第7話 家出

****


「離婚するなら、少なくとも弁護士は雇わないといけないわよね。いくらくらいするんだろう」


 ネットで弁護士を雇う費用、離婚までの手順、そこに至るまでの期間など、さまざまな記事を調べ、手帳にメモをしていると、渉が素っ裸で寝室に顔を覗かせた。


「風呂あがった。次はいって」

 

「わかった」

 

 広香は急いで手帳を閉じる。


 ここ数週間は平和な毎日だった。と言っても、姑との一件があってから渉はどこか広香に対して距離をとっているようで、理不尽なことで怒鳴られることも減った。姑も勝手に家にあがりこむことはなくなり、吉兆であるように感じたが、油断はできない。

 

 手帳をこまめに確認しているが、いまだに10月21日までの日記でとまっている。渉の不倫が発覚し、里帰りが早まり、そして渉との話し合いのため、自宅マンションに向かう。そして、るり子に殺される10月22日の日記は空欄のままで、自分とお腹の子が死ぬ未来は変わっていないようだった。


 

 渉が寝室から出ていったあと、広香は手帳に鍵をかけ、カバンの中にしまった。

 

 


****


 「もうすぐ自由になれるよ」

 

 熱い湯船につかりながら、広香はお腹をなでて、そう言った。

 渉の不倫相手が誰かわかった今、不倫の証拠を掴むのは以前より簡単になった。

 ご丁寧にSNSに不倫の証拠となる投稿をしているるり子は、まさか自分が慰謝料を請求されるとは思っていないはずだ。


 もしかすると、社長令嬢の彼女にとって慰謝料など痛くも痒くもないかもしれないが、子供を守れればそれでいい。そして、あのクソ夫と再婚でもなんでもして、同じ苦しみを味わえばいい。私はこの子と二人で幸せになる。

 

 そう思いながら、広香がお腹の方を見ると、ピクリと動いたような気がした。


「気のせいかな……?」


 少しずつではあるが、そろそろ胎動を感じる頃だ。


 しばらくすると、今度ははっきりピクッとお腹の中で動いたのを感じた。

 お腹の子が自分を応援してくれるような気がして、愛おしさで思わず笑みが溢れる。


 次の瞬間、外からダンダンダン!と大きな足音が聞こえたかと思うと、浴室のドアが思い切り開いた。


「おい!!!!」


 鬼のような形相でこちらを見る渉を見て、広香は思わずお腹を庇う。


「いきなり何……」


 すると、突然渉が広香の髪を掴み、思い切りお湯の中に押し込んだ。


「ちょっ……!やめ……っ!」


 抵抗して湯の中から顔を出そうとするも、男性の力には敵わず、押し返される。広香は息ができずにしばらくの間、苦しみ悶えた。

 熱い湯の中で意識を失いかけたその時、渉にぐいっと髪を掴まれ、頭を持ち上げられた。


「ゴホッゴホッ……!」


「このクソ女!自分の立場わかってんのか!」


「ゴホッ……一体なんの話を……!」

 

「こんないい生活させてもらっておいて、よく離婚だなんて考えられたな!そんな勝手な真似、絶対に許さないからな!!!!」


 唾を飛ばしながら怒鳴る夫の右手には、広香の手帳があった。鍵は壊されており、中身が丸見えだ。


(どうして……!)


「返して!」


「うるさい!こんなもの!」


 そう言って、渉は手帳を思い切り破り始めた。

 たくさんの紙屑が浴室に舞う。


「……ひどい。なんでこんなこと」


「ひどい?それは君の方だろ!君みたいなどうしようもない女を、嫁にしてやったんだぞ!よく離婚なんて考えられたな!この恩知らずが!」

 

 散々暴れて気が済んだのか、渉は手帳の残骸を湯船に投げ、勢いよくドアを閉めて浴室から出ていった。

 浴室に残された広香は、ただ茫然と湯に浮かぶ紙屑を見つめていた。


(今すぐ出て行かなきゃ……もうあいつと一緒には暮らせない)


 まだ証拠も不十分だ。だけど、このままでは不倫相手ではなく、夫に子供を殺されてもおかしくはない。

 広香は泣きじゃくりたいのをこらえ、静かに浴室を出た。

 

 



 

 洋服や化粧品、その他の私物をすべてまとめてリビングに行くと、渉がビールを飲みながらテレビを見て笑っていた。その後ろ姿に殺意が湧く。

 

「私、出ていくから」


 そう言うと、渉はちらりと広香を見て、そしてまたテレビの方に視線を向けた。


「もうあなたとは一緒に暮らせない」


「……なに言ってるんだ。もう二度と離婚だなんてこと考えなければ許してあげるから、大人しくしてなよ」


「離婚したいの」


 広香の言葉に、渉はバカにしたように鼻で笑った。


「まだそんなバカなこと言ってるの?君みたいな世間知らずが、一人で生きていけるわけないだろ」


「本気だから」


「ああ、そうかそうか。じゃあ、いいよ。出てけよ。言っとくけど、簡単に戻って来れると思うなよ。僕はそんなに甘くないからね」


 渉は本当に広香が出ていくとは思っていないようだった。出ていったとしても、すぐに音を上げて戻ってくる。そう思っているのだろう。


「さよなら」

 

 

 広香は荷物を持ち、短い結婚生活を過ごしたマンションを出た。この家にはもう二度と戻ってこない。そう強く決意して。


 

 

 



****

  マンションから三十分ほど電車に揺られ、莉央の家に着くなり、思い切り抱きしめられた。


「ちょっと、苦しいよ」

 

「だって……大丈夫なの?」


 なぜか莉央の方が泣いている。自分のために涙を流してくれる優しい友人を見て、広香は静かに笑った。


 「うん。もう離婚するのは決めたから」


 浴室に散らばった紙屑を拾い集め、浴室から出たあと、広香はすぐに莉央に連絡をした。

 

 死んでしまったあの日、遠のく意識の中、莉央に相談しなかったことを広香は心底悔いていた。

 自分一人で抱え込むのではなく、あの時莉央に頼っていれば、胸の内を明かしていれば、違う未来があったのかもしれない。


 震える手で「渉さんに不倫されて、離婚することにした。しばらく泊めてほしい」とメッセージを送ったあと、莉央から返信が来たのはその数分後だった。

 

 

 

 久しぶりに来た莉央の家は暖かく、広香はほっとして涙が出そうになるのをやっとのことで堪える。

 過去には言えなかったことを、今度は莉央に全て打ち明けた。

 

 妊娠前から夫に不倫されていたこと。その不倫相手が会社の後輩であること。手帳の中を見られ、暴力を振るわれたこと。結婚してから、渉の家庭での振る舞いに、辛い思いをしてきたこと。それら全てを話し終わった後、莉央はまた涙を流していた。


「ごめん、全然気づかなくって……」


「ちょっと泣かないでよ!気づかないのは当たり前だって。私が何も話してなかったんだから」


 莉央は広香の手をぎゅっと握りしめ、言った。


「絶対に不倫の証拠掴もう。それで、絶対に離婚成立させよう。私は最後まで広香の味方でいるから」


 莉央の言葉が心強かった。親にも心配させたくなくて、ずっと一人で抱えて戦ってきた。

 だけどそばに自分の味方が一人でもいることが、こんなにも心を楽にさせるとは思わなかった。


「私にできることがあるなら、なんでも言って! そうだ!彼氏の友達に弁護士さんがいたはず!相談したら助けてくれるかも」


「あ、そのことなんだけど……実は弁護士さんに依頼する前に、試してみたいことがあるの……」


 弁護士に頼むにしても、まずは決定的な証拠を掴まなければならない。

 広香はちょっとした計画を莉央に話した。


 


 


 翌朝、スマホには渉からの着信とメールが大量にきていた。

 内容は「調子に乗るな」「はやく帰ってこい」「今すぐ帰ってこないと、一生許さないからな」などの暴言がほとんどだった。家を出てまだ1日目だ。謝るという選択肢が渉にはないのだろう。もしくは、自分の何が悪いのかを彼は本当にわかっていないのかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、また渉からの着信がきた。朝から一体何回かけてくるつもりなんだろう。このストーカー並みのしつこさはきっと母親譲りだ。

 

 広香はバイブレーションが鳴り止まないスマホの電源を切り、出社の準備を始めた。

 


 いつも通り出社し、お茶をいれようと給湯室に行くと、後から入ってきたるり子が「おはようございまぁす」と挨拶をしてきた。

 その明るい口調に、もしかして、渉から何か聞いているのかもしれないと、嫌な気分になる。


「おはよう……」


「あれ、先輩なんか元気なくないですか?また悪阻ですか?」


 いつるり子に話を切り出そうかと考えていたが、ラッキーなことに、あちら側から声をかけてきた。話すなら、今がチャンスだ。


「……実はね、夫と喧嘩しちゃって」


「え?なんでですか?」


「まあ、色々あってね……。私今、家出中なの」


「えっ、まさかの別居!?大丈夫なんですか?」


 その言葉とは裏腹に、るり子の顔は嬉しそうだった。


「とりあえず今週いっぱいは、家に帰らないつもり。正直、もう離婚してもいいかなって思い始めてるし」


「え〜やっぱあんなに結婚式でラブラブだったのに、こんなにすぐ離婚だなんて、やっぱ結婚って夢ないですね」


「みんながこうじゃないよ」


「じゃあたまたま先輩が、男を見る目なかったってことかあ〜」


 広香が辛い状況下にいることが、るり子は相当嬉しいようだ。

 渉と不倫していることを気づかれているとも知らず、余計な一言で広香を苛立たせた。


「そうだね。私の見る目がなかったみたい」


 熱いお湯をるり子の頭から思い切り浴びせたいという気持ちをどうにか抑え、広香は眉を下げて言った。


 この女の好物は他人の不幸なのだ。

 広香は不幸という種をまいて、この世で一番醜い花が咲くのを待つだけだった。

 

 

「とりあえず元気出してくださいね」と上機嫌で去っていくるり子をみて、広香は自分の思惑通りに事が進むことを願った。


 


 



****


 広香が出て行ってもう一週間が経つ。

 渉は散らかったリビングを大股で歩きまわりながら、母親と通話していた。


「明日にでも来てよ。最近母さんが来てくれないせいで、部屋が汚いんだ。ここ数日まともなものも食べてないし……え?だから、広香は体調が悪くて実家に帰ってるって言ってるだろ?心配することないよ。とにかく明日家に来て!よろしく」


 そう言って、一方的に電話を切る。ため息を吐きながらリビングを見渡すと、目に入ってくるのはコンビニの弁当箱やペットボトルで散らかったテーブル、空き缶が転がった床。キッチンからは生ゴミの匂いが漂っていた。

 

 渉は近くにあった空き缶を、思い切り蹴飛ばし、叫んだ。


「あーっ!あいつのせいで最悪の気分だ!」


 数日すれば帰ってくると思っていた。「ごめんなさい、私が悪かったんです」そう言って謝る広香を想像していたのに、もう1週間も家に帰ってこない。まさか本当に離婚する気なのだろうか。

 

 渉は頭の奥がズキンと痛むのを感じた。


 なぜ広香が急に離婚だなんて言い出したのかがわからない。あいつが間違ったことをしたから叱ってやっただけで、自分は何も悪くない。浮気だって、鈍感な広香にはバレていないはずだし、万が一バレていたとしても、妊娠してからフェラすらしてくれない妻に非があるのだ。自分が広香に悪びれる必要性はまったくない。


 それに、妻には家を出て頼れる友人などいないはずだ。結婚式に来ていた妻の友人はほとんど既婚者だったはずだし、広香は休日はほとんど家にいて、もくもくと家事をしている。友人と会う日など、結婚してからほとんどなかったはずだ。妻はあまり社交的ではないタイプの女なのだろう。それなのに、一週間も一体どこで、何をしているのだろうか。


 渉は広香の行動が理解できず、ただただ頭を抱えるばかりだった。


 その時、インターホンが鳴った。


「誰だ……?」


 ドアを開けると、そこにはワインの瓶を持ったるり子が立っていた。


「るりちゃん……」


「先輩、今週いっぱいは家に帰らないらしいよ。入っていいでしょ?」


 ちょうどいい。そろそろ広香と同じ職場であるるり子に連絡しようと思っていた。

 広香の様子も聞きたいし、苛立ちからか性欲が溜まっていた。


「いいよ、入って」


 渉は躊躇うことなく、るり子を部屋に招き入れた。


 

 

 二人であっという間にワインボトルを1本空け、そのまま傾れ込むように寝室でセックスをした。

 久しぶりに抱くるり子の身体に、渉は満足感を覚えた。

 若い女を抱くこと。それこそが男のステータスであり、魅力的である証明なのだ。


 溜まっていたものを出し終えると、スッキリするのと同時に、渉はゴミが溜まり、散らかった部屋がどうしようもなく嫌になった。

 

 広香が家にいた時は、どれだけ部屋を汚しても、翌日には部屋は元通り綺麗になっていた。

 広香は綺麗好きなのだ。いつも喜んで掃除をしている姿を見て、やはり結婚するのはこういう女だと、自分の選択に満足していたのだが……。

 

 広香が出て行った今、部屋は日に日に汚くなっていく一方だった。

 片付けたくても、渉はゴミの分別の仕方もわからないし、自分で食べ残しや食器に触れるのが嫌だった。そもそも男が率先して家事をやるなんてことは、渉のプライドが許さなかったし、帰ってきた広香にこの溜まったゴミの片付けをさせて、反省させたかった。


 それにしても、るり子はこの部屋の汚さや不潔さが気にならないのだろうか。

 隣に目をむけると、いつ洗ったかもわからないシーツの上で、裸のまま足を曲げスマホをいじっている。

 その、光までも弾くような、やわらかく弾力のある太ももを撫でながら、渉はるり子に問いかけた。


「るりちゃんはさ、この部屋汚いのとか気にならないの?」


 試しに、裸でスマホをいじっているるり子に尋ねた。

 すると、るり子はあっけらかんと答えた。


「えー別にぃ。これくらいだったら全然気にならないけど」


「そうなんだ。俺、綺麗好きな方でさ。できれば後で洗い物とかして欲しいんだけど……」


「え?綺麗好きなら自分ですればいいじゃん」


「いや、そういうのは女性のやることだし……」


「うわっ!渉さんってそういうタイプ?」


「……そういうタイプって?」


「だから、亭主関白?っていうか?昭和っぽい古い考え方するんだなーって。あ、ごめんね!私、嘘つけないタイプだからさあ!」


 るり子は渉をちらりと見て、心底おかしそうに笑った。

 

「あはは……そうかな」


 渉は笑顔を作りながらも、内心では自分をバカにするるり子を殴り、裸のまま外に放り出したくてたまらなかった。

 

 るり子は若くて可愛くて隣に連れて歩くだけで自信が持てた。

 それに瑞々しい身体は一度抱くと、忘れられない。


 しかし、蓋を開けてみれば女のくせに家事もろくにできないし、気も利かない。

 それなのに、偉そうにわがままを言うのが、時折気に食わなかったのだ。


 渉はるり子からひょいとスマホを取り上げ、そして上に覆い被さった。


「ちょっと!何?」


「いいだろ。もう一回したくなった」


 女の上に立つにはセックスが一番手っ取り早い。

 どんな生意気な女もアソコを丸出しにして、ケツを叩きながら激しく挿入すると、「やめてやめて」と抵抗しながらも、気持ちよさそうに喘ぐのだ。


 広香は来週には帰ってくる。もしも帰ってこなかったら、居場所を突き止めて、無理やりにでも連れ戻してやる。

 汚れたシーツを変えるのも、溜まった洗濯物を洗うのも、生臭いゴミを処理するのも、妻の役目だ。

 その役目を何週間も放置することが、許されるはずがない。


 渉は広香にどうお仕置きするかを頭の中で想像しながら、るり子の身体を貪った。

 その全てが撮影されているとは知らずに……。

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