第2話 あの日に戻ってきた

 広香は自宅から少し離れた公園でようやく足を止め、ベンチの上に座った。

 

 しばらくたっても心臓は鳴り止まず、さっき部屋から聞こえた女の声と、夫の「愛してる」が頭の中で何度も繰り返され、広香は嗚咽を漏らした。


 夫は、私ではない他の女を愛しているのだ。

 いつからだろう。いつから彼は私を裏切っていたのだろうか。

 

 ごめんね、とお腹の子に声をかけながら、涙を拭うが、止まらない。考えなくてはいけないことはたくさんあるはずなのに、泣くことしかできなかった。


「離婚、した方がいいのかな……」


 結婚する時、「1回でも浮気したら、すぐに離婚するからね!」と冗談混じりで言ったことはあるが、いざ夫の不倫現場を目にしても、すぐには離婚を決断できなかった。

 

 夫に対して、もちろん不満はあった。少なくとも莉央が言うような誠実で優しいだけではなく、傷つけられたことは何度もある。だが、結婚前の幸せな思い出が、ずっと広香を支えていた。

 

 付き合っていた頃、渉は周囲に自慢したくなるほど優しかった。けれど、同居生活を始め、家族になったことで、嫌な部分が見えてきてしまっただけ。完璧な夫など、この世にいるはずがないのだ。


 それに、自分たちには子供がいる。片親でも立派に育てている人はいるが、お腹の子にとって、両親二人が揃っている方がいいに決まっている。

 

 自分さえ黙っていれば、知らないフリをしていれば、丸く収まるのかもしれない。浮気しているのも、ただの性欲解消のためであって、子供が産まれれば、夫も浮気なんてしなくなるかもしれない。


 そんなことを考えながら、広香は元気にお腹を蹴り上げる息子を思って泣いた。



 



 色々と考えてみたものの、やはり渉のいる家には帰る勇気がなく、広香は実家に戻ろうと駅に向かって歩き始めた。

 もしかして家に入ったことがバレているかも、と思いスマホを確認したが、渉からの連絡はなかった。


 大通りにまたがる歩道橋を、重い身体でのぼっていく。

 やっと階段を登り切り、橋の上から車通りの多い道路を眺めていると、また涙がこぼれ落ちた。

 

 悲しさや絶望の次には、夫に対する怒りが込み上げてきた。

 広香がお腹の中の子供を必死に守っている一方で、夫は自分の欲望を我慢することなく、知らない女を家にあげ、情事を楽しんでいる。

 

 悪阻で苦しい時も、夫は家事を手伝ってくれるわけでも、支えてくれるわけでもなかった。

 今日はどうしてもご飯の準備ができない、と話すと、夫は一人で外でご飯を食べてきた。

 あの時は、文句も言わずに外で食事を済ませてきてくれる夫に感謝もしていたが、帰ってきた夫はベッドの上で気持ち悪さと戦っている自分に何か買ってきたことはないし、優しい言葉をかけ、背中をさすってくれたこともない。

 

 今思えば、あの時から浮気していたのかもしれない。

 それなのに、バカみたいに夫に感謝していた自分が恥ずかしくて、情けない。



 広香はとめどなく溢れる涙を拭い、歩道橋の階段を降りようと足を踏み出した。

 そして、一段目を降りようとしたその時だった。


「あんたさえいなければ……!」


「え……?」


 後ろから突然聞こえた声に振り返る間もなく、突然背中を押された広香は、そのままぐらりと身体が前に傾くのを感じた。


「きゃあああああ!」


 階段を勢いよく転げ落ち、反射的にお腹を守るも、身体を激しい痛みが襲う。

 

 冷たいコンクリートの上で、広香は下半身から大量の液体が流れているのを感じた。


「赤ちゃんが…………誰か、たすけ……」


 助けを求めながら、意識を失いそうになった広香は、最後の力を振り絞って、自分を突き落とした人間が誰なのかを見ようと、視線をあげた。


 ——あんたさえいなければ


 その言葉を聞いて、夫の不倫相手だと直感的に思ったのだ。だからこそ、自分の家の寝室で夫の愛を全身に受けながら喘いでいた女がどんな顔をしているのか、見てみたかった。

 

 しかし、もうそこには誰もおらず、広香は力尽き、静かに目を閉じた。


(私、このまま死んじゃうの……?赤ちゃん、守ってあげられなくてごめんね。私が早くあの人の不倫に気づいて、離婚できてたら……不倫相手に憎まれることもなく、あなたを迎えられたのに。ごめんね。ダメなママで本当にごめんね)


 そして、広香は完全に意識を失った。






****

 

 身体全体が熱く、あまりの気持ち悪さで広香は目を覚ました。

 ゆっくりと目を開けると、随分と眠っていたのか、視界が白くぼやけ、目元に目やにが溜まっているのがわかる。

 ゴシゴシと目をこすり、ゆっくりと上体を起こした。


(私、生きてる……?)


 すると、突然吐き気が広香を襲い、近くのゴミ箱を引き寄せ、広香は黄色い胃液を吐いた。


「はぁはぁ……気持ち悪……」


 こんな激しい吐き気がこみあげるのは、悪阻の時以来だ。

 吐瀉物で汚れた口元をティッシュで拭いながら辺りを見渡した広香は、ようやく自分が自宅の寝室にいることに気づいた。


「え!?なんで私ここに……階段から落ちてそれで……」


 広香は自分の身体を見るも、怪我をしていないどころか、全身の痛みはすっかりなくなっていた。

 そして……


「私の赤ちゃんは……?」


 ハッとして自分の腹部を見ると、産まれてくるはずの赤子がいた膨らみはまったくなく、身体は妊娠前のように軽かった。


「嘘……嘘でしょ?」


 じわっと目の奥から涙が込み上げる。

 

 まさかお腹の子は死んでしまって、自分はあれから何日もの間気づかずに眠っていたのかもしれない。そう思うと、やるせなさと憎しみで心がいっぱいになった。

 

 しかし、しばらく経って冷静になると、自分の身体には傷一つないのだ。

 試しに服をめくり、自分の腹部や下半身を見てみるが、手術をした形跡もない。


 これは一体どうしたものか、と広香が混乱していると、枕元にあるスマホが鳴った。

 急いでスマホを手に取ると、ホーム画面に映る時刻は19時45分。そして、日付は……


「4月22日!?」


 広香は思わず大きな声を出した。広香の記憶では今日は10月22日のはずだった。

 しかし、スマホに表示されていた日付はまったく違った。

 階段で何者かに突き落とされ、死んだと思っていた自分は、半年前に戻ってきていたのだ。

 

 つまり、お腹の中の子供は無事にここにいる。広香は、目に涙を溜め、まだ少しも膨らんでいないお腹を愛おしそうに何度もさすった。


(これは神様が与えてくれたチャンスなんだ……!この子を守るために、神様は時間を巻き戻してくれた。だったら、私がするべきことは一つだけ……今度こそ、この子を全力で守る……!)


 広香は涙を拭い、スマホにきていた夫からのメッセージを開いた。

 

「今日飲み会。味噌汁用意しといて。しじみの」


 よく見覚えのあるメッセージだった。悪阻が酷かった妊娠3ヶ月ごろ、渉は毎日のように飲んで帰ってきていた。

 渉の何気ないメッセージに殺意が湧く。


「私が悪阻で苦しんでる時に、よく飲み会なんていけるわよね……」


 あの時は、自分に気を遣わないように、外でご飯を食べて帰ってきてくれていると思い込んでいたが、今ならわかる。

 

 あの男は、悪阻に苦しむ妻を慰め、支えるのが面倒なだけなのだ。

 所詮、女は自分の家政婦。使い物にならなければ、邪魔なだけ。


 今考えれば、渉が自分に対してそう思っているのが痛いほどわかるのに。

 

 とにかく広香は、今すぐ考えなければいけなかった。

 どうすれば半年後、お腹の子と自分を殺されずに済むのか。

 どうすればこの最低な夫と、自分たちを殺した不倫相手に、復讐することができるのか。


 広香は気持ち悪さに耐えながら、通勤カバンの中に入っている鍵付きの手帳を取り出した。

 いつも日記代わりに使っていた手帳だ。元々は赤ちゃんへの思いや検診の記録を記載するために買ったものだが、妊娠してから、ストレスを抱えることが増え、こうやってノートに今日あったことや自分の気持ちを整理することで、心を落ち着かせていた。

 

 そして、手帳を開き、今日の日付のページを開くと、ある違和感に気づいた。


 そこにはすでに書き込みがされてあるのだ。

 パラパラと翌日以降のページもめくっていくと、すべて書いてある。

 あの日、階段から突き落とされた日の前日までの日記が、手帳には記されてあった。


「どういうこと……?」


 広香は、記憶はそのままで、半年前の過去に戻ってきていた。この手帳も広香と同じように、過去に戻ってきたというのだろうか。


(もしそうなら、これは使える……!)

 

 広香は手帳をぐっと胸に抱え込んだ。


 

 

 

 



****

 

 深夜1時を回った頃。玄関からガチャリと音が聞こえた。

 渉が帰ってきたのだ。

 

 広香は徐々に近づいてくる足音に気がつきながらも、ベッドで横になり寝たふりをする。

 渉とできるだけ会話をしたくなかったし、今は夫の顔を見ただけで吐いてしまいそうだった。


「あ〜疲れた」


 寝ている広香を気遣うこともなく、大声でそう言いながら、渉は寝室にズカズカと入ってきた。

 酒の匂いが部屋に充満し、広香は思わず口元を押さえ、吐きたいのを必死に我慢する。


 そのまま布団の中でじっとしていると、渉が近づいてくるのがわかった。

 そして、そのまま布団に潜り込んできた。


 酒臭さに耐えきれず、息を止めると、後ろから思い切り抱きしめられた。

 

「広香、起きてるよね?」


 耳に渉の生暖かい息がかかり、全身に鳥肌がたった。気持ち悪い。

 知らないふりをし、ぎゅっと目を瞑るが、渉に力強く腕を引っ張られ、無理やりキスをされた。


「んんっ……!」


 渉の胸板をバンバン叩き必死に抵抗するも、それが余計に彼を興奮させたようで、唇が離れたと思ったら、とんでもないことを口にした。


「舐めてよ」


 渉の言葉に絶句する。


「いれるのは我慢してるんだからさ、それくらいしてよ。いいよね?」


 悪阻で辛い時期だということは知っているはずなのに、渉はそんなことはお構いなしで、性欲解消のために広香を使う。

 妊娠中、セックスができないことに申し訳なさを感じていたこともあったが、今の広香は渉に罪悪感など一ミリも感じていなかった。


 こいつはずっと自分を裏切り、浮気をしていたのだ。


「やめて!」


 広香は渉をぐいと押しやり、起き上がった。


「は?」


 渉の不機嫌そうな声に、一瞬ひるみそうになるも、広香は目を逸らしながら言った。


「悪阻で気持ち悪いの。そんなことできるわけない」


「けど、仕事してるし、普通に食事もしてるよね?悪阻ひどい人は立ち上がれないって聞いたけど、君はまだ軽いほうだろ?」


 体調不良の中、仕事を続けているのも、食事をとっているのも、お腹の子供のためだ。

 決して、楽にこなしているわけではない。こいつはそんなこともわからないのかと、ため息が出る。


「とりあえずもう寝るから。お風呂入ってきてくれる?お酒の匂いで吐き気がするの」


 そう言って、布団をかぶり横になると、渉は大きなため息をついた。


「妊婦様になると、妻の役目も果たせないのか。僕が浮気しても文句言うなよ」


 渉はそう捨て台詞を残し、部屋から出ていった。


 (妊婦様?妻の役目?浮気しても文句言うな?ありえない……!)

 

 絶対にこの男と離婚しよう。広香は固く決意した。

 お腹の子を守るためにも、はやく渉と別れなければならない。

 こんなどうしようもない夫、不倫相手にくれてやる。そうすれば、彼女が自分を憎んで突き落とすこともないはずだ。


 本当は今すぐにでも離婚届を突きつけ別れたいが、世間体や両親の目を気にする夫はそう簡単に離婚を受け入れないだろう。

 離婚を有利に進め、養育費や慰謝料を受け取るためにも、今は従順な妻を演じながら、不倫している証拠を淡々と集めるのだ。


 期限はあと半年。

 今度こそこの子を守る。そう決心して、広香は愛しい命が宿るお腹にそっと触れた。

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