第8話 愛の正体

****


 渉と別居を初めて、もう2週間が経とうとしていた。

 不思議と渉と離れてから、酷かった悪阻もおさまり、驚くほど平和な日常が過ぎていた。

 しかし、いつまでも莉央に甘えて、ここに留まるわけにはいかない。

 

 莉央の彼氏、修二に紹介してもらった弁護士とは何度か話し、集めた証拠を見せると離婚を要求するのにはすでに十分な量のようだった。

 

 離婚の手筈は整った。来月頭には渉に内容証明が送られる。離婚協議の間、広香はウィークリーマンションを借り、様子を見て実家にいる母にも事情を説明するつもりだ。

 広香の結婚を心から喜んでいた母に、離婚するという事実を伝えるのは心苦しい。しかし、一人娘である広香と、初めての孫を失ってしまうことよりは、ずっとマシなはずだ。

 

 離婚の成立までは一般的にはやくても半年、遅いと二年以上かかる。これから乗り越えなければいけない試練を思い、広香は自分を奮い立たせた。

 


 


 その日の晩、仕事から帰ってきた広香は莉央と共にキッチンに立っていた。


「久しぶりにカレー作るな〜。一人暮らしだと大量に余らせちゃうんだよね」


「今日は三人分だからね。ルー足りるかな」

 

 とりとめもない話をしながら、カレーに入れる具材を切っていく。

 

 今日は修二も加わり、三人で食事をとる予定だった。二人の邪魔になるかもと思い、ホテルに滞在しようかとも思ったが、修二が三人でご飯を食べましょうと誘ってくれたのだ。

 広香の話によると、修二には女遊びが激しかった過去があるようだが、広香から見ればあんなに優しくて一途な彼氏はいない。それより、女遊びもせずに大人になり、結婚してからハメを外す渉の方がろくでもない男だと、思わずため息が出る。

 

 すると、突然インターホンが鳴った。


「あっ!修二が帰ってきたのかも!」


 莉央が「はーい」と返事をしながら、オートロックを解除する。

 しかし、次の瞬間、莉央の顔がさっと青ざめた。


「どうしよう、広香……渉さんだ」


「え?」

  

 急いで広香の元に駆け寄ると、インターホンの画面には厳しい顔で自動ドアを抜ける渉の姿が映っていた。

 広香を連れ戻しにきたのだ。なぜ居場所がバレたのだろうか、と不安で息が止まりそうになる。しかし、今はそんなことを考えている余裕はない。


「ごめん、広香……!」


「ううん。莉央は何も悪くないでしょ」


 動揺している莉央を慰めながらも、内心では広香も焦っていた。


 ピンポーンとまたインターホンが鳴る。


「どうする?」

 

「無視しよう。しばらくしたら、渉さんも諦めて帰るだろうし」


 するとまたインターホンが立て続けに鳴った。二人が身動きもとらずじっとしていると、今度はドアをドンドンと叩く音が聞こえた。


「おい!広香!いるんだろ!!」


 渉の大きな声が中まで聞こえてくる。すると、莉央はゴクリと唾を飲み込んで言った。


「やっぱ私が代わりに渉さんと話してくる!広香は奥に隠れて……」


「ううん、私が出る。このままじゃ、近所迷惑になっちゃうし」


「けど、もし殴られたりしたら……!」


「大丈夫だよ。あの人は人前で暴力ふるったりしないから」


 少なくともここは公共の場で、近くには莉央もいる。外面がいい渉が何かするとは思えなかった。それに、確かに渉と顔を合わせることに恐怖心もあったが、このまま無視し続けた方が、状況は悪くなる気がした。

 

 広香が意を決して玄関のドアを開けると、そこには狂気じみた顔の渉がいた。

 

「何度連絡したと思ってるんだ……!」


「意図的に無視したのよ。それで、こんなところまでなんの用?」


「なんだその態度は……っ!」


 と前のめりになった後、広香の後ろに莉央がいることに気づいたのだろう。渉は途端に眉を下げ、ため息をついた。


「……僕はただ、謝りたかったんだ。手帳破いてごめん。だから、戻ってきてくれないか。莉央さんにも、これ以上迷惑かけるわけにいかないだろ」


 そんな軽い謝罪一つで、戻ってくるとでも思っているんだろうか。広香はあまりにも傲慢な渉の言葉に面食らった。それに、今更謝られたところで、戻るつもりは毛頭ない。

 

「離婚するって言ったでしょ。もうすぐあなたのところに弁護士さんから内容証明が送られるはずです。今後は弁護士を通じてやりとりしましょう」


「なんで突然そんなこと……!僕が何かしたか?あの時は、君が離婚を考えてることを知って、頭に血が上っただけで……」


「本当にそれだけの理由で私が離婚したいって言ってると思ってるの?」


「……」

 

「私、全部知ってるんだよ。……渉さん、一ノ瀬さんと不倫してるでしょ?」


 るり子の名前を出すと、途端に渉の目が泳いだ。


「いや、それは……」


「証拠もあるから。言い逃れしたって無駄」


「……あの子とは遊びなんだ!それくらい許してくれよ!そもそも君が全然相手してくれないから、他の女で満たすしかなかったんだ。わかるだろ?」


「私は……夫を裏切ってまで、自分の欲を満たそうとなんてしない」


 広香の言葉に、渉は苛立ったように頭を激しく掻きむしり、大きな声を出した。


「男と女は違うだろ!!!」


「何が違うんですか?」


 渉が突然聞こえた声に驚き、後ろを思い切り振り向く。莉央の彼氏、修二だった。


「修二!」


 莉央が泣きそうな顔で名前を呼んだ。


「なんですか、あなたは……」


 渉はというと、頭ひとつ分身長が高い修二に、わかりやすく萎縮していた。


「はじめまして、加藤修二です。莉央の彼氏です」


 修羅場にも関わらず、そう言って爽やかに微笑む修二を見てなぜかホッとする。


「ごめんなさい、修二さん。巻き込んじゃって。この人にはすぐ帰ってもらうから」


「おい!話はまだ終わってないだろ!」


 渉は広香をギロリと睨んだが、笑顔でじっとこちらを見つめる修二の視線に気づいたのか、ペコペコとお辞儀をしながら「すみません、ご迷惑をおかけして」と謝った。


 渉は女性に対してはいつも強く出ていたが、男性、得に自分より地位が高い、年収が高い、年齢が高い、身長が高い男性相手では、途端にへりくだった。相手の立場によって態度を変える、醜い男なのだ。


「いえいえ、こちらこそ間に入っちゃってすみません!面白そうな話してるなーと思って。それで、男と女はどう違うんですか?」


「それは、その、そういうのあるじゃないですか男には……」


 と、渉がこびへつらうように目配せするが、修二はその視線を振り払い、にこやかに言った。


「男であろうが女であろうが、相手を傷つけていいわけがありません。まずはそのことを謝ったらどうです?」


「……っ」


 修二の言葉に、渉の顔が燃えるように赤く染まっていく。こうやって妻の前で他の男に説教じみたことをされるのが、屈辱的なのだろう。

 渉は口をぱくぱくとさせるが、反論の言葉は出てこないようだった。


「まあ、今日は僕と莉央と広香さんの三人で食事の予定があるので、旦那さんはまた後日来ていただけますか?」


「ですが、これは僕と妻が話し合うべき問題で……!」


「今は興奮状態のようですし、話し合える雰囲気じゃないですよ。もしよければ、話す時は僕もご一緒します。第三者がいた方が、スムーズに進むと思うので。とりあえず今日はおかえりください」


 修二は有無も言わさぬ言い方で、エレベーターの方を手で指し、にっこりと微笑んだ。

 渉はその恐ろしいほど綺麗な笑顔に圧倒されたのか、オドオドしながら後退りした。


「そう、ですね……」


「では、また」


 修二が呆然と立ちすくむ渉を置いて、部屋の中に入りドアを閉めた。

 閉まる直前のドアの隙間から見える渉は、血が出そうなほど強く唇を噛み、足元のコンクリートをじっと見つめていた。

 



 渉を追い返してくれた修二に、莉央は「あんたやるじゃん!」と嬉しそうに背中を叩いた。

 修二には弁護士を紹介してもらったこともあり、夫と何があったのかは一通り説明していた。それなのに、冷静に対処してくれたおかげで助かった。


 しかし、あの様子では次なにをしでかすかわからない。この場所もバレてしまったのは、もしかしたら尾行していたのか、探偵を雇っていたのかもしれない。

 

 その日から数日後、広香は引き止める莉央にお礼を言って、ウィークリーマンションに引っ越し、内容証明が渉の手元に渡る日を待った。



 


****


『だーりんのことが好きすぎて死んじゃいそう。いっそ私のこと殺してくれればいいのに』

『彼、奥さんともうすぐ離婚するらしい。嬉しい嬉しい嬉しい。けど、色々言われて元気ないみたい。あのクソババア、今度彼に酷いこと言ったら殺してやる』

『彼に近づく女は全員消えて。お願いだから』


 タイムラインに流れるそんな投稿を見て、広香は思わず口元を手でおさえる。


 仕事からマンションに帰って、るり子のSNSをチェックするのが広香の習慣になっていた。不倫の証拠はすでに掴んでいるが、あまりにも投稿の内容が過激で、もしかして自分のことも名指しで書かれるんじゃないかと、恐ろしかったのだ。

 

 会社で別居について話したあの日、広香の思惑通り、るり子は渉のいる自宅に押しかけ、夫と寝ていた。

 後日、その映像を見た時、怒りと吐き気でまた悪阻が始まったのかと勘違いするほどだった。


 そんな広香が不倫現場の鮮明な映像を最後まで見られるわけもなく、撮影したデータを弁護士に送って確認してもらった。映像には二人の顔がはっきりと映っており、不倫の証拠として十分過ぎるほどだと言われた時は、心底ホッとしたものだ。


 しかし、なぜかその日のSNSの投稿には、夫とのことが書いてなかった。朝まで行為を続け、投稿する暇がなかったのだろうかと思い、想像してまた気持ち悪くなる。


 そのままタイムラインを眺めていると、るり子の新しい投稿が目に入った。


『ご報告。なんと愛するだーりんとの子供を妊娠してました!喜んでくれるかな。今度サプライズで報告するつもり』

 

「妊娠って……!」


 避妊もせずにるり子と性行為をしていた渉に呆れると同時に、階段から突き落とされた時に聞こえた、「あんたさえいなければ……!」という言葉を思い出した。


(もしかして、あの時も一ノ瀬さんは妊娠してた?けど、渉さんが不倫相手の子を認知するわけがない……。つまり、一ノ瀬さんは私のせいで子供を失ったから、恨んで私とお腹の子を殺そうと……?)


 手帳を見て変化しているはずの未来を確認したいが、渉のせいでもう確認ができない。

 だが、もしこの推測が正しければ、渉に堕ろせと言われたるり子は、真っ先に広香のお腹にいる子を殺しにくるだろう。それだけは避けなければならない。


 るり子とは極力関わらないつもりだったが、こうなったら仕方がない。広香はるり子のアカウントに「橋田です。改めてお話があるので、明日会いませんか」とダイレクトメッセージを送った。





****


 人気のない純喫茶の窓際の席で、広香はるり子の到着を待ちながら、昨日来た返信を見返す。


 『いいですよ。場所はどちらがよいですか?』

 

 るり子からの返信は拍子抜けするほどシンプルで丁寧なものだった。普段の彼女からは想像もできない文体だ。不倫がバレているとわかり、腹を括ったのだろうか。

 だが、今日はるり子を責めるために来たのではない。自分が渉と離婚する気であること、夫と自由に交際してくれて構わないと伝えるために来たのだ。


 緊張をほぐすため、アイスコーヒーを一口飲む。すると、黒髪のメガネをかけた若い女性が広香のテーブルに近づいてきた。


「広香さんですか?」


「はい、そうですけど……」


 どこか見覚えがあると思ったら、るり子のSNSに載っていた写真に写っていた女性だった。るり子の代わりにきたのだろうか。「一ノ瀬さんは……」と尋ねようとすると、女性は広香の目の前に座り、静かな声で言った。


「はじめまして。橋田愛です」


「え?」


 と思わず大きな声が出た。


「なんで驚いてるんですか?まだ籍はいれていないので、正確には旧姓のままですが、あなたがわーくんと離婚したあと、すぐに橋田になるので」


 顔色ひとつ変えず、早口でそう言う目の前の女性に、広香は開いた口がふさがらなかった。


 SNSの「愛」は、広香がずっと一ノ瀬るり子だと思っていた相手は、目の前にいるこの女性だったのだ。



 


 あまりの衝撃に、広香はしばらく声が出ずに固まっていたが、勝手に話し続ける愛の話を聞くうちに、徐々に状況が理解できた。


 橋田愛と名乗るこの女性は、渉と不倫関係にあり、SNSのアカウントも「❤️」の名前で送っていたメッセージもすべて彼女のものだった。渉とは大学の同期であるるり子の紹介で知り合ったという。つまり渉は、るり子と愛、二人と不倫関係にあるのだ。しかし、愛はそれを知らないのだろう。広香と離婚したあと、渉は自分と結婚してくれるものだと思い込んでいるようだった。


「るり子ちゃんも私たちのこと応援してくれてますし、あなたが出る幕はありません。別居してくれたのはありがたいですが、私たちの間には子供もいますし、早く渉さんの前から消えてくれますか」


「えっと……」


 強気な発言ではあるが、一方的で会話にならない。それに、愛は終始俯いており、聞き取るのに前のめりになる必要があるほど声が小さいのだ。

 SNSで煌びやかな生活や恋愛の話を投稿している人と、同じ人物だとは思えなかった。


「それで話ってなんですか?私も忙しいんです。はやく要件を言ってください」


「あのね、あなたの言うとおり私は夫と離婚する気でいます。今すぐにでも離婚したいくらいなの。だから、あなたが夫と付き合うのは自由だし、邪魔する気は……」


「もうあなたの夫じゃない! 元!夫!でしょ!」


 突然の大声に広香の身体がビクッと跳ねた。


はじめは、この女性が自分を階段から突き落とすことになるとは信じられなかったが、ふーふーと息を荒くしながらこちらを睨む彼女の様子を見ると、納得がいった。


彼女の怒りのスイッチがどこにあるかわからないため、広香は恐る恐る言葉を続けた。


「そ、そうね……それで、その、元夫について、私は本当にもうなんとも思ってないの」


「……」


「だから、夫と結婚するのも自由にしてください。その代わり、あなたも今後私には関わらないでほしい。養育費は請求するけど、子供には会わせる気はないし、この先一生関わりたくないと思ってるから」


「嘘だ」


「え?」


「じゃあ、なんで渉さんは結婚の話を先延ばしにするわけ? なんで最近冷たくなったの? あんたが渉さんを引き止めてるからでしょ!」


「それは……」


 渉が世間体を気にするあまり離婚を拒絶している可能性は大きいが、愛に対して冷たくなったのは、もしかしたら本命の不倫相手がるり子だからなのかもしれない。

 しかし愛は、渉の相手は妻である自分のみだと思い込んでいる。このままではいくら説明しても、渉に相手にされないのは広香のせいだと決めつけてくるに違いなかった。

 

 言うのに一瞬迷ったが、るり子を庇う義理もない。広香は思い切って口を開いた。


「あなたのお友達の一ノ瀬さんも、渉さんと身体の関係を持ってるの」


「え……?」


「信じられないと思うけど、うちの寝室でセックスしてる二人の動画も持ってるし、あの人も認めたわ。これは写真だけど……」


「かしてっ!!!」

 

 愛が広香の手からスマホをふんだくり、震える手で、リビングでキスをする二人が写っている写真をなぞった。


「嘘……私のことだけを愛してるって言ってたのに……るり子ちゃんだって、私たちのこと応援してるって……」


 愛の目にはみるみるうちに大粒の涙がたまっていった。


「けど、けど……!私、渉さんとの子供妊娠してるから!るり子ちゃんとは別れて、私だけを見てくれるはずなんだから!」

 

「そう思うなら、本人に確かめてみたらどう?」


 もし渉に振られたりなんかしたら、この女はきっと逆上して渉のことを刺してしまうかもしれない。

 それくらいの狂気が、彼女の目には宿っていた。しかし、それもすべて純粋無垢な女性を騙した渉の責任だ。


「あなたと会うのもこれが最後だと思うから。渉との幸せを願ってるわ」


 広香はるり子の手から自分のスマホを抜き取り、立ち上がった。万が一、渉と結婚できたとしても幸せになれるはずがない。自分の二の舞になるだけだ。

 

 喫茶店の外に出て、ちらりと愛の方を見ると、身動きひとつせず、ただただ涙を流し俯いていた。

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