過去に戻ったサレ妻は夫を捨てようと思います【第二回夫にナイショコンテスト佳作作品】
真夏あお
第1話 疑惑が確信に変わる時
昼下がりの休日、
「不倫ものの漫画ってさ、なんでこうも主人公が弱気なわけ?」
莉央の言葉には、怒りが滲み出ており、広香は苦笑いしながら答えた。
「莉央みたいな女が主人公だったら、話すぐ終わっちゃうからじゃないの?」
「そうかもしれないけどさー、読んでてイライラすんだよね。傷ついてメソメソ泣いてる暇あったら、不倫してる男なんてさっさと捨ててやればいいのに!」
「ちょっと!あんまり大きな声で不倫だなんて言わないでよ。子供もいるんだから」
苛立ちを抑えきれずにテーブルをドンと叩いた友人を、広香は思わず小声で諫めた。
休日のファミレスには、家族連れが多く、近くを何度も小さな子供が走り回り、それを母親が必死になって追いかけている。
「ごめんごめん。私さ、マジでこういう系、感情移入しちゃうんだよね」
そう言って、ポリポリと頭を掻いて笑う莉央は、一年ぶりに会う大学時代の友人だ。
大学を卒業してもう六年。二十八歳になった私たちは、不倫漫画の話で盛り上がるような年齢になってしまった。
学生のころは「結婚」なんて遠い先の話、「不倫」なんてドラマの中の話でしかなかったけれど、二年前に結婚し今月出産を控えている広香と、今年彼氏と婚約したばかりの莉央にとっては、「結婚」も「不倫」も他人事ではない。
「けどさ、ああいう漫画読んでると考えちゃうんだよね。私だったら不倫されたら即別れるのに、とか。少しでも怪しいと思ったら、淡々と証拠集めて、旦那も不倫相手もぶち殺してやる、とか」
「莉央、プロポーズされたばっかでしょ?幸せ真っ盛りの時に、そんなことまで考える?普通」
身を乗り出して、不倫された時の妄想を繰り広げている莉央に、広香は呆れて笑った。
「あったりまえじゃない。あいつ、昔から女遊び激しかったからね。婚約したからって、安心できないわよ。顔はかっこいいし、高身長。総合商社勤めで、いい大学も出てるし、何より誰にでも優しい。そんな男、他の女がほっとくわけないじゃん」
「愚痴かと思いきや、惚気ですか」
「あはは、バレた?」
莉央の彼氏とは広香も一度会ったことがあるが、確かに見た目はどこぞのモデルかと思うくらい華やかだったし、初対面の自分にもにこやかに接してくれ、第一印象で「すごくモテるだろうな」と思った記憶がある。
「けど、広香の旦那みたいなさ、いかにも真面目で一度もハメ外したことありません!って人は、浮気の心配ないからいいよねえ。てか、女に興味なさそうだし」
「まあ、ね」
「子供が生まれてからもいいパパになりそう! あれ、男の子だったよね?」
莉央が広香のお腹の方を指して言った。
「うん、男の子。渉さん、もうおもちゃとか、本とかたくさん買ってきてて、家にベビーグッズが溢れかえってる。そんなの使えるのまだまだ先なのにね」
「いいじゃん、子供好きの旦那さん!息子のこと溺愛するんだろうな。多分育児にも積極的に参加するタイプでしょ?あ〜誠実で優しい旦那、羨ましい!」
莉央の言葉に相槌を打つ代わりに微笑んだものの、広香の心の中には黒いモヤが立ち込めていた。
本当に私の夫は、「誠実で優しい夫」なのだろうか。
広香自身も、結婚する前の夫への印象はずっとそうだった。
大学時代からデートはいつもリードしてくれて、広香が財布を出したことは一度もないし、就活で悩んでいる時は優しく相談に乗ってくれた。社会人になってからも、悩む広香に仕事のアドバイスをしてくれたし、頼れる優しい人という印象は変わらなかった。
しかし、結婚し同居を始めてから、彼の印象は少しずつ悪い方向に変わっていったのだ。
少しでも家事を怠るとため息をつき、あからさまに不機嫌になるし、妊娠が発覚した後も仕事を続けたいと言った広香に対して、「女性がいつまでも仕事し続けてどうするの?家庭に入って子育てに専念した方がいいよ」だなんて、時代錯誤も甚だしい言葉を投げかけてきた。
さらに、頻繁に家に来る義母は渉にべったりで、義母の過干渉についてつい愚痴をこぼしてしまった時は、「よく夫の母親の悪口が言えるな!君は何様のつもりなんだ!」とすごい剣幕で怒鳴られ、突き飛ばされた。
あの時は「肩を強く押されただけ」そう思って、自分を納得させていたが、今考えるとあれもDVの一種なのかもしれない。
結婚する前は気づかなかったが、夫婦になってから、渉が男尊女卑の古い考えを持つ人であること、女が家庭を守り、男が外で働くことが当たり前、という環境で育ったこと、女性は基本的に無力で無知で自分より下であると思っていることを知った。
男らしくて優しいと思っていたことはすべて、広香を見下していた故の行動だったのだ。
それでも、潔癖で真面目な夫であることに変わりはなかったため、女性関係や不倫などとは無縁だと思っていた。
だが、一週間前に見てしまったメッセージで、夫に対する信頼は完全に崩れ落ちたのだ。
【❤️:はやく離婚して、私だけの渉さんになってね」
テーブルの上に無造作に置かれたスマホに、浮かび上がっていた一件のメッセージ。登録名はハートマーク。それだけでは一体相手が誰なのかは見当もつかなかったが、夫と男女の関係がある人間だということは誰の目にも明らかだ。
そのメッセージを目にした瞬間、広香の頭の中は真っ白になった。
ただ目の前の文字を理解するのに精一杯で、手足はガクガクと震え、やっとのことで立っていたように思う。
その日から、渉とできるだけ顔を合わせたくなかった広香は、二週間後に予定していた里帰りを早め、群馬の実家に一人帰った。スマホのメッセージを見られたとは知らない渉は、急遽予定を変更した広香に文句を言いつつも、止めることはなかった。
——傷ついてメソメソ泣いてる暇あったら、不倫してる男なんて、さっさと捨ててやればいいのに!
莉央が言うように、自分もそうできると思っていた。
不倫されたとわかれば、冷静に証拠を集め、別居し、離婚を要求する。
そんな当たり前のことなら、誰にだってできると思っていたのに、あのメッセージを見ただけで、広香はもうどうすればいいかわからなくなっていた。
渉のスマホを見て調べようにも、ロックがかかっており、あのメッセージ以外は見ることができなかったし、下手に共通の友人に探りを入れて、夫の耳に入ったらどうしよう、という不安もあった。
何より自分は来月出産を控えているのだ。もうすぐ子供が産まれるというのに離婚だなんて……。そもそもあのメッセージだけでは不倫だと断定できない。じゃあ、どうやって証拠を集めればいい?探偵?弁護士を雇う?まだ断定できないのに、そんなことにお金を使っていいの?
そんな考えが頭の中に充満し、耐えきれなくなった広香は、夫との話し合いのため、今日、東京に戻ってきたのだ。
タイミングよく、会おうと連絡をくれた莉央に相談しようとも思ったが、こんな風に自分の夫を持ち上げられては、「不倫されてるかもしれない」などとは言いにくい。
それにまだ断定はできないのだ。もしかしたら仕事の付き合いで行ったキャバクラの女の子からのメッセージかもしれない。
そんな小さな可能性を信じながら、広香は莉央と別れた後、夫の元に向かった。
****
自宅マンションの前に着くと急に不安になり、思わず口を覆ってしまうほどの吐き気が広香を襲った。
渉には、今日帰ることを伝えていないし、もしかすると、突然帰ってきたことで、不機嫌になるかもしれない。
しかし、このままでは安心して子供を迎えることなどできない。
今日、夫と話さなければいけないのだ。
「隠し事があるなら、子供が産まれる前に全部話してほしい、今なら怒らないから。全部許すから、だから本当のことを言ってほしい」
そう伝えるつもりだった。
万が一、夫が他の誰かと関係を持っていたとしても、冷静になった今なら許せる気がしていた。
妊娠してから子供に何かあったらいけないと、性行為は控えてきた。つまり、半年以上、渉とは身体の関係を持っていないのだ。
女性より性欲の強い男性にとっては、酷なことなのかもしれない。それに、女性とメッセージのやり取りをしていただけで、身体の関係を持っているとは限らないし、キャバ嬢とメッセージのやり取りを楽しむくらいなら、目を瞑って許してやるのがいい妻であるようにも思う。
「よし」
そう声に出して、勇気を奮い立たせた。
エレベーターに乗り、三階にあがる。そして、突き当たりすぐの部屋の前に立ち、深呼吸した。
電気はついている。渉はここにいるのだ。
広香は意を決して、鍵を差し込み、そっとドアノブに手をかけた。
(あれ、鍵開いてる……?)
渉が鍵を閉め忘れたのだろうか。
そのままドアを開けると、懐かしい香りと共に、嗅ぎ覚えのない香りが広香の鼻先をくすぐった。自分の家であるのに、他人の家に入り込んでいくような不思議な感覚に、広香の身体に緊張が走る。
そっとドアを閉め、靴を脱ごうとすると、足元に見覚えのないピンクのパンプスがあることに気づいた。
思わず息が止まる。
この靴は自分のものじゃない。じゃあ、一体誰の……。
「渉さん……好きぃ!好きなのぉ!」
その時、奥の部屋から甲高い女の声が聞こえた。
「だめっ……!もう我慢できないよお!」
「だから大きな声出すなよ。外に聞こえるだろ?」
「じゃあ、好きって言って。奥さんじゃなくて、私のこと愛してるって!」
「なんだよ、心配なのか?あいつはただの家政婦だって言ってるだろ?いつでも捨てられる、形だけの妻だよ」
「はやく……!はやく言ってよぉ!」
「ああ……、僕が愛してるのはお前だけだよ」
その言葉を耳にした瞬間、広香は部屋から出て走り出した。
重い身体を懸命に支え、広香は後ろを振り返ることなく走った。
階段を駆け下り、マンションのエントランスを抜け、人通りの少ない住宅街を必死に走ると、すぐに息が切れたが、それでも足を止めなかった。
私の夫は不倫している。
広香の中にあった疑惑が今、確信に変わったのだ。
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