第5話 ヤバイ女

 翌日、スマホを見たことがバレるのではとヒヤヒヤしていたが、夫は何事もなく出社した。

 

 もし渉にスマホを見たと気付かれたとしても、はぐらかすつもりだった。渉は、広香がパスワードを知っているとは思っていないし、まさか自分よりバカで無能だと思っている妻に、自分の不倫がバレているとは思わないはず。

 またネチネチと詰められるかもしれないが、自分がスマホを見たという証拠などどこにもないのだ。「知らない」と訴え続ければ、夫もそれ以上は何も言えないだろう。


 広香はそんなことを思いながら、会社の休憩室で一人、手帳を開いた。いつもは同僚と一緒に食堂でランチを食べるのだが、今日は体調が悪いからと断った。自分と過去に戻ってきた、この手帳の内容を調べるためだ。

 

 昨日、渉のスマホを見てから気付いたことがある。

 よく見ると、手帳に書かれている内容が微妙に変わっているのだ。

 もちろん広香が書き直したわけではない。まるで未来が更新されたかのように、広香が過去と違う行動をすると、手帳に書かれた未来の内容も変わっていた。


 そして、今日の日記に書かれている内容はこうだった。


『相変わらず悪阻でしんどい。けど、もう少しの辛抱。1人でこの辛さに耐えるのはきつすぎる。ネットで妊婦友達でも作ろうかなーって久しぶりにSNS開いたら、見覚えのないアカウントにフォローされてた。誰だろう。愚痴垢っぽいけど、私の投稿全部にいいねしてるみたい。なんか怖い』

 

 今日の日記に関しては、まったく身に覚えがない内容だった。

 

 SNSのアカウントを持っているが、社会人になり忙しくなってからは、ほとんど投稿をしていない。

 広香が久しぶりにSNSアプリを開くと、通知が何十件も溜まっていた。その内容を見ると、「愛」という名前のアカウントから立て続けにいいねがきているようだった。


(手帳に書いてある通りだ……)


 プロフィール画像には、女性の口元が映っていた。加工もしてあるようで、これだけ見ても誰だかわからない。


「ちょっと待って。愛ってまさか……」


 その時、広香の頭の中に、渉の携帯に届いた不倫相手のメッセージが浮かんだ。アカウント名はハートマーク。渉は不倫相手のことを「あーちゃん」と呼んでいた。


 偶然だとは思えなかった。このアカウントはおそらく渉の不倫相手のものだ。

 不倫相手は自分のSNSを監視している。それだけではなく、まるで自分の存在に気づいてくれ、とでもいうかのように、広香の投稿すべてにリアクションしているのだ。

 「愛」という女の執着心にゾッとして、広香は身震いした。


 さらにアカウントに投稿されている写真をよく見ると、「だーりんとデート」という投稿の写真に映る男の手元で光る時計は、夫が愛用しているものだったし、何枚か投稿してある車内の写真も、見れば見るほど夫の車そっくりだった。


『愛しのだーりんとデート!シャツのボタンが取れたって言ってたから、縫ってあげた〜!奥さんになる予行練習(笑)』


『ずっと欲しかったカバン買ってもらったー!なんでもない日のプレゼントほど嬉しいものはないよね〜!だーりん、ありがと!ちゅき!』


 その投稿と共に載せてある写真には、某高級ブランドのハンドバッグが映っていた。数十万はするカバンだ。広香には節約しろと口うるさいくせに、不倫相手にはこんな大金を貢いでいるのか、と悔しくなる。


 家計の管理は基本的に渉が行っていた。産まれてくる子供のために、家族の将来のために必死に貯めてきたお金が、不倫相手に使われていただなんて。怒りで目に涙が滲む。


 投稿のほとんどは渉に関することと、広香に関する悪口だった。


 そして、最新の投稿には「あの女、妊娠を理由に離婚渋ってるらしい。死んで欲しい」と書いてあった。

 おそらく昨日、愛のメッセージを見た渉は、「嫁が妊娠したから、なかなか離婚を受け入れてくれない」とでも言ったのだろう。

 

 愛はかなり渉に夢中なようだった。不倫相手を突き止め、慰謝料を取ることを考えていたが、今下手に刺激すれば、いつ危害を加えてくるかわからない。それに投稿の内容から、広香の職業や交友関係などもある程度掴んでいるようだった。

 

 ふと、もし裁判が長引いて、離婚が成立する前にこの女に殺されそうになったらどうしよう、と不安になった。

 夫は慰謝料を払うことも、離婚することも拒否するはずだ。そしてその理由を広香のせいにするのであれば、不倫相手にとって十分な殺害の動機になる。


 それなら、夫への制裁や、慰謝料などすべて諦め、できるだけ早く離婚したいという意思を不倫相手に伝えた方が、お腹の子の命を守れるのかもしれない。


 そう思い悩みながらも、広香が愛のアカウントを遡っていると、ふと見覚えのある人物の写真が目に留まった。

 二人の女性がスイーツの前でピースサインをしており、スタンプで顔半分が隠れているが、女性の一人は明らかに一ノ瀬るり子だった。


『友達とアフヌン〜!恋バナたくさんしたよん』


 写真をズームし、何度も確認するが、やはり間違いない。改めて投稿を見返すと、文体もるり子の話し方そっくりだった。


「一ノ瀬さんが不倫相手……?嘘でしょ?」


 広香の顔からさあーっと血の気が引く。信じられないし信じたくもないのだが、この「愛」というアカウントは、一ノ瀬るり子のものだと、そう考えるしかなかった。



 渉とるり子は二年前、結婚式の二次会で顔を合わせているはずだが、それきりのはず。なぜよりによってこの二人が?どうして?


 広香は早まる鼓動をどうにかして抑えようと、胸をぎゅっと押さえた。


「……!」

 

 その時、思い出したのだ。トイレで偶然会ったるり子に、妊娠していることを言った時のあの青ざめた顔。

 自宅で聞いた、渉に抱かれ喘ぐ、どこか聞き覚えのある甘ったるい女の声。

 

 夫の不倫相手はこんなにも近くにいたのだ。

 後輩に、夫を寝取られてるとも知らずにいる自分を見て、るり子はさぞ愉快だっただろう。

 広香はギリっと歯軋りをした。


(こんなの絶対許されない……)


 不倫相手がいつ襲ってくるかわからない恐怖で、できるだけ円満に離婚しようと一瞬考えもしたが、不倫相手が誰かを知ってしまった今、このまま二人に見下されたまま、終わりにするのは嫌だった。

 それに、自分にはこの手帳がある。もし未来が変わったとしても、すぐに対処できる自信があった。


 この二人には絶対に痛い目を見てもらう。自分とお腹の子が苦しんだのと同じような苦しみを味わわせてやるのだ。

 広香の心は、憎しみの気持ちで真っ黒に染まっていた。

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