第4話 不倫相手

「うっ……うぇえええ」


 便器に向かってえずくが、出てくるのは唾液のみでなかなかスッキリしない。こんなことなら何か無理にでも食べればよかったと後悔する。

 

 悪阻が悪化してからも広香は変わらず出社し、働いていた。1度有休を使って休んだことがあるが、渉に「そんなことくらいで休むなんて、これだから女は……」と嫌味を言われてからというものの、なんとなく休めなくなってしまったのだ。

 

 渉は会社にいる女性の愚痴をよく話す。「使えない」だとか「根性がない」だとか「甘えている」だとか。

 そういう言葉を聞く度に、他人事とは思えず、会ったこともない女性社員たちの味方になってあげたくなった。自分が休むと、その人たちも何か言われてしまいそうで、広香は半ば意地で休まなくなったのだ。

 

 もうすぐ悪阻も落ち着くころで、妊娠の週数的にはそろそろ職場の人に報告してもいい頃なのだが、今から夫と離婚しようとしている身で大勢の人から「おめでとう」と言われるのは気が引ける。

 こうやってこっそりトイレで吐いては、気持ち悪さをこらえながら業務をこなしていた。

 

 やっと吐き気がおさまり、口元をトイレットペーパーで拭い、個室から出ると、ちょうど後輩の一ノ瀬るり子と鉢合わせた。


「あ、お疲れさまでーす」


「一ノ瀬さん、お疲れ様」


「先輩、今日すっぴんですか?顔色めちゃくちゃ悪いですよお」


 るり子は化粧ポーチからメイク道具を取り出しながら、そう言った。

 語尾にハートマークがついているのか、と思うほど甘ったるい声で話しかけられ、広香はさらに気分が悪くなる。

 

 広香より五つ歳下の彼女は、社内では少し有名な女性社員だった。

 彼女の父親は、広香が勤める専門商社の主要取引先で、彼女はいわゆるコネ入社をしてこの会社で働いている。

 

 総合職として入ったものの、まともに仕事はせず、いつも誰かに仕事を押し付け、社内ではネットサーフィンやネイルなど、やりたい放題だった。しかし、社長の娘ということもあって、昇進を切望する社員たちは誰も文句は言えない。

 

 そんなある日、仕事を人に押し付けるるり子に、広香は厳しく苦言を呈したのだ。その日からるり子の業務態度はある程度マシになった代わりに、あからさまに広香を敵視するようになった。


「化粧はしてるわ。けど、ちょっと寝不足なだけ……うっ」


 突然堪えきれないほどの吐き気が広香を襲い、その場で嘔吐してしまった。


「うう……」


「やだあ!こんなとこで吐かないでくださいよー!」


 るり子は、急いで自分のポーチを胸に抱えた。ブランドもののポーチだろうか、ギラギラと光ってやけに眩しい。


「ごめん、突然吐き気が……」


「え〜なんで突然?……まさか先輩妊娠してるとかじゃないですよね?」


 るり子が冗談混じりにそう言ったが、気持ち悪さで頭が真っ白になっていた広香は、苦しさのあまり思わず答えてしまった。

 

「そうよ……妊娠してるの」


「え?」


 るり子が目を見開き、苦しそうに口をおさえる広香を凝視した。

 

(よりによって一ノ瀬さんに話しちゃうなんて……)


「悪いんだけど、まだ他の人には言わないでくれる?何があるかわからないし……」


「……言わないですよお。けど、悪阻でも仕事はちゃんとやってくださいね。そんな理由で仕事サボられると、こっちに仕事がまわってくるんでー」


 るり子はそう言い残し、トイレから足早に去っていった。

 

 彼女は他人のことに一切興味がなく、自分にとって利益になることしか考えていない人間だ。妊娠していることを言いふらしても、彼女にとって得はないので心配はしていなかったが、こんな時に彼女の嫌味な物言いは、ずしっと心に重くのしかかった。






****

 

『不倫の証拠を掴むなら、まずはスマホから』

 

 不倫について色々調べていると、そんなタイトルの記事が目についた。


 渉は仕事ではまめな性格であるようだったが、私生活はだらしない。不倫相手とのメッセージや通話記録をいちいち消しているなんてことは考えにくいし、何より広香が携帯をこっそり見るかも、だなんて思っているはずがない。妻をみくびっているのだ。


 そして今日も、渉は酒をたらふく飲んで帰ってきていた。ゴーゴーと地響きのようなイビキをかいて寝ている横で、夫のスマホを手に取る。

 

「……まあそう簡単には開けないよね」


 さすがの渉もパスワードはきっちりかけていた。念の為結婚記念日や誕生日などを入力してみるが、開かない。

 最初は探偵に頼み、不倫の証拠を掴むことも考えたが、ただでさえこれから1人で子供を育てていかなければならないのだ。生まれる直前に多額の出費が重なることは避けたい。


 広香はため息をついて、他に何か手がかりはないかとクローゼットを開いた。その時、ふと照明に備え付けられた隠しカメラが目に入った。


(もしかして、映ってるかも……)


 デパートでの事件があった翌日、渉が外出している間に、注文していた隠しカメラをリビングとキッチンと寝室、それぞれにセットした。

 

 ネットで調べると、盗撮や盗聴で証拠を掴もうとすると、最悪の場合こちら側が訴えられてしまうケースもあるらしい。しかし、自宅となれば話は別だ。


 「自宅にたまたまカメラがセットしてあって、たまたま夫の不倫現場が映っていた」ならば、罪に問われる可能性はないという。


 さすがの渉でも自宅に不倫相手を連れ込むなんてことはないと思うが、念には念を、だ。それに、夫が日常的に発している自分に対する罵詈雑言や嫌味の数々も、いつか役に立つかもしれない。そう思い、広香はバレない位置にカメラをセットしておいたのだ。


 しかし、それが思ったよりも早い段階で役に立つ時がきた。

 カメラのデータを読み込み、パソコンで映像を確認する。すると、寝室で渉が自分の携帯のロックを解除しているところがバッチリ映っていたのだ。


 急いでロックを解除し、メッセージ一覧を開く。するとやはり、名前が❤️の絵文字になっている女性とのやり取りが一番はじめに出てきた。

 震える手でメッセージを開くと、そこにはまるで付き合いたてのカップル同士のようなやり取りが並んでいた。


『わーくんとはやく会ってラブラブえっちしたい』


『俺も。あーたんの隅々まで愛してあげたい』


 不倫相手の前でかっこつけているのか、一人称が僕から俺に変わっている。

 気持ち悪!と叫びたくなるのをこらえながら、証拠になりそうなメッセージをスクショし、自分のスマホに送る。

 


『今度の日曜は会える?』


『ちょっとしばらく休日は会えなさそう』


『奥さんにバレそうだから?やっぱり私より奥さんのことが大事なの?』


『そんなわけないだろ。もうすぐ離婚するから、俺の事信じて待っててよ』


『離婚するって聞いてから、もう半年以上経つよ。いつ離婚するの?』


 渉は不倫相手には、離婚すると言っているらしかった。

 半年前、ということはやはり妊娠前から既に不倫していたことになる。


 相手は一体誰なんだろうか。会社の人?それともネットで知り合った人?

 マッチングアプリが入っていないか、さらにスマホの中を調べようとすると、スマホのバイブレーションが鳴った。

 

 不倫相手からの新着メッセージだった。渉がまったく起きそうにないのを確認し、既読がつかないように、最新のメッセージだけを見る。

 

 『奥さん、妊娠してるの?』


「え……?」


 そのメッセージを見た途端、次々と不倫相手から新着メッセージが届いた。


『ねえ、返事してよ。奥さん妊娠してるんでしょ?』


『奥さんとはずっと身体の関係ないし、女として見てないって言ってたのに。私が一番だって言ってたのに。嘘つき』


『嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき』


 立て続けに送られるメッセージにゾッとし、広香は思わずスマホを伏せた。


 渉は不倫相手に広香の妊娠を隠していたのだ。

 

 「離婚する」と口では言っているが、おそらく不倫相手との関係を続けるために言っているだけで、実際は広香と離婚する気はないのだろう。

 とはいえ、それは広香を愛しているからではない。世間体のため、家政婦のような便利な妻を持ちながら、不倫相手との情事を楽しむためだ。

 後に渉は、子供を理由にしてまだ離婚できない、と言うに違いない。そして、腹を立てた不倫相手が、広香の子供を殺そうと階段から突き落とす。ありがちなシナリオだった。

 

 「あんたさえいなければ……!あんたの子供さえ産まれなければ私は幸せになれたのに……!」


 未来から、そんな憎悪の声が聞こえてくるかのようだった。

 

 「妻とは離婚するから」と渉に言いくるめられた不倫相手も、ある意味で被害者とも言えるが、人の夫を寝取る女に同情できるはずもない。ましてや、この女は自分と、自分の愛する子供を殺したのだ。絶対に許せなかった。


 しかし、なぜ広香が妊娠したことを知ったのだろう。メッセージの粘着質な雰囲気から見てとるに、もしかしたらストーキングされていたのかもしれない。

 テーブルの上でバイブレーションがずっと鳴っている。不倫相手の怒りはおさまらないようだ。

 

 広香は新着メッセージの通知がとまらないスマホを、渉に気づかれないようにそっとサイドテーブルの上に戻した。

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