第9話 追い詰められた不倫夫

****


 広香と会った数日後、自宅に内容証明郵便が届いた。渉は憤る気持ちをなんとか抑え、中を見る。

 入っていた書類には、慰謝料請求と養育請求、そして親権についての要求が記載されていた。


(こっちは探偵まで雇ってあいつの居場所を突き止めたんだぞ……!一体いくらかかったと思ってるんだ!それなのに、まだあいつは金を要求するなんて……)


 さらに、同封されていた写真には、リビングでるり子と口付けを交わす様子や、寝室で性行為に及ぶ自分の姿が映っていた。


「こんなのいつから……!」

 

 いつの間にか、部屋にカメラが仕掛けられていたのだ。

 こんなのプライバシーの侵害じゃないか!と思わず写真をグシャっと握りつぶした。

 

 これまで広香には何不自由ない生活をさせてきたつもりだった。広香も働いてはいるが所詮は事務職、給与など頭打ちで、子供が産まれてからは生活費のほとんどは自分が出し、広香は専業主婦にでもなるものだと思っていたのだ。

 しかし広香は仕事を辞めず、子供が産まれてからも働き続けたいと言っていた。


 専業主婦になれば、家でダラダラしているだけで生活ができるというのに、わざわざ働きに出る広香の気持ちがわからなかった。そうまでして金がほしいのだろうか。結婚前はそこまでがめつい女ではなかったのに……、と渉は選んだ女を間違えたかもしれないと今になって思った。

 


 封筒の差出人を見ると、広香は大手の弁護士事務所に依頼しているようだ。いつの間にこんな手続きをしていたのだろうか。

 本気で離婚しようとしている妻に腹が立ち、渉は「ああー!!!!」と叫びながら、散らばるゴミを蹴った。


 とりあえず広香に連絡しよう。連絡は弁護士を通せと書いてあるが、どうして妻と連絡をとるのにわざわざ第三者を介さなければいけないのか、渉には理解できなかった。それに、電話で適当に平謝りしておけば、広香の機嫌もなおるはずだ。

 実際に、自分の母親は夫がどんなに浮気をしようと、暴力を振ろうと、謝られればすべて許していた。

 

「お父さんがいないと私はダメだから」

 

 それが昔から母の口癖で、理想の妻を体現しているように思えた。

 広香だって、今から子供も産まれるというのに、自分なしでは生きていけるはずがない。

 

 広香に連絡しようとスマホを取り出すと、ちょうど愛からメッセージが来ていた。


『今、電話できる?話したいことがあるの』


 そのメッセージを読んでしまったことを、渉は早速悔やんだ。


「はあ……めんどくさい女だな」


 最近、愛からの連絡頻度が異様なまでに増え、その異常さに気づいた渉は距離をとっていた。


 愛はセフレであるるり子から紹介された女だ。面白いくらい騙されやすい女で、少し好意を匂わせただけで股を開き、さらには「最近妻にお小遣い減らされて……」と愚痴を言うと、ホテル代まで出してくれるようになった。もちろんうちは小遣い制などではない。


 愛もるり子ほど綺麗ではないが、とにかく呼べばいつでも性欲処理の相手になってくれる便利な女だった。


(そうだ……るり子も愛も、僕にとってはただの性欲発散のツール、遊びでしかない。そのことを知れば、広香だって納得するだろう)


 いつでも抱ける女を失うのは惜しいが、しばらく愛と連絡をするのはやめよう。

 そう決意して、渉は返信をスマホに打ち込んだ。


『ごめん、忙しいからしばらく会えない』


 そう返信すると、愛からすぐに返事が来た。


『私、渉さんとの子供を妊娠したよ』

 

「はあ!?」


(ありえない……妊娠だと?)


 「冗談だよね?」と送ろうとすると、愛からエコー写真が送信されてきた。

 嘘ではない、本当に彼女は妊娠したのだ。

 

 ただでさえ広香とのことでストレスを感じているのに、好きでもない、別れたいとすら思っている女が妊娠しただなんて、最悪の状況だった。


 急いで愛に電話をかけると、スマホの前で渉からの連絡を待っていたのか、愛はワンコールで電話に出た。


「もしもし」


「おい、妊娠したって本当なのか?」


「うん。本当だよ。だから、産んでいいよね?私たち、結婚するんだから」


「ちょ、ちょっと待ってくれ!今どこにいるんだ。一回落ち着いて話そう」

 

 元々勘違いしやすいタイプだとは思っていたが、愛は当然のように自分と結婚するつもりのようだ。

 渉はどうにかして愛を諦めさせようと、頭を捻らせた。

 

 

 

 

 電話を切ってすぐ、家の近くの公園で愛と待ち合わせた。

 ベンチに座っていた愛は、渉の顔を見るなりわざとらしくお腹に手を当てながらこちらに手を振った。


「……渉さん!」


「久しぶりだな……」


「うん!会えて嬉しい!この子も喜んでるよ、パパと会えて!」


 そういって愛おしそうに自分のお腹を撫でる愛に、渉はゾッとした。


「そのことなんだけどさ……悪いんだけどその子は堕ろしてくれないかな」


「え……?」


「妻とは色々あってまだ離婚できないんだ。愛のことは大好きだし、いつか一緒になりたいって思ってたけど、今はその時じゃない」


「……けど、奥さんはもう渉さんには会わないって、離婚するって言ってたよ」


「広香と会ったのか!?」


「うん。私が渉さんとのこ子供を妊娠してるってこともちゃんと話したよ」


 渉は愛の勝手な行動にイラつき、舌打ちをした。こいつのせいで、さらに広香が有利になり、慰謝料を請求してきたかと思うと、今すぐ首を絞めて殺してやりたいくらいの衝動に駆られた。


「お前のせいで僕は……」


「それでね、あの人変なこと言うんだよ。渉さんがるり子ちゃんとできてるって。不倫してるって。ねえ、嘘だよね?」


「……」


 広香がすべて話したのだろう。愛がそこまで知ってしまったのなら、もう何も隠す必要はないように感じた。愛を切ったとしても、るり子はいるし、新しい女が欲しくなればまた探せばいい。面倒な女はここでいさぎよく切った方が、後々いいかもしれない。

 そう思うと、渉は少し気が楽になった。もう嘘をつく必要も、自分を偽る必要もないわけだ。


「ああ、そうだよ。るり子ともシテる」


「なんで浮気したの……?私のこと愛してるって言ったよねえ!?大好きだって、結婚したいって……!」


「浮気?本当にバカなんだな」


「え……?」


「そんなのヤリたくて、嘘ついたに決まってるだろ? それなのに妊娠したとか、結婚とか、めんどくさいこと言うなよ……。子供も絶対堕ろせよ。僕はちゃんと避妊してたんだから、妊娠したのは君の責任だ。手術代はそっちででなんとかしてくれよ。僕にはもう二度と連絡してこないでほしい」


「渉、さん……?」


 愛の顔がどんどん青白くなっていく。全身が小刻みに震え、少し押しただけで、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。


「ねえ、いいの……?男の子だよ?渉さんがずっとほしいって言ってた男の子がここに!私のお腹にいるんだよ……?」


「バレバレの嘘つかないでくれ。こんなに早く性別なんてわかるはずないだろ」


「嘘じゃない!この子は絶対男の子なの!」


 目を大きく見開きそう訴える愛を、渉はうんざりした顔で見た。


「……どちらにせよ、子供を認知する気はないから。もう会うのも今日で最後だ」


「やっぱりるり子ちゃんの方が大切なんだね。るり子ちゃんのせいで……あのアバズレ女のせいで渉さんは変わっちゃったんだ……」


「るり子は別に関係ないだろ……」


 すると、愛は突然カバンからナイフを取り出し、自分の腹に向けた。

 渉はギョッとして、後退りした。

 

「おい、何してるんだ!やめろ!」


 こんなところで自殺未遂でもされたら、警察に事情聴取されるのは渉だ。もしかしたら会社にも連絡がいって、不倫の事実や広香とのゴタゴタもバレるかもしれなかった。

 面倒ごとには巻き込まれたくない。渉は愛からナイフをとりあげようと、手首を思い切り掴む。


「離して!私のこともお腹の子もどうでもいいんでしょ!だったらここで死んでやる!死んでやるから!」


「死ぬなら一人で死ねよ!お願いだから僕を巻き込まないでくれ!」


 暴れる愛を足で蹴り、無理やりナイフを奪う。

 その拍子に、後ろにドスンと倒れた愛は、苦しそうに顔を歪めながらお腹を抑えた。


「痛い……」


「もう二度とこんな真似するなよ!」


「痛い、痛い、痛いよ……渉さん……どうして」


 痛みに顔を歪める愛は、まるで呪文のようにブツブツと何やら呟いていたが、一刻も早くこの異常な女から離れたかった渉は、奪ったナイフを遠くの方に投げ、足早にその場を去った。


 

 


 愛との揉み合いですっかり疲れ果てていた渉が自宅に帰ると、両親がリビングに座っていた。


「母さん、父さん……」


「ちょっと渉!広香さんから聞いたわよ!離婚ってどういうこと!?」


 帰ってくるなり、離婚という話題を出され、さらに苛立ちが募る。すべて解決してから報告しようとしていたのに、広香はすでに両親にも連絡していたのだ。


「色々あったんだよ。全部あいつが悪いから」


「けど、あなた慰謝料まで請求されてるんでしょう!?橋田家の跡取りが、あんな小娘に取られていいの?せめて親権だけでも……」


「わかってる。なんとか説得するから」


「もう、だから嫌だったのよ!あんな育ちの悪い子を渉の嫁にするのは!シングルマザーの子供なんて、ろくな育ち方してるわけないじゃない!」


 ヒステリックに叫ぶ母親の隣で、父親が厳かな顔で口を開いた。


「渉」


「……はい」


「不倫だなんてよくある話だから、別に責めるつもりはない。ただ、自宅に不倫相手を連れ込むのは爪が甘かったな。浮気するならバレないようにしろ。それが今回の教訓だ」


「……」

 

 広香は実家に、不倫の証拠まで送りつけたらしかった。そうまでして自分を追い詰める妻の徹底ぶりに、頭の血管が切れそうになるほど怒りが募る。


「今からでも遅くはない、広香さんに謝って、関係を修復しなさい」


「けど……」


「金なら好きなだけ払ってやればいい。だが、離婚はダメだ。不倫ごときで離婚したなんて知られたら、お前に結婚祝いをくれた親戚に、顔向けできないだろう。橋田家の恥になりたくなければ、どんな手を使ってでも広香さんを取り戻すんだ」


「わかりました……」


 父の強い口調に、自分には広香を連れ戻すしか選択肢がないことを悟り、渉はぐっと握り拳に力を込めた。



****


 会社からの帰り道、スマホの通知画面を見ながら広香はため息をついた。

 

 直接の連絡はやめてくれと伝えたはずなのに、相変わらず渉からの連絡は途絶えなかった。

 特に今日はしつこく、もう朝から何十件も着信がある。


 内容証明を送ってからもう数週間が経とうとしているが、渉からの返答はまだ来ていない。

 このまま期限を超えても無視を続けるようであれば、離婚調停を家庭裁判所に申し立てなければならない。その準備もすでにできてはいるが、離婚まで長丁場になりそうな予感がして、広香は憂鬱だった。


 もうすっかり季節は夏に移り変わり、お腹は服を着ていてもわかるほど膨らんできた。臨月まではまだ時間がある。


(絶対に守るからね)


 そう心の中で呟き、愛しいお腹を撫でた。


「広香……!」


 すると、突然自分を呼ぶ聞き覚えのある声が聞こえた。

 そこにはげっそりとした顔の渉が立っていた。ヒゲもそっていないようで、広香が知る渉とは別人のようだった。


「渉さん…っ!なんでここに……」


「なあ、広香!戻ってきてくれよ!お願いだから!」


 駅の近くで、人通りが多い場所にも関わらず、渉は膝をついて、広香に縋りついた。

 

「やめて!触らないでよ!」


「ごめんって何度も言ってるだろ?悪いところがあったなら、なおすよ。僕には広香がいないとダメなんだ」


「何を言われてもあなたとやり直す気はないから!わかったらさっさと帰って!警察に通報するわよ」


「……っ! なんで君はそんなに意地をはってるんだ!この僕が、こんなに謝ってるんだぞ!元はといえば君が全て悪いのに!」


「ほら、それがあなたの本心でしょ?悪いだなんて少しも思ってないじゃない」


「……」


「離婚したい理由は不倫だけじゃない。毎日男ってだけで偉そうにされるのに、うんざりしたの。一人じゃ掃除や洗濯もできないくせに、家ではいばって私に命令ばかり。そんな人と一緒に生活していけるわけがない。私、もう限界なの。あなたのことが嫌いなのよ!」


「……」


 広香から聞く本音の数々に、少なからずダメージは受けているようだった。

 渉は、わなわなと震え、目には涙が浮かんでいるようだった。


「僕がすぐ会いに来なかったから怒ってるのか?」


「は?」


「……今、愛に付き纏われてるんだ。だからずっと広香に会いにこれなくて……」


「愛って……」


 あの後、やはり愛は渉に妊娠の事実をつたえ、仲がこじれたのだろう。SNSの更新はずっと止まっていた。


「あいつ、僕の会社まで来て大声出して、暴れたんだ!そのせいで、誤解されて会社でも立場がないんだよ……!僕と結婚する気でいるらしいんだ。僕が愛してるのは広香だけなのに!あいつは勘違いしてるんだよ」


 そんな話をして同情してもらえるとでも思ったのだろうか。相変わらずの浅はかな考えに、広香は呆れてため息をついた。


「……そんなの私には関係ないことよ。あなたの自業自得じゃない」


「関係ある!君は僕の妻だろ!」


「もうあなたの妻じゃない。会うのは本当に今日で最後だから」


 そう言い捨て、広香が渉に背を向けると、後ろから渉の弱々しい声が聞こえた。


「君だけで、本当にその子を育てられるのか?」


「……」

 

「その子も、君と同じひとり親にするつもりか?」


 渉の言葉に、広香は思わず立ち止まった。


「あんなに父親がいないことを気に病んでたのに、君は自分の子供に同じ思いをさせるのか。君のエゴで!」


 確かに広香にとって父親がいないことは、幼少期からのコンプレックスだった。

 だが、今ならわかる。父親を亡くしたあと、自分のために朝から晩まで働いてくれた母親の愛情は本物だった。片親でも、十分なほどの愛情を注がれて、広香はすくすくと育ったのだった。


 広香は大きく息を吸った。そして、何度言っても理解しない渉に、今まで出したことのないような大声をぶつけた。


「私はもうあなたを捨てたの!わかる!?ゴミみたいな父親なら、いない方がずっとマシなのよ!」

 

 そう叫ぶとスッキリした。ビリビリと全身に電気が走ったような感覚がして、アドレナリンが出ているのを感じる。

 広香の声に、通行人の何人かがこちらを振り返ったが、今日くらいはこうしてこの夫を突き放すのを許してほしい。


 膝をつき、呆然とこちらを見る渉は魂が抜け落ちたかのようで、かつて広香を支配していた夫と同一人物とは思えなかった。

 広香は渉を置いて、そのまま駅に向かった。


 今夜、広香は夫を捨てたのだ。素晴らしく晴れやかな気分だった。

 



 

****


 真っ暗な部屋で一人、愛はまだ痛むお腹をさすりながら、大粒の涙をこぼしていた。


 「私の赤ちゃん……本当にいなくなっちゃったの?」


 渉に蹴られ、突き飛ばされた後、下半身から大量の血を流した愛は急いで病院に駆け込んだ。子宮の中を調べるとそこに命のかけらはなく、愛は流産していた。

 

 まだ妊娠初期で不安定な時期だから仕方がないよ。と医者に言われた時、愛は思わず「この子は殺されたんです!」と叫んでいた。

 しかし、そんなふうに訴えても医者には相手にされず、そのまま追い出されるような形で病院をあとにしたが、愛は本気で子供を渉に殺されたと思っていた。

 

 渉に会うために会社にも行ったが、警備員に止められ、近づくことが禁じられた。渉の妻になるはずの女だったのに、どうしてこうなったのかわからなかった。


「許さない……るり子も渉さんも……。私を裏切ったこと、後悔させてやる」


 暗闇で響く愛の言葉には、身の毛がよだつほどの憎悪がこもっていた。

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