第6話 姑の襲撃

****


 その日はもう限界で、広香は体調不良を理由に会社を早退した。

 

 夕方、マンションについて、やっと横になれると思いながら、鍵を差し込むと、玄関の鍵が開いているのに気がついた。


(まさか……)


 急いでドアを開けると、そこには見覚えのある女性の靴があった。


「お義母さん……」


 広香がそう呟くのと同時に、奥から渉の母親である姑がやってきた。


「あら、広香さん!今日は早いのね」


「はい。ちょっと悪阻で……」


 義母は渉から渡された合鍵を使い、こうやって自宅に勝手に上がり込むことが多々あった。

 息子の住んでいるマンションは自分が自由に使っていいとでも思っているのだろうか。広香の家でもあるのに、遠慮するそぶりはまったくなかった。


 「まあ、大変!けど、出産はもっと大変なんだからね。それくらいで音を上げてちゃダメよ。あ、そうだ!悪阻の時は白湯を飲むといいのよ。今、いれてあげるわ」


 義母はご機嫌でキッチンの方に向かった。

 もはや断る元気もなかった広香は、くつろごうとフラフラとリビングに足を進めた。

 すると、視界に入ってきたのは異様な光景だった。


「なにこれ……」


 リビングに入ると、テーブルや窓際、部屋の四隅や棚の上などに、見覚えのない青色の石でできた置物が置かれていた。

 おそるおそる手にとると、油が塗られているかのようにヌメっとしており、思わず手を離す。


「広香さん!ダメよ、触っちゃ!せっかく九州から取り寄せたのよ!」


 物音に気づき、姑がキッチンから顔を出して叫んだ。


「なんですか、これ?」


「これを妊婦さんがいる家に置いておくとね、男の子が産まれるんですって!」


「このヌメヌメしてるのは……?」


「祈祷師さんの念が込められた馬油を塗ってあるのよ!すごいでしょう?手に入れるのすっごく苦労したんだから!」


 そう言って目を輝かせる姑に嫌気がさす。どうりで異様な匂いが部屋に充満していると思った。



 姑は、結婚当初から男の子が産まれるのを切望していた。

 

「広香さんには橋田家の跡取りを産んでもらわないと!」


 そう言って毎日のようにプレッシャーをかけられ、医者に性別がわかったと言われた時は、心臓がはりさけそうだった。

 もしもお腹の子が女の子とわかれば、姑がひどく落ち込み、渉が広香を責めることは目に見えていたからだ。

 

 しかし、お腹の子が男の子だと知っている今では、姑になにを言われても不安はない。それにどうせ、橋田家とは縁を切るつもりなのだ。


「お義母さん。お気持ちはすごくありがたいんですが、勝手に部屋に物を置かれると困るので、今度からは私に直接いただけると……」


「え?けど、渉にはちゃんと許可とったわよ?」


 きょとんとした顔で言う姑は、やはりこの家が広香の家でもあるということをわかっていないらしい。

 広香はうんざりしながらも、「そうですか」と愛想笑いを浮かべた。


 しかし、不思議だった。

 広香の記憶では、この日姑が家に持ち込んだのは青色の数珠で、「男の子を産むために、身につけておいて!」と直接渡されたのだ。

 

 不倫相手がるり子だとわかったことで、また未来が少し変わったのだろうか。

 あとで手帳を確認しよう。広香はカバンの中の手帳に、手でそっと触れた。





****

 

 自宅に帰ってきてからも、広香の体調は最悪なままだった。やっと家でゆっくりできると思っていたのに、渉が帰ってきてからは姑の話し相手をしなければならなかったし、「橋田家の味を教えてあげるわ」とキッチンで料理を共にしなければならず、身体がずしんと重くなるのを感じた。


「うちの味噌汁はね、ちゃーんとにぼしから出汁をとるのよ!ちょっと匂いはするけど、我慢してね。栄養をしっかりとれば、広香さんの体調もよくなるし!」


 そう得意げに言う姑に愛想笑いを浮かべる。

 姑はどうやら悪阻というものを経験したことがないらしく、広香の気持ち悪さも微々たるものだと思っているらしかった。


 そうして必死で吐き気を堪えながら、姑と共に夕飯の準備をしていると、渉が帰宅した。


「おおっ!すごくいい匂いがする!」


「今日は渉の大好物ばかりよ!広香さんも手伝ってくれたの」


「へー、けど広香が作っても母さんの味にはなんないんだよなー。結婚して、母さんがどれだけ料理上手かわかったよ」


 テーブルに並べられたおかずの匂いを嗅ぎながら、渉はそう言った。

 それを聞いた姑は嬉しそうに笑い、渉を軽く叩いた。


「もうそんなこと言わないの!広香さんだって頑張ってるのに。ねえ?」


 この親バカとマザコン夫をどうにかして懲らしめてやりたい。広香は憤る気持ちをどうにか堪え、「お義母さんには敵いませんよ」と微笑んだ。



 夕食を終え、リビングで寛ぐ二人を尻目に、広香は大量の食器を洗っていた。姑が渉のためにと食事を作る時は、品数が多く、凝ったものばかり作る。だからこそ、洗い物の量は増えるのだが、片付けるのはいつも広香の役目だった。


 やっと洗い物を片付け終わると、ふとリビングの棚に置かれているテディベアが目に付いた。

 派手な色や模様の布がツギハギになっており、古臭くてダサい。見覚えがあるそれは、姑が作ったものだ。


「あの、これお義母さんが?」


「そうなの!赤ちゃんのファーストトイ!私が愛情込めて作った、世界で一つだけのものなのよ!よかったら、リビングに飾っておいて」


「ありがとうございます……」


 この人がよかれと思ってやっているのはわかっている。しかし、広香は自分の許可なく、勝手に物を置いていく姑に我慢ならなかった。

 

 それに、過去に戻る前にもファーストトイをもらった記憶はあるが、臨月に入る直前のはずだった。なぜ早まったのだろう。

 広香はまた手帳に書かれている内容が変わっているのではないか、と寝室に行った。


 すると、数週間先の日記に、気になる文を見つけた。


【渉さんが毎回報告してるのか、お義母さんに注意されることが増えた。渉さんに対する私の発言が生意気すぎるだとか、昨日のご飯は栄養が足りないとか。ストーカーみたいで気持ち悪い。あの人、いつまで息子にべったりなんだろう】


 書いた覚えのない文章だった。それに、姑は確かに渉にベッタリではあったが、渉の方は、自分たちのことを細かく親に報告するタイプではない。私に対して不満はあっても、プライドのせいか親に相談などしたことがないはずだ。


 ただ、過去を思い出すと、臨月に入る直前、ファーストトイをもらったあたりから、姑がいつも以上に口うるさくなり、食事の内容について注意された記憶がある。そのあとすぐに実家に帰ったため、特に気にも留めなかったが。


(そういえば、どうしてお義母さんが、あんな細かいことまで知ってたんだろう……)


 さらにページを捲り、数ヶ月先の日記を見ると、そこには信じられない内容が書いてあった。


【お義母さんからもらったテディベアにカメラがしかけてあった。だから、家で起こったこと事細かく知ってたんだ。ありえない。気持ち悪い。渉さんに話したら、お前がしっかりしてないから母さんは心配してるだけだって言うの。そんなのありえる?嘘でしょ?ずっと監視されてたんだよ?ありえない。はやいけど来週から実家帰る。もう耐えられない】


「カメラ……?」


 あのツギハギの手作りテディベアに、カメラが仕掛けられていたというのだ。姑が自分たち監視するため、せっせとテディベアを縫い、カメラを仕掛けたと思うと、背筋が凍った。そして、過去にも自分がこんなふうに見張られていたのかと思うと、気が狂いそうだった。


(ありえない…こんなの一線を越えてるわよ……!)


 怒りを抑えきれないまま大股でリビングに戻ると、姑が帰り支度をしているところだった。


「広香さん、また遊びにくるわ!身体気をつけてね!」


 そう言ってニコニコと微笑む姑が憎らしかった。嫁を心配しているいい姑を演じながら、実際は息子の自宅にカメラまで仕掛けて監視する、異常なほど過保護な老害だ。


 このまま見送るわけにはいかない。

 広香は意を決して口を開いた。

 

「あの、お義母さん」


 広香は玄関に向かう姑に声をかけた。


「なあに?」


「プレゼントをいただけるのはありがたいんですが、勝手に物を置いていかれるのは正直困ります。石の置物も、うちのインテリアとは合いませんし、ファーストイもごめんなさい。私の方で決めていたものがあるので、悪いんですが持ち帰っていただいてもいいですか?」


「あら、ごめんなさい……けど、私はよかれと思って、ねえ?」


 姑はわざとらしく眉を下げて、渉に助けを求めた。

 すると、渉は不機嫌な顔で広香を責め立てた。


「本当に冷たいな、君は! 母さんは、お前のためを思って持ってきてくれたんだぞ!素直に感謝するべきだろ!」

 

「いいのよ、感謝なんて。けど、持って帰れだなんて悲しいわね。私、一生懸命作ったんだけど、デザインが気に入らなかったかしら」


「いや、デザインの問題ではなくてですね……」


 確かにデザインも気に入らないが、それ以前の問題だ。


「母さん、こいつが言うことは気にしないで。人形も置物も、置いていっていいから」


「本当?渉がそう言うなら……」

 

自分ではっきり意見をいうわけではなく、息子に助けてもらい、遠回しに嫁をいびる卑怯な女。それが渉の母親だった。


(本当にカメラが仕掛けてあるなら……)


 広香はリビングに置かれたテディベアをじっと見た。目が合ったように感じて、ピンとくる。

 渉たちに背中を向け、広香はテディベアを掴み取り、隅から隅までじっと見た。


「な、何見てるの?手作りだから色々粗があるでしょう?恥ずかしいからそんなに見るのはやめて」


 姑が焦って広香からテディベアを奪い取ろうとするが、広香はするりとかわした。


「お義母さん。このテディベア、なんか変じゃないですか?」


「な、何が……?」


「ほら、目のあたりとか。もしかしてこれ……」


 すると、姑の顔がさっと青ざめた。


「ごめんなさい!初めて作ったから使う素材を間違えたみたいだわ!これは持って帰るわね!」


 姑は早口でそう言い、広香からテディベアを剥ぎ取った。


「素材?別に普通だよ。 おい、君は一体何が不満なんだ。母さんがせっかく持ってきたのに……」


「普通じゃないわよ。お義母さんによく見せてもらったら?」


「いいのよ!渉!赤ちゃんのためだもの!母さん、もっといいものを作るわ!」


「いえ。できれば手作りは控えていただけると嬉しいです、お義母さん」


 広香はニコリと微笑んだ。


「おい!お前何言って……!」


「そ、そうね!今度は広香さんの好きなものを買ってくるわ!何か欲しいものがあったら、言ってちょうだい!」


 姑は渉の言葉を遮るようにして言った。

 突然広香に媚びへつらう母親を、渉は不思議そうに見つめている。

 

 やはり、自宅を監視しようとしていたことを愛する息子に知られ、嫌われるのが怖いのだろう。今後は姑をうまくコントロールできそうだ。広香は心の中でほくそ笑んだ。


 姑にどれだけご機嫌とられようが、それを無視してカメラのことを渉にバラしてしまってもよかった。しかし、もしそれがきっかけで、自分が仕掛けたカメラまで見つかるのは避けたい。


 テディベアをバックの中に仕舞い込み、姑は逃げるように家を出て行った。


「母さん、どうしちゃったんだ……?もしかして君が何かしたのか?」


「いいえ、何も。あっ、お義母さんに渡したいものがあったんだった。ちょっと行ってくるね」

 

 渉の話が長引く前に、広香はそう言って外に出た。

 マンションのエントランスまで降りると、姑がちょうど自動ドアを抜けるところだった。


「お義母さん」


 そう後ろから呼びかけると、姑は広香を見てぎょっとした。

 広香は姑の元にゆっくりと歩み寄りながら、「渉さんには黙っておきますので」と言うと、姑は途端にオドオドし始めた。


「あの……広香さん、私はね、ただ心配で」


「わかってます。なので、渉さんには言いません。その代わり、もう二度とうちに勝手に物を持ち込まないでもらっていいですか?私の許可なく、勝手にあがりこむのもやめてください。合鍵はお義母さんの意思で、渉さんに返していただけると助かります」


「わ、わかったわ」


「それと、お腹の子は私の子であり、私が産みます。男の子が欲しいという気持ちはわかりますが、それは私たちが決められることではないので、放っておいてもらえると嬉しいです。どうかお願いします」


「ええ……」


 いつものわざとらしい笑顔はそこにはなく、姑はかわいそうなほど縮み上がっていた。


 もし自分の息子が不倫で、慰謝料請求されたら、この人はどんな風になるんだろう。

 泣きじゃくって、息子のために許しを乞うのだろうか。それとも、不倫をしたのは広香のせいだと責め立てるのだろうか。

 どちらにせよ、もうすぐこの姑とも縁が切れるのだ。

 

 言いたいことを言った広香は「では」と軽くお辞儀をして、姑に背を向けた。

 次に会うのは、離婚届を夫につきつけたあとかもしれない。そんなことを思いながら。

 



 

 マンションに戻ると、渉が鋭い声で広香を呼び止めた。


「母さんにあんな言い方するなんて、君は何様のつもりだ?妊婦様か?」


「……」


「君は夫の母親を敬えもしないのか!?これだから育ちの悪い女は……」


「……」


「おい!聞いてるのか!ただ腹がデカくなるってだけなのに、妊婦様気取るのもいい加減に……」


 渉の口から出る言葉の暴力に、広香は俯き、ぐっと拳を握りしめた。


「じゃあ、お前が産めよ」


 広香がそう呟くと、渉は大きく目を見開いた。


「は?」


 今まで広香が夫のことを「お前」などと呼んだことは一度もないし、こんな言葉遣いで話すのも初めてのことだ。渉は目の前にいる広香が、本当に自分の知っている妻なのか信じられないような顔だった。

 

(お腹が大きくなるだけ、と思うならお前が産めよ。お前が妊娠して、つわりに耐えて、仕事も家事もして、尋常じゃない痛みに耐えて子供産んでみろよ……!)

 

 そう言えたらどんなにいいか。広香はため息をついた。

 だが今は動揺を隠せず、呆然とこちらを見つめる渉を見れただけでも十分だ。もうすぐこの男は痛い目を見ることになるのだから。

 

「お、おい、今なんて……」

 

「ごめんなさい。なんか今日はイライラしちゃってたみたい。あとでお母様には謝っておくから」


 広香はそう言い残し、寝室に向かった。

 

 渉の舌打ちと、椅子を蹴る音が聞こえたが、夫の一挙手一投足に怯えていた昔とは違い、今は幼稚な夫の行動を冷静に見ることができた。

 夫と離れることを決意している広香にとって、夫の癇癪を怖がる必要性はもうなかったのだ。

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