうにない。頭からダラダラと血が流れているのがわかった。
『バイバイ、パパ』
薄れていく意識の中で、そんな言葉が聞こえた気がした。
****
1年後。広香は、すやすやと眠る息子を抱き抱えながら、弁護士と最後の打ち合わせをしていた。
「やっと終わりましたね。新しい就職先も決まったようでよかったです」
「はい!色々とありがとうございました。先生にお願いして本当によかったです」
あれから内容証明に関する返答はなく、離婚調停に進んだが、それでも裁判所に渉は現れなかった。
というより、裁判所に行ける身体ではなかったのだ。
渉は歩道橋から何者かに突き落とされ、首の骨を骨折した。その時に頭を強く打っており、しばらくは意識も戻らなかったらしい。
渉の代理人として対応した義両親は、離婚や慰謝料を払うことに最後まで渋っており、なかなか話し合いではまとまらなかったが、不倫の証拠や普段の夫の態度をすべて記録していたこともあり、結局300万の慰謝料の支払いと毎月の養育費の支払いに決まった。
そして、のちにニュースを見て知ったのだが、渉が突き落とされたのと同じ日に、るり子は友人の細谷愛に包丁で刺され、下半身付随になってしまったという。るり子は仕事を辞め、家から一歩も出ない生活を送っており、愛は殺人未遂で逮捕されていた。
さらに警察の調べによると、その時るり子は渉と一緒にいたらしい。愛にはアリバイがあり、いまだに犯人は捕まっていないというが、渉を突き落としたのも愛なのではないかと広香は密かに思っていた。
事件はドロドロ三角関係と報道され、もちろん渉が不倫していたことも世間に知れ渡ってしまった。世間体を気にしていた義両親は今頃どうしているだろうかと、たまに考えるが同情する気にはなれない。
あんなに夫と不倫相手を憎み、復讐したいと思っていた広香も、最終的には息子を守れればそれでいいと思っていたが、やはり神様はいるのだろうか。
渉やるり子、愛の身に起こった話を聞いた時、こちらがわざわざ手を下さなくても、悪い人間には天罰が下るものなのだと、思わず感心してしまった。
請求書等をもらい、すべての手続きを済ませて立ちあがろうとすると、「あっ!最後に渡したいものが……」と弁護士がカバンの中から何かを探し始めた。
そして「あった、これだ!」と取り出したのは、一冊の手帳だった。
「橋田渉さんの弁護士からこちらの手帳を預かってるんですが、広香さんのもので間違いないですか?」
「これは……」
橋田広香、と書かれたその手帳は、確かに自分のものだった。
しかし、ずっと前に渉に破られ、捨てたはずだ。なのにどうして……。
広香は困惑の色を顔に浮かべながら、その手帳を受け取った。
「渉さんが道に落ちていたのを拾ったらしいです。まあ、気分的にもよくないと思うので、必要なければこちらで処分してもいいんですが……」
「いえ、一応持ち帰ります。ありがとうございます」
そう言って立ち上がった後、広香はもう一度お礼をいい、広香は弁護士事務所をあとにした。
駅までの道を歩きながら、手帳を開いた。
これが本当に、自分と一緒にタイムリープし、自分を助けてくれた手帳ならば、こうやってまた自分の手元にまた戻ってくるのも不思議ではなかった。
日記の欄を確認すると、過去に戻ってきた4月22日で日記は止まっていた。その先のページを見ても真っ白で、まるで自分の暗い過去がすっかり消えてリセットされているようだった。
元々、この日記は妊娠中の思い出や産まれてくる赤ちゃんへの思いを綴るために買ったものだった。しかし、いつの間にか渉に対しての愚痴や不満。妊娠中の苦しさ。将来への不安。そんな暗い内容で埋め尽くされてしまった。いつか子供が大きくなったら見せてあげようと思っていたが、あのままではとても見せられたものではなかった。
4月22日。その日までの日記は、広香がまだ渉の裏切りに気付く前。悪阻に苦しみながらも、まだ未来に対する希望を失っていない頃。赤ちゃんの誕生をただただ心待ちにしていた時期のことだ。
「ふぇ……」
いつの間に目が覚めたのか、抱っこ紐の中で息子がぐずり始めた。よしよしと背中を優しく叩きあやしていると、息子のあたたかい体温が自分の身体にも伝わり、心までじんわり暖かくなるような気がした。
「そうだ……もう一度書き直そう」
この子の命を守り抜くために、過去に戻ってきたあの日から、辛いこともあったけれど、それでも希望は失わずにいた。
一人だったらいつまでも渉や義両親に囚われていたままだったかもしれない。けど、この子がいたおかげで、最後まで耐え抜き、頑張ることができたのだ。
離婚協議の最中でも、妊婦検診は毎回広香の楽しみであり、癒しだった。
毎回の検診で言われた医者からの温かい言葉や、エコーであくびをしているのを見た時、胎動が激しくて元気な子なのだと喜んだ日。お腹の子と一緒に戦ってきた日々のことは、今でもはっきりと覚えている。
この子が大きくなったらそんな日々の記録を見せてあげよう。
「ありがとう。あなたのおかげでお母さん頑張れたんだからね」と感謝の気持ちを伝えて、「産まれてくる前からずっとあなたを待ち望んでいたんだよ」と思い出を共有しよう。
広香はまた穏やかな顔で眠り始めた息子のおでこにキスをし、手帳を大事そうにカバンにしまった。
過去に戻ったサレ妻は夫を捨てようと思います【第二回夫にナイショコンテスト佳作作品】 真夏あお @manatsuao
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