第3話 思い出のデパート

 「はあ……朝からこんな汚いリビングで食事しなくちゃいけないなんて。悪阻だかなんだか知らないけど、ちゃんと自分の務めは果たしてくれるかな」


 休日の朝から渉にそう嫌味っぽく言われ、広香は言い返したいのをぐっとこらえ、黙って洗い物を始めた。

 

 広香が過去に戻ってきてから、1週間。手帳に書かれている日記を一通り読み、ようやく当時の記憶が鮮明に蘇ってきた。

 

 渉は土日も会食だとか、接待だとか、上司との付き合いだという理由でほとんど家をあけており、特に身重になってからは一緒に出かけることもほとんどなかった。


 渉は酔うと食べる量が増える人で、深夜に帰ってきてはカップ麺やコンビニで買ってきたお菓子類を食べ、そのままゴミや食べかけのものをリビングに放置し、泥のように眠る。そして朝、散らかったリビングを見てこうやって広香を叱るのだ。


(汚いと思うなら、自分ですればいいのに……)


 確かに事務職で毎日定時に帰れる広香の方が家事をする割合が多くなるのは、わかっていたし、証券会社で働いている渉は毎日遅くまで働いていて、自分もそんな夫を支えたいと思っていた。

 ただ、深夜に帰ってくる夫の世話をし続けるのにも限界がある。


 一度、耐えきれず「洗い物とかはしなくていいから、自分が出したゴミはせめてゴミ箱に入れておいてくれると嬉しい」と頼んだことがあった。

 そんなに難しいことは頼んでいないはずだ。だが、渉にはそれが不愉快だったらしい。ダイニングテーブルをバン!と叩き、広香を怒鳴った。


「なんで男の僕がそんなことしなきゃいけないんだ!頭おかしいんじゃないか!?」


 渉の怒鳴り声は、隣人に聞こえるんじゃないかと思うほど大きく、広香は恐怖で縮み上がった。

 

 彼は自分の過ちを決して認めず、少しでも意見すると、すぐ怒鳴って広香を萎縮させる。

 ただでさえ自分より体格の良い相手であるのに、それに加え乱暴な行動と怒鳴り声を浴びせられれば、何も言い返せなかった。


 

 だが、そんな渉も、結婚前は今とは別人のようだったのだ。


「結婚したら、僕も家事手伝うから」


「広香は自分の好きなようにしていいからね」


「僕が一生支えるから」


 そう言ってくれていた。しかし、今では別人のようだった。


「女のくせに僕に指図するな」


「事務職のお前に、僕の苦労がわかるわけない」


「誰のおかげで生活できてると思ってるんだ!」


 毎日のように投げかけられる罵詈雑言に、渉がこんな風になってしまったのは、自分ができの悪い妻だからだ、と思い込んでしまっていた。

 

 自分が変われば、夫も元通りの優しい夫に戻ってくれる。

 

 そう思っていたが、現実では夫は外に女を作り、結婚前に言っていたことを行動で示してくれたことは一度もない。

 言葉だけならなんとでも言える、しかし行動はそう簡単には変わらない。それを知るのが広香は遅すぎたのだ。




 

 広香に文句をひとしきり言ったあと、満足したのか、渉はリビングでテレビを見ながら、声を出して笑っていた。

 休日も会食や接待を理由に外出することが多かったが、今日はめずらしくなんの予定もないらしい。


 洗い物を終えた広香が、濡れた手をタオルで拭きながら声をかける。


「渉さん、今日はお仕事ないの?」


「ああ……今日はたまたまね。明日は部長とゴルフだから」

 

 どうせゴルフというのも嘘だろう。堂々と嘘を吐く渉に憎しみが湧くが、ぐっと堪えた。

 

「じゃあ、二人で買い物行かない?新しくできたデパートあるでしょ?」


「え?なんで?君、一人で行ってくればいいでしょ」


 渉はテレビから目を離すことなく、そう言った。

 普段なら、買い物に誘うことなどないのだが、今日は渉をどうしても外に連れ出したい理由があった。


「お義母さんがね5万円分の商品券くれたんだけど、使用期限が今週までなの。ほら、渉さん新しいシャツ欲しいって言ってたじゃない?」


 義母はたまにマンションにやってきては商品券や現金など、お小遣いをくれた。もちろん「渉のために使ってやって」という念押し付きだ。

 三十を過ぎた夫にいまだに小遣いをやるなど、親バカにもほどがあるが、あの親に育てられたからこそ、こんなに自分勝手で横暴な息子になったのだなと今になって思う。


 渉は新しい服を買えると思ったのか、渋々ながら立ち上がり「じゃあ、さっさと行こう」と言って玄関に向かった。


 


 デパートに着き、早速メンズファッションの階に向かった。渉は広香の数歩前をすまし顔で歩いていた。

 エスカレーターに乗ると、渉が突然広香の方を振り返った。


「前から思ってたんだけど、もっとまともな服持ってないの?」


「え?」


 渉は不機嫌そうに、広香の頭のてっぺんからつま先まで舐め回すように見た。


「信じられないほど服のセンスないよね。ダサいというか、地味というか……隣に並ぶ僕の気持ちも考えて欲しいんだけど」


「……」


 デパートにいるおしゃれな女性たちと広香を比べて渉はそう言ったんだろうが、服に無駄なお金を使うなと言ってきたのは渉自身だ。

 

 それに、いざ広香がおしゃれな服を買うと、嫌味っぽく「そんな服着て誰と会うつもり?」「そんな服にお金かけても、元が元なんだから、無駄だよ」とネチネチ文句を言う始末。

 それなのに、今度は「服のセンスがない」とケチをつけるのだ。


「じゃあ、新しい洋服買っていい?」


「買う必要なんてないだろう。母さんからお古でももらえばいい。君が今着ている服より上等な服を持っているはずだ」


「お義母さんと私じゃ年齢がずいぶん違うし、それに、そんなこと私から頼めないよ」


「いちいち僕に意見するな!自分でどうすればいいか考えてみろよ!これだから女は……」

 

 ぶつぶつと文句を言いながら歩いていく渉に、黙ってついていく。


 最低な日常だ。結婚生活とは、耐えること、そう思っていた自分がバカらしい。

 

 しかし、この男がこうやって偉そうにしていられるのも今のうちだ。

 手帳に書かれている日付が正確なのであれば、今日ここに、渉の上司である笹塚部長と、部長の奥さんが来ているはずだった。


 日記にはこう書いてあった。


【デパートで笹塚部長と奥さんに会った。結婚式ぶりだったけど、私のことを覚えててくれてた。笹塚部長は夫のことすごく信頼してるみたい。仕事熱心で信頼できる男だ、今時あんな真面目な男は珍しい。奥さん、いい人見つけたね!って満面の笑みで言われたんだけど。はあー会社ではそんな感じなんだーって絶望。なんで私には優しく接してくれないんだろう。どうしたら元の渉さんに戻ってくれるんだろう。やっぱり私が悪いのかな】


 当時の自分を思い出して、広香は唇を噛んだ。

 

 渉が悪魔に豹変する時のことは、自分しか知らない。職場の人にも、広香の両親や友人にも、渉はとても丁寧で真摯に接してくれる。だからこそ、誰に相談しても聞き入れてもらえる自信がなかった。


 「あんないい旦那さんいないよ」


 そう言われるのが目に見えている。


 しかし、今日は夫の悪い側面を見せるチャンスだ。

 離婚とは直接関係ないが、これくらいの意地悪はしたっていいはず。

 そうでもしないと、不倫している夫との生活に耐えられそうになかった。


 渉が店内に入り、洋服を物色し始めた頃、後ろから突然話しかけられた。


「あれ、橋田くんの奥さんじゃないか」


「笹塚部長……!ご無沙汰しております」


 日記と広香の記憶通り、そこには仲睦まじ気な笹塚部長と奥さんが腕を組んで立っていた。


 恰幅が良く、強面の顔からは想像できないが、部長は社内でも有名な愛妻家で、どんなに忙しい時でも奥さんを第一に考える人らしい。渉はそのことをどこかでバカにしているようで、よく「妻にヘコヘコしてる上司の姿なんて見たくないよ。みっともない」と愚痴をこぼしていた。


「ちょうど夫もそこに……」


 と渉の方を見ると、こちらに気づいたのか、ぱあっと明るい笑顔でこちらに駆け寄ってきた。


「部長!こんなところで会うなんて奇遇ですね!奥様とデートですか?」


「ああ、そうだ。妻の買い物に付き合ってたところだよ。橋田くんも奥さんとデートかい?」


「はい、普段忙しくてなかなかかまってあげられないので、今日くらいは一緒に出かけたいなーと」


「ははは、そうかそうか!」


 渉の白々しさに吐き気がする。

 広香は渉に対しての嫌悪感が顔に出ないように注意しながら、笹塚部長に言った。


「最近夫は休日の会食や出張が多いものですから、今日は久しぶりに二人で出かけられて嬉しいです。今日は夫に休暇をいただき、ありがとうございます」


「休日の会食や出張?そんなものはないはずだが……」


 広香の言葉に、笹塚部長は眉をひそめる。

 するとすぐに、渉が慌てて間に入った。


「最近、お客様にプライベートでも誘われることが多くて、休日はゴルフに行ったり飲み会に行ったりしてるんですよ」


「そうか。お客様への対応も大切だが、休日は無理せずにな」


「は、はい……」


 渉の焦り具合に、思わず吹き出しそうになるが、広香は必死にこらえ笹塚部長に向かって笑いかけた。


「夫はいつも家で笹塚部長のことよく話してくれるんですよ。すごく尊敬してる上司だって」


 渉は余計なことを言うな!という目で広香の方を見ていたが、広香は気付かぬフリをして言葉を続けた。


「来週は一緒に京都出張なんですよね?大きなプロジェクトだそうで、ご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、夫を何卒よろしくお願いいたします」


 広香がそう言って会釈すると、笹塚部長は驚いた顔で広香と渉を交互に見た。


「京都出張?」


「いや、その、これはですね……」


 口元をヒクつかせながら、必死に言い訳を考えている渉に、広香はきょとんとした顔で「渉さん?どうしたの?」と尋ねた。


 すると、笹塚部長の奥さんは心配そうな顔で、部長の腕を引っ張った。

 

「あなた、京都出張なんてあるの?私、聞いてないけど」


「い、いや、出張なんてないよ!橋田君、誰と間違えてるんだね?」


「すみません、妻は別の話と誤解してるようで……」


 渉が誤魔化すようにヘラヘラ笑うが、同性の笹塚部長には、渉がやましい理由で妻に嘘をついていることがわかったのであろう。先ほどまでのにこやかな雰囲気から打って変わり、「まあいい。この件については、月曜日会社で話そう」と厳しい顔で言った。

 

 渉は不自然なほど何度も瞬きをしながら、ペコペコと頭を下げた。ここまで萎縮する渉を見るのは初めてで、広香は爽快な気分になる。

 

 京都出張が本当か嘘なのかは確信がなく、笹塚部長にこの話をするのは賭けだった。

 しかし二人の様子を見る限り、京都出張など根っからの嘘で、やはり渉はこの時期から不倫をしていたのだ。


 絶対に証拠を掴もう。広香は心の中で強く誓った。

 





 その後の渉は、いまだかつてない不機嫌ぶりだった。

 さすがに人目のつくデパート内で騒ぐことはなかったが、車に乗った途端、渉はバンっとハンドルを叩き、広香を睨みつけた。


「君のせいで、僕のキャリアに傷がついたらどうするつもりだ!」


「ごめんなさい、そんなつもりはなかったの。ただ、渉さんのために……」


「僕のため!?本当にバカでしょーもない女だよ、君は!」


 狭い車内に渉の怒鳴り声が響く。

 嘘をついていた自分の責任であるのに、どうしてこんなに理不尽な怒りをぶつけられるのだろうか。

 本当は渉の髪を掴み、怒鳴り返したい。しかし今はその時ではないのだ。

 

 広香は弱々しい妻を演じ切るために、身体を縮めて「ごめんなさい……」と言った。

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